川口英俊のブログ - 2010

川口英俊のブログ




2010年07月30日(Fri)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想2
さて、「蟻の瓶と象の瓶」の論説の中で、三種の縁起についての説明がございます。

簡単に氏の論説を参照させて頂きますと、

第一層の縁起が、「原因と結果の依存関係」という縁起として、
第二層の縁起が、「部分と全体の依存関係」という縁起として、
第三層の縁起が、「分別によって仮説する」という縁起として、

扱われて説明なされておられます。

この三種の縁起を私の拙い未熟ながらの施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」と僭越ながらも照らし合わさせて頂きますと、

第一層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「時間的先後の因果関係」の縁起として、

第二層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「空間的成立の因果関係」の縁起として、

そして、第三層の縁起については、「第四章 論理的縁起について」における「論理的、相互依存・相互限定・相互相関・相資相依の関係」の縁起として、

もちろん、厳密には、もう少し補足補完が今は必要であるかと反省しておりますが、一応説明させて頂くことができるのではないかと存じております。

三種の縁起の理解は、誠に仏教を学ぶ者にとっては、重大事であり、しっかりと進めていかなければならないと考えております。

何とか補足補完が必要なところをしっかりとまとめて、早期に施本第六弾目に取り組んで参りたいと思っております。

・・

齋藤保高氏の教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご紹介させて頂きましたが、誠に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点を扱っておられまして、改めまして氏の見識の高さにご敬服申し上げる次第でございます。非常に解りやすくしかも簡潔にご解説して下さっておりまして、本当に参考となります。

龍樹論師以降の中観思想学派の展開において、最も懸念されることとなった大きな課題の一つが、「虚無論」への落ち入りをどのようにして防ぐかということであります。「世俗の次元でも自相を否定する」ということの理解と合わせて「深遠なる縁起の理法」を理解するということは、誠に難解至極なる絶妙なバランス(中道)の上においてこそ成り立つというものとなります。この点において教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」の内容は、重要な視座をお示しになられており、是非共にご参考頂ければと存じております。

また、更に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点の理解を補完していく上で考察していかなければならないのが、仏教認識論理学でありまして、特に仏教認識論理学最高峰であるダルマキールティ論師の思想になるかと考えております。とにかく一つ一つでございます。

・・

さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく仏教論著集

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月28日(Wed)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)感想1
先日に齋藤保高氏の教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご紹介させて頂きましたが、誠に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点を扱っておられまして、改めまして氏の見識の高さにご敬服申し上げる次第でございます。非常に解りやすくしかも簡潔にご解説して下さっておりまして、本当に参考となります。

龍樹論師以降の中観思想学派の展開において、最も懸念されることとなった大きな課題の一つが、「虚無論」への落ち入りをどのようにして防ぐかということであります。「世俗の次元でも自相を否定する」ということの理解と合わせて「深遠なる縁起の理法」を理解するということは、誠に難解至極なる絶妙なバランス(中道)の上においてこそ成り立つというものとなります。この点において教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」の内容は、重要な視座をお示しになられており、是非共にご参考頂ければと存じております。

また、更に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点の理解を補完していく上で考察していかなければならないのが、仏教認識論理学でありまして、特に仏教認識論理学最高峰であるダルマキールティ論師の思想になるかと考えております。とにかく一つ一つでございます。

・・

さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく仏教論著集

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月26日(Mon)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


「苦楽中道説について」補足
先日に「苦楽中道説について」を述べさせて頂きました。

その中で、『苦楽二辺を離れた中道についての誤解としては、「苦」と「楽」を離れれば良いという単なる「不二論」に陥りやすいところがあります。それでは逆に「中道」ということが、「何か訳の分からないもの」として、かなり曖昧化されたところに落とし込まれてしまう危険性があります。

それは、単なる「不二論」というのは、結局、そのことを考える各人の独善・偏見・自己都合・自己満足によっての価値判断や恣意的判断を招いてしまって、多種多様、十人十色の「中道」説が生じて、何ら収拾がつかなくなり、更なる混乱を生じさせてしまうだけとなるということであります。』

と述べさせて頂きましたが、これはもう少し補足説明しますと、「苦」も「楽」も「苦でも楽でもない」も、その人その人によって、また、時々、状況に応じても、多様に価値判断が変化してしまうために、「では、何が真なる中道であるのか」ということを誰も決めることはほぼ不可能であると思われるからでございます。

例えば、私と読者の皆さんでは、何が「苦」で、何が「楽」なのか、何が「苦でも楽でもない」のかの価値判断は、千差万別に異なってしまうからであります。世間一般、皆さんが「苦」と思われていることでも、私から見れば「楽」なこともありますし、またその逆も当然に言えるわけであります。私が、「苦でも楽でもない」と考えていることでも、ある方からは、「それは苦だ」、「それは楽だ」となってしまうことももちろんあるでしょう。

ですから、単なる「不二論」、または「苦でも楽でもない」ところとして、苦楽二辺を離れた「中道」とは何かを述べて示すことはほとんど意味のないことであると私は考えています。

それよりも、深遠なる縁起の理法のありよう、空のありようをしっかりと検討し、理解していくことにより、苦楽中道説についても考察していくことが重要であると存じております。


「苦楽中道説について」

お釈迦様のお悟りの内実については、特に有名である「苦楽中道」説という見解があります。

このことについては、「苦楽中道 ゴータマ・ブッダは何を発見したか」という宮元啓一氏の論説がかなり参考となります。

「苦楽中道--ゴータマ・ブッダは何を発見したか」宮元啓一氏
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

「苦楽中道」説は、簡単に述べると欲望を極端に解放した欲楽・快楽の生活(楽)と、あまりに厳しく極端に欲望を抑え込む苦行(苦)とを離れたところにこそ、私たちの本来の進むべき道がある、苦と楽の二辺を離れた第三の道をお釈迦様は発見なされたということであります。

有名なエピソードは、あまりに厳しい苦行を続けてきたお釈迦様は、ある時に、「琴の弦は強く絞めすぎると弦は切れてしまって音が出なくなってしまう。かといって、絞めるのが弱いと弦はゆるんでしまって音が出なくなってしまう。琴の弦は、強くもなく、弱くもない、中くらいに締めたところで丁度良い音が出る。」という村人(一説では、お釈迦様に乳粥を差し出した村娘のスジャータ)の何気ない言葉を聞き、苦楽二辺を離れた中道をお悟りになられたと言われております。

苦と楽の二辺を離れた第三の道とは、宮元啓一氏の論説を参考とさせて頂きますと、「輪廻(=苦)の究極的な原因は根本的な生存欲であり、それを滅ぼすものは智慧であり、そのためには徹底的に輪廻的生存にまつわるすべての事実を観察、考察しなければならない」ということとなるわけであります。

苦楽二辺を離れた中道についての誤解としては、「苦」と「楽」を離れれば良いという単なる「不二論」に陥りやすいところがあります。それでは逆に「中道」ということが、「何か訳の分からないもの」として、かなり曖昧化されたところに落とし込まれてしまう危険性があります。

それは、単なる「不二論」というのは、結局、そのことを考える各人の独善・偏見・自己都合・自己満足によっての価値判断や恣意的判断を招いてしまって、多種多様、十人十色の「中道」説が生じて、何ら収拾がつかなくなり、更なる混乱を生じさせてしまうだけとなるということであります。

そのため、「苦楽中道」を考える時には、何も単に「苦」と「楽」だけに留まらず、「有・無」、「主・客」、「生・死」、「善・悪」、「煩悩・菩提」等、あらゆるモノ・コト(存在・現象・思考概念・コトバの世界)の二辺のありようを「縁起」観にて注意深く思慮・考察し、「空」を理解していかなければならないと考えております。

お釈迦様のお悟りになられた「苦楽中道」の根底には、深遠なる縁起の理法が控えていることを踏まえた上で、お釈迦様の真なるお悟りの内実とは何かを考えていかなければならないと存じております。

深遠なる縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様に最敬礼申し上げます。

川口英俊 合掌 九拝

・・

いよいよツォンカパ論師の著作の中でも重要な論著の一つである「菩提道次第論」を読み進めております。


「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」ツォンカパ論師著
ツルティム ケサン・藤仲 孝司翻訳 UNIO

・・

先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様を始め、ナーガールジュナ論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月12日(Mon)▲ページの先頭へ
「苦楽中道説について」
「苦楽中道説について」

お釈迦様のお悟りの内実については、特に有名である「苦楽中道」説という見解があります。

このことについては、「苦楽中道 ゴータマ・ブッダは何を発見したか」という宮元啓一氏の論説がかなり参考となります。

「苦楽中道--ゴータマ・ブッダは何を発見したか」宮元啓一氏
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

「苦楽中道」説は、簡単に述べると欲望を極端に解放した欲楽・快楽の生活(楽)と、あまりに厳しく極端に欲望を抑え込む苦行(苦)とを離れたところにこそ、私たちの本来の進むべき道がある、苦と楽の二辺を離れた第三の道をお釈迦様は発見なされたということであります。

有名なエピソードは、あまりに厳しい苦行を続けてきたお釈迦様は、ある時に、「琴の弦は強く絞めすぎると弦は切れてしまって音が出なくなってしまう。かといって、絞めるのが弱いと弦はゆるんでしまって音が出なくなってしまう。琴の弦は、強くもなく、弱くもない、中くらいに締めたところで丁度良い音が出る。」という村人(一説では、お釈迦様に乳粥を差し出した村娘のスジャータ)の何気ない言葉を聞き、苦楽二辺を離れた中道をお悟りになられたと言われております。

苦と楽の二辺を離れた第三の道とは、宮元啓一氏の論説を参考とさせて頂きますと、「輪廻(=苦)の究極的な原因は根本的な生存欲であり、それを滅ぼすものは智慧であり、そのためには徹底的に輪廻的生存にまつわるすべての事実を観察、考察しなければならない」ということとなるわけであります。

苦楽二辺を離れた中道についての誤解としては、「苦」と「楽」を離れれば良いという単なる「不二論」に陥りやすいところがあります。それでは逆に「中道」ということが、「何か訳の分からないもの」として、かなり曖昧化されたところに落とし込まれてしまう危険性があります。

それは、単なる「不二論」というのは、結局、そのことを考える各人の独善・偏見・自己都合・自己満足によっての価値判断や恣意的判断を招いてしまって、多種多様、十人十色の「中道」説が生じて、何ら収拾がつかなくなり、更なる混乱を生じさせてしまうだけとなるということであります。

そのため、「苦楽中道」を考える時には、何も単に「苦」と「楽」だけに留まらず、「有・無」、「主・客」、「生・死」、「善・悪」、「煩悩・菩提」等、あらゆるモノ・コト(存在・現象・思考概念・コトバの世界)の二辺のありようを「縁起」観にて注意深く思慮・考察し、「空」を理解していかなければならないと考えております。

お釈迦様のお悟りになられた「苦楽中道」の根底には、深遠なる縁起の理法が控えていることを踏まえた上で、お釈迦様の真なるお悟りの内実とは何かを考えていかなければならないと存じております。

深遠なる縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様に最敬礼申し上げます。

川口英俊 合掌 九拝

・・

いよいよツォンカパ論師の著作の中でも重要な論著の一つである「菩提道次第論」を読み進めております。


「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」ツォンカパ論師著
ツルティム ケサン・藤仲 孝司翻訳 UNIO

・・

先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様を始め、ナーガールジュナ論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

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・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
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「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月01日(Thu)▲ページの先頭へ
「菩提道次第論」(ツォンカパ論師著)を読み始め
いよいよツォンカパ論師の著作の中でも重要な論著の一つである「菩提道次第論」を読み進めております。


「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」ツォンカパ論師著
ツルティム ケサン・藤仲 孝司翻訳 UNIO

・・

先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様を始め、ナーガールジュナ論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月30日(Wed)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の「縁起賛」(ダライ・ラマ14世師・法王猊下法話・講演会「縁起賛と発菩提心」よりの資料から)
さて、先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せてさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い・苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる師であるお釈迦様を始め、龍樹論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となりように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月26日(Sat)▲ページの先頭へ
最極限の狭間
さて、仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

さて、中観思想の学びの進めにおきまして、次に「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始めました。



二部構成で、第一部では、ツォンカパ論師の「ラムツォ・ナムスム」における「出離」・「菩提心」・「正見」の「三要訣」という実に深遠なるチベット仏教における真髄なるところの教えについての解説が成されております。

・・

「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」の再々読を終えまして、ようやくに、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違についての理解が及んできたように存じております。

自相の成立の有無の問題については、更に理解を深めていければと考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
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「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。


2010年06月25日(Fri)▲ページの先頭へ
「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということについて
仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

さて、中観思想の学びの進めにおきまして、次に「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始めました。



二部構成で、第一部では、ツォンカパ論師の「ラムツォ・ナムスム」における「出離」・「菩提心」・「正見」の「三要訣」という実に深遠なるチベット仏教における真髄なるところの教えについての解説が成されております。

・・

「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」の再々読を終えまして、ようやくに、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違についての理解が及んできたように存じております。

自相の成立の有無の問題については、更に理解を深めていければと考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

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「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
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仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
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「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
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「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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施本「佛の道」
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6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。


2010年06月19日(Sat)▲ページの先頭へ
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始め
さて、中観思想の学びの進めにおきまして、次に「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始めました。



二部構成で、第一部では、ツォンカパ論師の「ラムツォ・ナムスム」における「出離」・「菩提心」・「正見」の「三要訣」という実に深遠なるチベット仏教における真髄なるところの教えについての解説が成されております。

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「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」の再々読を終えまして、ようやくに、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違についての理解が及んできたように存じております。

自相の成立の有無の問題については、更に理解を深めていければと考えております。

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仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
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 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

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さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

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倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

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日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。


2010年06月10日(Thu)▲ページの先頭へ
アルボムッレ・スマナサーラ大長老様と会談
6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。

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さて、仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月03日(Thu)▲ページの先頭へ
「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」
さて、仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

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倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

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日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月02日(Wed)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の中観思想・「言説有」の理解
仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

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仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

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さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年05月30日(Sun)▲ページの先頭へ
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終え
仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

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倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

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日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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2010年05月28日(Fri)▲ページの先頭へ
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を追加
中観思想の学びのための本を新たに追加しました。

『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳


少し時間が掛かりましたがようやくに手に入れることができました。

この本は正直なところ読み進めるのをかなり楽しみにしています。「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」を読み終えてから即座に取り組みたいと存じております。

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さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年05月27日(Thu)▲ページの先頭へ
大法輪寺・田口学法師
先日に8年ほど前に、私が寺院のこれからのあり方、改革について考察している中において、ネットを調べていくうちに知り合いとなり、それから色々とメールで意見交換させて頂きまして、また、アドバイスを賜っておりました大法輪寺のご住職・田口学法師のもとへと行って参りました。

一度、当寺院での勉強会にもお越し頂きながら、それ以来、メールでのやり取りが主であり、お会いするのはご無沙汰しておりまして、8年ぶりに再会させて頂きました。お変わりなく、志熱く、寺院改革活動、法務に日々取り組んでおられます。

これからのお寺のあり方、僧侶としての生き方について熱く長時間にわたって、ご指導を賜りました。お教え賜りましたことを真摯に受けとめて、鋭意、精進努力して参りたいと考えております。本当にありがとうございました。また、必ずお会いしに伺おうと存じます。その時までには、しっかりと法務、作務、仏法真理考究、社会活動・市民活動と、一つ一つ取り組む中で、一回り、二回りと成長していって参りたいと思っております。合掌。

『葬式仏教が真実なら 私は坊主をやめる!』
霊鷲山・大法輪寺(無宗派・単立寺院・大分県速見郡日出町大神)
http://www.kyssystem.com/~daihourin/
「檀家制度の上にあぐらをかき、葬式仏教と言われる今の仏教・寺の在り方に疑問を持ちませんか? 葬式が高い、寄付を度々要求される、説教・法話ができない等々。釈迦・宗祖 ・開祖が命がけで法・真理を弘められたのはいったい何だったのか、宗祖・開祖の名を かたり自らの生活の安定を計る為の手段であって良いのだろうか。」

大法輪寺の紹介
http://www.kyssystem.com/~daihourin/

是非、大分県へと行かれる機会がありましたら、事前にご連絡なされてお訪ねになられるのも良いかと存じます。

玄関


不動さん(通称・ハグ不動)

迫力ある三面不動さん

後背・火焔

煩悩を焼き尽くす迦楼羅焔(かるらえん)の上昇部には、学法さんの後ろ姿、宇宙船の円盤、そして、十字架のマークもあり、色々と考えさせられます。

ご本堂


テラスから、別府湾・高崎山を望む

すばらしい光景でした

本堂の漆喰の壁には、蓮を持った天使の姿も。。


別府・別院

不採算により売却に出された公共の保養施設を利用しての別院。納骨堂も備えられています。

ご本堂


法事の間


別府市街・別府湾を一望


学法師のギャラリー


学法師は、毛筆ではなく素手(手の甲)で作品を描かれます。


グッズ販売

法務の経費などもまかなわれておられます。

別院・額

学法師と犬

坊主が吠える がくほう独り言 写真日記
http://www2.diary.ne.jp/user/121029/

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さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年05月14日(Fri)▲ページの先頭へ
中観思想
『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年04月04日(Sun)▲ページの先頭へ
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」を追加
仏教論考書・追加

「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社


施本第六弾の執筆へ向けまして、仏法真理の考究を鋭意努力して進めております。中観思想の学びを前進させて、何とかお盆までには発行を目指して参ります。

「ツォンカパ 中観哲学の研究4」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)下、を読み進め中。

施本第六弾執筆へ向けて集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究T」
「ツォンカパ 中観哲学の研究U」
「ツォンカパ 中観哲学の研究V」
「ツォンカパ 中観哲学の研究W」
「ツォンカパ 中観哲学の研究X」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

「インド仏教思想・中期から後期の展開について」 川口 英俊 拝

 さて、昨年末までのほぼ二年間にわたりまして、浅学菲才の未熟者ではございますが、初期仏教から中期大乗仏教までの学びを私なりに進めさせて頂いて参りました。

 この間、法要の際に皆様に配布させて頂きます施本を著させて頂きまして、その学びの私なりの成果をお示しさせて頂いて参りました。現在は、特に龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想から更に展開された帰謬論証派の思想につきましての学びを進めさせて頂いております。

 さて、中期大乗仏教におきましては、中観思想・唯識思想の発展に伴ってキラ星のごとくに学者・論師が輩出され、仏教論理学・認識学は大いに議論が展開されて参りました。

 唯識思想から初期仏教論理学を大成したディグナーガ論師、ディグナーガ論師の論理学を中観思想の立場から方法論を確立させたバーヴィヴェーカ論師(中観自立論証派)、そのバーヴィヴェーカ論師を批判し、中観思想を更に発展させたチャンドラキールティ論師(中観帰謬論証派)、ディグナーガ論師の論理学を唯識思想の立場から発展させ、インド論理学最高峰とされるダルマキールティ論師、更にダルマキールティ論師の立場を中観思想の立場から発展させたジュニャーナガルバ論師・シャーンタラクシタ論師・カマラシーラ論師・ハリバドラ論師などが登場し、唯識思想とも統合して論理学・認識学を発展させ、瑜伽行唯識学派と共に瑜伽行中観学派も形成されました。

 やがてインドにおいて仏教が衰退すると、その後はチベットにおいて仏教論理学・認識学の議論が展開されて参りますが、チベットでは、代々のダライ・ラマが所属するゲルク派(黄帽派)の開祖であるツォンカパ論師によって、チャンドラキールティ論師以来の中観帰謬論証派の思想発展が最高潮に達し、チベット仏教教学が確立されることとなりました。チベットの仏教と言いますと、どうしても「密教」というイメージが前面に出て参りますが、私はチベット密教を理解する上では、その前提として中観思想の学びは欠かすことができないものであると考えております。

 とにかく、これから取り組みを目指しております後期大乗仏教の学びのためには、中観思想・唯識思想の学び、論理学・認識学の学びは非常に重要であり、難解ながらもしっかりと進めなければならないと存じております。

 これまで私なりに学びまして理解して参りましたことにつきましては、これまで発行させて頂いております「施本シリーズ」をお読み下さいましたら幸いでございます。ホームページでも公開させて頂いております。また、更に最新の論考をまとめて発行できましたらと考えております。


「中観帰謬論証派の学びのススメ」 川口 英俊 拝

 現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

 現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

 インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

 そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

 上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

 これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

 このことを解決するのは、龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想にあり、特にインド・チャンドラキールティ論師からチベット・ゲルク派の開祖・ツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

 龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

 とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

 一つは、中論にございます「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』〈中論の邦訳は〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用〉ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

 何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身でありながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないと考えております。

・・

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年03月06日(Sat)▲ページの先頭へ
島村大心師の最新アップロード論文29「真如熏習の真意――主として法蔵による理解」を拝読
島村大心師の最新アップロード論文29「真如熏習の真意――主として法蔵による理解」を拝読させて頂きました。

誠に浅学の未熟者ですが、真如の無作用性、真如熏習、染浄二分よりなる如来蔵、自性清浄心とそれぞれの理解がある程度及んで参りまして、更に先生が論文 29に付記なされておられます「真如の分類」の整理は、真如の内実真意の理解へ向けて非常に重要な視座であると考えております。

・・

島村大心師の最新アップロード論文・22「中国仏教における非情成仏説の真意について」を拝読させて頂きました。

中国で展開された(非情仏性・非情成仏)仏性思想とインド大乗仏教における仏性思想との比較検討におきまして、先生の「空の公理・真理命題・定理」からの緻密なる考察アプローチに改めまして、敬意を表させて頂くところでございます。

もちろん、まだまだでございますが、この浅学非才の未熟者にもある程度理解が及ぶところもありまして、膨大なる論難書に当たらずとも先生のご論文によってある程度の概要理解を掴めさせて頂けますことは、本当に有り難いことであると考えております。

先生の長期の辛苦によりますご論考、ご考究の成果の法雨にあずかることができまして、深く感謝致しております。

論文の22を拝読させて頂きまして、自身におきましては、改めまして、先生の「空の公理・真理命題・定理」の理解、「仏性と真如の関係性」の理解、「二諦」の理解を更に深めていかなければならないと猛省致しております。

本当に先生の「空の公理・真理命題・定理」は、顕教としての仏教を理解していく上で非常に重要な視座であると考えております。

島村大心先生の「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・二○○四年七月三十一日]

・・

島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におきまして、島村大心師の2月28日付けご論文がアップロードなされております。是非、皆様におかれましてもご熟読、ご熟考の程を賜れましたらと存じております。

誠に浅学非才の未熟者ではございますが、師が長年のご考究にてまとめておられます「真如の分類」・「真如の内実」につきまして、鋭意学びを進めさせて頂こうと存じております。

・・

下記は、平成22年・春彼岸配布の一般用しおりに添付させて頂きます私の拙文でございます。施本第六弾の発行が間に合いませんでしたので、その代わりとしての拙文となります。

「インド仏教思想・中期から後期の展開について」 川口 英俊 拝

 さて、昨年末までのほぼ二年間にわたりまして、浅学菲才の未熟者ではございますが、初期仏教から中期大乗仏教までの学びを私なりに進めさせて頂いて参りました。

 この間、法要の際に皆様に配布させて頂きます施本を著させて頂きまして、その学びの私なりの成果をお示しさせて頂いて参りました。現在は、特に龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想から更に展開された帰謬論証派の思想につきましての学びを進めさせて頂いております。

 さて、中期大乗仏教におきましては、中観思想・唯識思想の発展に伴ってキラ星のごとくに学者・論師が輩出され、仏教論理学・認識学は大いに議論が展開されて参りました。

 唯識思想から初期仏教論理学を大成したディグナーガ論師、ディグナーガ論師の論理学を中観思想の立場から方法論を確立させたバーヴィヴェーカ論師(中観自立論証派)、そのバーヴィヴェーカ論師を批判し、中観思想を更に発展させたチャンドラキールティ論師(中観帰謬論証派)、ディグナーガ論師の論理学を唯識思想の立場から発展させ、インド論理学最高峰とされるダルマキールティ論師、更にダルマキールティ論師の立場を中観思想の立場から発展させたジュニャーナガルバ論師・シャーンタラクシタ論師・カマラシーラ論師・ハリバドラ論師などが登場し、唯識思想とも統合して論理学・認識学を発展させ、瑜伽行唯識学派と共に瑜伽行中観学派も形成されました。

 やがてインドにおいて仏教が衰退すると、その後はチベットにおいて仏教論理学・認識学の議論が展開されて参りますが、チベットでは、代々のダライ・ラマが所属するゲルク派(黄帽派)の開祖であるツォンカパ論師によって、チャンドラキールティ論師以来の中観帰謬論証派の思想発展が最高潮に達し、チベット仏教教学が確立されることとなりました。チベットの仏教と言いますと、どうしても「密教」というイメージが前面に出て参りますが、私はチベット密教を理解する上では、その前提として中観思想の学びは欠かすことができないものであると考えております。

 とにかく、これから取り組みを目指しております後期大乗仏教の学びのためには、中観思想・唯識思想の学び、論理学・認識学の学びは非常に重要であり、難解ながらもしっかりと進めなければならないと存じております。

 これまで私なりに学びまして理解して参りましたことにつきましては、これまで発行させて頂いております「施本シリーズ」をお読み下さいましたら幸いでございます。ホームページでも公開させて頂いております。また、更に最新の論考をまとめて発行できましたらと考えております。


「中観帰謬論証派の学びのススメ」 川口 英俊 拝

 現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

 現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

 インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

 そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

 上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

 これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

 このことを解決するのは、龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想にあり、特にインド・チャンドラキールティ論師からチベット・ゲルク派の開祖・ツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

 龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

 とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

 一つは、中論にございます「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』〈中論の邦訳は〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用〉ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

 何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身でありながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないと考えております。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

・・

さて、島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におけます掲示板におきまして、いつも意見交換させて頂いておりますS・イマムラ先生が、「C点による仏教的宇宙論」を著されて、そのご報告がございました。

「C点による仏教的宇宙論」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/

非常に仏教要諦の「縁起と空」を理解していく上でも重要な論考でございますので、是非、お読みになられましたらと存じております。先生の変わらない真理考究の情熱に厚く敬意を表しますと共に、すばらしい内容に、誠に感極まっております。

・・

現在、仏教真理の考究につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究3」の論著からの学びを進めておりますが、中途で急激にペースダウンしてしまいましたものの、何とかペースを取り戻してまもなく読み終えます。誠にツォンカパ論師の中観思想を学んでゆく上で重要な論著であるかと存じております。ただ、もはや春彼岸での施本第六弾配布は間に合わない状況下でございますが、ある程度の方向性はつかめて参りましたので、鋭意に執筆に取り組み、お盆までには何とか発行したいと考えております。

「ツォンカパ 中観哲学の研究3」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)上。


いよいよツォンカパ論師の中観思想を考究する上でも重要な論書を読み進めて参ります。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年03月04日(Thu)▲ページの先頭へ
島村大心師の最新アップロード論文・22「中国仏教における非情成仏説の真意について」を拝読
本日に、島村大心師の最新アップロード論文・22「中国仏教における非情成仏説の真意について」を拝読させて頂きました。

中国で展開された(非情仏性・非情成仏)仏性思想とインド大乗仏教における仏性思想との比較検討におきまして、先生の「空の公理・真理命題・定理」からの緻密なる考察アプローチに改めまして、敬意を表させて頂くところでございます。

もちろん、まだまだでございますが、この浅学非才の未熟者にもある程度理解が及ぶところもありまして、膨大なる論難書に当たらずとも先生のご論文によってある程度の概要理解を掴めさせて頂けますことは、本当に有り難いことであると考えております。

先生の長期の辛苦によりますご論考、ご考究の成果の法雨にあずかることができまして、深く感謝致しております。

論文の22を拝読させて頂きまして、自身におきましては、改めまして、先生の「空の公理・真理命題・定理」の理解、「仏性と真如の関係性」の理解、「二諦」の理解を更に深めていかなければならないと猛省致しております。

本当に先生の「空の公理・真理命題・定理」は、顕教としての仏教を理解していく上で非常に重要な視座であると考えております。

島村大心先生の「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・二○○四年七月三十一日]

・・

島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におきまして、島村大心師の2月28日付けご論文がアップロードなされております。是非、皆様におかれましてもご熟読、ご熟考の程を賜れましたらと存じております。

誠に浅学非才の未熟者ではございますが、師が長年のご考究にてまとめておられます「真如の分類」・「真如の内実」につきまして、鋭意学びを進めさせて頂こうと存じております。

・・

下記は、平成22年・春彼岸配布の一般用しおりに添付させて頂きます私の拙文でございます。施本第六弾の発行が間に合いませんでしたので、その代わりとしての拙文となります。

「インド仏教思想・中期から後期の展開について」 川口 英俊 拝

 さて、昨年末までのほぼ二年間にわたりまして、浅学菲才の未熟者ではございますが、初期仏教から中期大乗仏教までの学びを私なりに進めさせて頂いて参りました。

 この間、法要の際に皆様に配布させて頂きます施本を著させて頂きまして、その学びの私なりの成果をお示しさせて頂いて参りました。現在は、特に龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想から更に展開された帰謬論証派の思想につきましての学びを進めさせて頂いております。

 さて、中期大乗仏教におきましては、中観思想・唯識思想の発展に伴ってキラ星のごとくに学者・論師が輩出され、仏教論理学・認識学は大いに議論が展開されて参りました。

 唯識思想から初期仏教論理学を大成したディグナーガ論師、ディグナーガ論師の論理学を中観思想の立場から方法論を確立させたバーヴィヴェーカ論師(中観自立論証派)、そのバーヴィヴェーカ論師を批判し、中観思想を更に発展させたチャンドラキールティ論師(中観帰謬論証派)、ディグナーガ論師の論理学を唯識思想の立場から発展させ、インド論理学最高峰とされるダルマキールティ論師、更にダルマキールティ論師の立場を中観思想の立場から発展させたジュニャーナガルバ論師・シャーンタラクシタ論師・カマラシーラ論師・ハリバドラ論師などが登場し、唯識思想とも統合して論理学・認識学を発展させ、瑜伽行唯識学派と共に瑜伽行中観学派も形成されました。

 やがてインドにおいて仏教が衰退すると、その後はチベットにおいて仏教論理学・認識学の議論が展開されて参りますが、チベットでは、代々のダライ・ラマが所属するゲルク派(黄帽派)の開祖であるツォンカパ論師によって、チャンドラキールティ論師以来の中観帰謬論証派の思想発展が最高潮に達し、チベット仏教教学が確立されることとなりました。チベットの仏教と言いますと、どうしても「密教」というイメージが前面に出て参りますが、私はチベット密教を理解する上では、その前提として中観思想の学びは欠かすことができないものであると考えております。

 とにかく、これから取り組みを目指しております後期大乗仏教の学びのためには、中観思想・唯識思想の学び、論理学・認識学の学びは非常に重要であり、難解ながらもしっかりと進めなければならないと存じております。

 これまで私なりに学びまして理解して参りましたことにつきましては、これまで発行させて頂いております「施本シリーズ」をお読み下さいましたら幸いでございます。ホームページでも公開させて頂いております。また、更に最新の論考をまとめて発行できましたらと考えております。


「中観帰謬論証派の学びのススメ」 川口 英俊 拝

 現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

 現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

 インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

 そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

 上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

 これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

 このことを解決するのは、龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想にあり、特にインド・チャンドラキールティ論師からチベット・ゲルク派の開祖・ツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

 龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

 とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

 一つは、中論にございます「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』〈中論の邦訳は〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用〉ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

 何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身でありながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないと考えております。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

・・

さて、島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におけます掲示板におきまして、いつも意見交換させて頂いておりますS・イマムラ先生が、「C点による仏教的宇宙論」を著されて、そのご報告がございました。

「C点による仏教的宇宙論」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/

非常に仏教要諦の「縁起と空」を理解していく上でも重要な論考でございますので、是非、お読みになられましたらと存じております。先生の変わらない真理考究の情熱に厚く敬意を表しますと共に、すばらしい内容に、誠に感極まっております。

・・

現在、仏教真理の考究につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究3」の論著からの学びを進めておりますが、中途で急激にペースダウンしてしまいましたものの、何とかペースを取り戻してまもなく読み終えます。誠にツォンカパ論師の中観思想を学んでゆく上で重要な論著であるかと存じております。ただ、もはや春彼岸での施本第六弾配布は間に合わない状況下でございますが、ある程度の方向性はつかめて参りましたので、鋭意に執筆に取り組み、お盆までには何とか発行したいと考えております。

「ツォンカパ 中観哲学の研究3」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)上。


いよいよツォンカパ論師の中観思想を考究する上でも重要な論書を読み進めて参ります。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年03月01日(Mon)▲ページの先頭へ
島村大心師 最新ご論文のアップロード案内
島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におきまして、島村大心師の2月28日付けご論文がアップロードなされております。是非、皆様におかれましてもご熟読、ご熟考の程を賜れましたらと存じております。

誠に浅学非才の未熟者ではございますが、師が長年のご考究にてまとめておられます「真如の分類」・「真如の内実」につきまして、鋭意学びを進めさせて頂こうと存じております。

・・

下記は、平成22年・春彼岸配布の一般用しおりに添付させて頂きます私の拙文でございます。施本第六弾の発行が間に合いませんでしたので、その代わりとしての拙文となります。

「インド仏教思想・中期から後期の展開について」 川口 英俊 拝

 さて、昨年末までのほぼ二年間にわたりまして、浅学菲才の未熟者ではございますが、初期仏教から中期大乗仏教までの学びを私なりに進めさせて頂いて参りました。

 この間、法要の際に皆様に配布させて頂きます施本を著させて頂きまして、その学びの私なりの成果をお示しさせて頂いて参りました。現在は、特に龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想から更に展開された帰謬論証派の思想につきましての学びを進めさせて頂いております。

 さて、中期大乗仏教におきましては、中観思想・唯識思想の発展に伴ってキラ星のごとくに学者・論師が輩出され、仏教論理学・認識学は大いに議論が展開されて参りました。

 唯識思想から初期仏教論理学を大成したディグナーガ論師、ディグナーガ論師の論理学を中観思想の立場から方法論を確立させたバーヴィヴェーカ論師(中観自立論証派)、そのバーヴィヴェーカ論師を批判し、中観思想を更に発展させたチャンドラキールティ論師(中観帰謬論証派)、ディグナーガ論師の論理学を唯識思想の立場から発展させ、インド論理学最高峰とされるダルマキールティ論師、更にダルマキールティ論師の立場を中観思想の立場から発展させたジュニャーナガルバ論師・シャーンタラクシタ論師・カマラシーラ論師・ハリバドラ論師などが登場し、唯識思想とも統合して論理学・認識学を発展させ、瑜伽行唯識学派と共に瑜伽行中観学派も形成されました。

 やがてインドにおいて仏教が衰退すると、その後はチベットにおいて仏教論理学・認識学の議論が展開されて参りますが、チベットでは、代々のダライ・ラマが所属するゲルク派(黄帽派)の開祖であるツォンカパ論師によって、チャンドラキールティ論師以来の中観帰謬論証派の思想発展が最高潮に達し、チベット仏教教学が確立されることとなりました。チベットの仏教と言いますと、どうしても「密教」というイメージが前面に出て参りますが、私はチベット密教を理解する上では、その前提として中観思想の学びは欠かすことができないものであると考えております。

 とにかく、これから取り組みを目指しております後期大乗仏教の学びのためには、中観思想・唯識思想の学び、論理学・認識学の学びは非常に重要であり、難解ながらもしっかりと進めなければならないと存じております。

 これまで私なりに学びまして理解して参りましたことにつきましては、これまで発行させて頂いております「施本シリーズ」をお読み下さいましたら幸いでございます。ホームページでも公開させて頂いております。また、更に最新の論考をまとめて発行できましたらと考えております。


「中観帰謬論証派の学びのススメ」 川口 英俊 拝

 現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

 現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

 インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

 そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

 上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

 これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

 このことを解決するのは、龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想にあり、特にインド・チャンドラキールティ論師からチベット・ゲルク派の開祖・ツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

 龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

 とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

 一つは、中論にございます「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』〈中論の邦訳は〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用〉ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

 何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身でありながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないと考えております。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

・・

さて、島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におけます掲示板におきまして、いつも意見交換させて頂いておりますS・イマムラ先生が、「C点による仏教的宇宙論」を著されて、そのご報告がございました。

「C点による仏教的宇宙論」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/

非常に仏教要諦の「縁起と空」を理解していく上でも重要な論考でございますので、是非、お読みになられましたらと存じております。先生の変わらない真理考究の情熱に厚く敬意を表しますと共に、すばらしい内容に、誠に感極まっております。

・・

現在、仏教真理の考究につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究3」の論著からの学びを進めておりますが、中途で急激にペースダウンしてしまいましたものの、何とかペースを取り戻してまもなく読み終えます。誠にツォンカパ論師の中観思想を学んでゆく上で重要な論著であるかと存じております。ただ、もはや春彼岸での施本第六弾配布は間に合わない状況下でございますが、ある程度の方向性はつかめて参りましたので、鋭意に執筆に取り組み、お盆までには何とか発行したいと考えております。

「ツォンカパ 中観哲学の研究3」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)上。


いよいよツォンカパ論師の中観思想を考究する上でも重要な論書を読み進めて参ります。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年02月28日(Sun)▲ページの先頭へ
平成22年・春彼岸配布一般用しおり添付の拙文
下記は、平成22年・春彼岸配布の一般用しおりに添付させて頂きます私の拙文でございます。施本第六弾の発行が間に合いませんでしたので、その代わりとしての拙文となります。

「インド仏教思想・中期から後期の展開について」 川口 英俊 拝

 さて、昨年末までのほぼ二年間にわたりまして、浅学菲才の未熟者ではございますが、初期仏教から中期大乗仏教までの学びを私なりに進めさせて頂いて参りました。

 この間、法要の際に皆様に配布させて頂きます施本を著させて頂きまして、その学びの私なりの成果をお示しさせて頂いて参りました。現在は、特に龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想から更に展開された帰謬論証派の思想につきましての学びを進めさせて頂いております。

 さて、中期大乗仏教におきましては、中観思想・唯識思想の発展に伴ってキラ星のごとくに学者・論師が輩出され、仏教論理学・認識学は大いに議論が展開されて参りました。

 唯識思想から初期仏教論理学を大成したディグナーガ論師、ディグナーガ論師の論理学を中観思想の立場から方法論を確立させたバーヴィヴェーカ論師(中観自立論証派)、そのバーヴィヴェーカ論師を批判し、中観思想を更に発展させたチャンドラキールティ論師(中観帰謬論証派)、ディグナーガ論師の論理学を唯識思想の立場から発展させ、インド論理学最高峰とされるダルマキールティ論師、更にダルマキールティ論師の立場を中観思想の立場から発展させたジュニャーナガルバ論師・シャーンタラクシタ論師・カマラシーラ論師・ハリバドラ論師などが登場し、唯識思想とも統合して論理学・認識学を発展させ、瑜伽行唯識学派と共に瑜伽行中観学派も形成されました。

 やがてインドにおいて仏教が衰退すると、その後はチベットにおいて仏教論理学・認識学の議論が展開されて参りますが、チベットでは、代々のダライ・ラマが所属するゲルク派(黄帽派)の開祖であるツォンカパ論師によって、チャンドラキールティ論師以来の中観帰謬論証派の思想発展が最高潮に達し、チベット仏教教学が確立されることとなりました。チベットの仏教と言いますと、どうしても「密教」というイメージが前面に出て参りますが、私はチベット密教を理解する上では、その前提として中観思想の学びは欠かすことができないものであると考えております。

 とにかく、これから取り組みを目指しております後期大乗仏教の学びのためには、中観思想・唯識思想の学び、論理学・認識学の学びは非常に重要であり、難解ながらもしっかりと進めなければならないと存じております。

 これまで私なりに学びまして理解して参りましたことにつきましては、これまで発行させて頂いております「施本シリーズ」をお読み下さいましたら幸いでございます。ホームページでも公開させて頂いております。また、更に最新の論考をまとめて発行できましたらと考えております。


「中観帰謬論証派の学びのススメ」 川口 英俊 拝

 現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

 現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

 インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

 そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

 上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

 これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。
結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

 このことを解決するのは、龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の中観思想にあり、特にインド・チャンドラキールティ論師からチベット・ゲルク派の開祖・ツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

 龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

 とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

 一つは、中論にございます「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』〈中論の邦訳は〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用〉ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

 何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身でありながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないと考えております。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

・・

さて、島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におけます掲示板におきまして、いつも意見交換させて頂いておりますS・イマムラ先生が、「C点による仏教的宇宙論」を著されて、そのご報告がございました。

「C点による仏教的宇宙論」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/

非常に仏教要諦の「縁起と空」を理解していく上でも重要な論考でございますので、是非、お読みになられましたらと存じております。先生の変わらない真理考究の情熱に厚く敬意を表しますと共に、すばらしい内容に、誠に感極まっております。

・・

現在、仏教真理の考究につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究3」の論著からの学びを進めておりますが、中途で急激にペースダウンしてしまいましたものの、何とかペースを取り戻してまもなく読み終えます。誠にツォンカパ論師の中観思想を学んでゆく上で重要な論著であるかと存じております。ただ、もはや春彼岸での施本第六弾配布は間に合わない状況下でございますが、ある程度の方向性はつかめて参りましたので、鋭意に執筆に取り組み、お盆までには何とか発行したいと考えております。

「ツォンカパ 中観哲学の研究3」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)上。


いよいよツォンカパ論師の中観思想を考究する上でも重要な論書を読み進めて参ります。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年02月22日(Mon)▲ページの先頭へ
C点による仏教的宇宙論紹介
さて、島村大心師のサイト「現代仏教学を再生するためのホームページ」におけます掲示板におきまして、いつも意見交換させて頂いておりますS・イマムラ先生が、「C点による仏教的宇宙論」を著されて、そのご報告がございました。

「C点による仏教的宇宙論」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ucyuu/

非常に仏教要諦の「縁起と空」を理解していく上でも重要な論考でございますので、是非、お読みになられましたらと存じております。先生の変わらない真理考究の情熱に厚く敬意を表しますと共に、すばらしい内容に、誠に感極まっております。

・・

現在、仏教真理の考究につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究3」の論著からの学びを進めておりますが、中途で急激にペースダウンしてしまいましたものの、何とかペースを取り戻してまもなく読み終えます。誠にツォンカパ論師の中観思想を学んでゆく上で重要な論著であるかと存じております。ただ、もはや春彼岸での施本第六弾配布は間に合わない状況下でございますが、ある程度の方向性はつかめて参りましたので、鋭意に執筆に取り組み、お盆までには何とか発行したいと考えております。

「ツォンカパ 中観哲学の研究3」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)上。


いよいよツォンカパ論師の中観思想を考究する上でも重要な論書を読み進めて参ります。

「中観帰謬論証派の学びのススメ」

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年02月03日(Wed)▲ページの先頭へ
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」を読み進め
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」・「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み終えました。

誠に縁起・空性の理解、中観思想の展開を学ぶ上で、重要な論著であります。また何度か読み直して参りたいと考えております。

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究3」・ケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ著 深遠な空性の真実を明らかにする論書・幸いなる者の開眼(千薬大論)上を読み進めて参ります。


いよいよツォンカパ論師の中観思想を考究する上でも重要な論書を読み進めて参ります。

「中観帰謬論証派の学びのススメ」

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年01月27日(Wed)▲ページの先頭へ
中観帰謬論証派の学びのススメ
現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年01月18日(Mon)▲ページの先頭へ
入中論の意趣善明の鏡
現在、読み進めを行っております「ツォンカパ中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」は、実にすばらしい論著であると感嘆しながら読み進めております。いわゆる菩薩道の要説である十地論に基づいて空思想・中観思想がまとめられているものであります。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒される限りでございます。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進め中。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著であります。その入中論を注釈された論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1〜2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年01月15日(Fri)▲ページの先頭へ
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」を読み進め
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」をまず一読終えまして、次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進めて参ります。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師による龍樹論師「中論」の注釈書の代表論著であります。その入中論を更に注釈した論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1〜2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年01月11日(Mon)▲ページの先頭へ
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」を読み進め中
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」を読み進め中。

レクシェーニンポ・中観章 チベット語原典と対照和訳

和訳内容につきましては半分ほど理解が及んでいるように思います。おそらく1〜2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究T」
「ツォンカパ 中観哲学の研究U」
「ツォンカパ 中観哲学の研究V」
「ツォンカパ 中観哲学の研究W」
「ツォンカパ 中観哲学の研究X」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


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「チベット密教 心の修行」

ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館

「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」

ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、まずは「チベット仏教哲学・松本史朗著・大蔵出版」の再々読を始めました。次は「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定・四津谷孝道著・大蔵出版」の再々読でございます。それから更に必要な論著の読み進めを行って参ります。

→「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究T」
「ツォンカパ 中観哲学の研究U」
「ツォンカパ 中観哲学の研究V」
「ツォンカパ 中観哲学の研究W」
「ツォンカパ 中観哲学の研究X」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」

ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO

「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」

チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳

「チベット密教 修行の設計図」

斎藤保高著・春秋社

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、まずは「チベット仏教哲学・松本史朗著・大蔵出版」の再々読を始めました。次は「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定・四津谷孝道著・大蔵出版」の再々読でございます。それから更に必要な論著の読み進めを行って参ります。

→「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究T」
「ツォンカパ 中観哲学の研究U」
「ツォンカパ 中観哲学の研究V」
「ツォンカパ 中観哲学の研究W」
「ツォンカパ 中観哲学の研究X」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

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