川口英俊のブログ - 2010/09/26

川口英俊のブログ




2010年09月26日(Sun)▲ページの先頭へ
「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
さて、少し余談となりますが、長い間、購入してからそのまま本棚に並んでおりました「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を松本氏の「チベット仏教哲学」の再々再読を進めていく中で、少し読んでおきたくなり、ざっとでありますが、初めて一読致しました。

松本氏の「如来蔵思想批判」の各論考は、現代仏教を再構築する上でも、欠かせない重要な内容が扱われていると考えております。大乗仏教思想の展開において、「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」のもたらしてきた弊害の甚大さ、深刻さは計り知れないものがある一端が伺えます。仏教の原点回帰へ向けての困難さの解決は、いかにして「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」を現代仏教から完全に払拭させうるかどうかに懸かっていると言っても過言ではありません。

私は、如来蔵思想・仏性思想・本覚思想を現代仏教から完全に払拭させるヒントの一つが、ツォンカパ論師の中観思想の学びにあると至ったのは、ここ一年ほどのことであります。既に十年近く仏教に携わっていながらも、それまでは、一体、何が仏教批判の問題なのかさえも理解できていませんでした。

現代仏教の抱えている問題に関して、初期仏教から学び直しを一から進めていく中で、多くの疑問が生じ、その都度に私なりに段階を経て考察を深めていくことができ、そして、今の仏教理解に至ってくることができてきた次第であります。

もちろん、まだまだ浅学非才の未熟者ゆえに、至らぬところも多々あり、猛省することばかりであります。

お寺の跡継ぎという立場に生まれ育った私が本格的に仏教の世界と向き合うようになったのは、臨済宗の禅専門道場に入る機会を得たところでありました。良くもあり、悪くもあるその世界(禅専門道場)を垣間見ることができ、そこで仏教に対して、様々な疑念が生じたものの、私自身、当時は仏教について無知であり、修行もそれほど長く取り組むつもりもなく、少なくとも最低でも三年、長くて十年は修行をしないと一人前とは見なされないその世界ではあまり褒められるような立場でもなく、実際、二年にも至らない期間で終えたため、その疑念をどうにかしようとすること自体がおこがましいことであるとして、無批判的に、あまり考えずにいたままでしたが、やがて、実家に戻り、その後はお寺のことに主に従事していく中において、もう少し仏教としっかりと向き合わないといけないという気持ちが高まりだし、改めて修行時代からの疑念も深まりつつあったため、まずは仏教思想について一から学んでいこうと決心するに至り、ここまでおおよそ四年ほどが経ったわけであります。

そして、本日にふと「禅思想の批判的研究」をさらっとでありますが、たまたま一読する気となり、その中における松本氏の見解の一つに、『結論として言えば、臨済の基本思想は、仏教の無我説とは矛盾する"アートマン論"であると考えられる。』(第三章 臨済の基本思想について p387)との記述、その結論に至る論考も読むうちに、私が長年に抱いていた疑念の一つの理由が改めて確認できたように思います。

長い間、「禅思想の批判的研究」を本棚に放置してしまっていたのは、恐らく少なからずも私が修行をし、関わってきた「臨済宗」について批判的な見解が載っているであろうことは、ある程度予測ができていたからであります。それを目の当たりにすることにいささかの躊躇があったのは事実であります。なぜならば、拙いまでも私なりにはそれなりに色々と苦闘した修行の日々が否定されてしまうのが怖かったからでもありますでしょう・・

もしも、まだ仏教の学びが拙い時期にこの本を読んでいれば、私は、かなりのショックを受けて、自己嫌悪に陥っていたかもしれません。一体、あの苦闘の時期は何だったのだろうか、そもそも修行は正しかったのだろうか・・と・・ややもすれば、無駄であったと後悔することになっていたかもしれません・・

しかし、今は仏教の学びがある程度進んできていたため、まあ、そんなものであろうと、すんなりと受け入れることができたところがあります。もちろん、だからといっても、臨済宗を完全に否定したりするわけではありませんが、長い仏教思想の変容過程の中で、やむを得ずにそうなってしまったという仕方のない側面もあるのも事実ですし、また、逆に、当時の自らの無知さ、無批判さ、認識の甘さを恥じることもできたように存じます。

とにかく、何が仏教批判の問題であるのかが、今はしっかりと認識できてきているため、これからの学びの進めにおいて、更に問題の解決を自分なりに探し出していくために尚一層に精進していかなければならないと存じております。


ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義5

さて、今回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

中観帰謬論証派も中観自立論証派も当然に仏教の目指す正悟・正覚・涅槃へと至るための方法論として、「世俗諦と勝義諦の二諦」を扱います。二諦に関しましては、これまでの私の施本でも詳しく述べさせて頂いておりますので、ここでは解説は致しませんが、中観帰謬論証派においては、世俗諦と勝義諦を明確に隔絶させて扱います。しかし、一方の中観自立論証派では、勝義諦の中に世俗諦を無理矢理にでも何とか組み込んで、勝義諦を世俗諦においても表そうと苦心します。勝義諦と世俗諦との重なる領域を「異門勝義・依言勝義」として、どうにかコトバの世界でも勝義諦を表そうとしたのであります。

もちろん、中観自立論証派の目指そうとした気持ちは分からなくはないのですが、コトバの世界がもともと抱えてしまっている限界のために、結局のところは論難がつきまとい、論証に破綻をきたしてしまうこととなり、また、世俗諦と勝義諦を曖昧化させてしまっては、様々な弊害が生じることになってしまいました。つまりは、何が世俗諦であり、何が勝義諦であるのかの区別がつかなくなり、仏教教義の収拾がいっそう図れなくなってしまう危険性が出てきてしまうということであります。

弊害の一つは、コトバの実体化であります。コトバにより、勝義諦を表すことはできないというのは、中観論者の大原則であります。しかし、「勝義諦とは・・」、「勝義諦によって・・」と何かを立論することは、勝義諦の実体化を図ろうとする意図があり、あくまでも世俗(言説)におけることとしておきながらも、それは中観帰謬論証派から見れば、勝義諦というものを何か実体化していくもの以外の何者でもないということとなってしまいます。勝義諦の領域において少しでも何かを実体化させてしまっては、もはやそれは、勝義諦では無いものであり、世俗諦と勝義諦との曖昧化は何としても避けなければならないのであります。その曖昧化の典型の一つが、「絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向」を許してしまいかねない事態をもたらしてしまうことであります。

しかし、確かに勝義諦はコトバでは表せないとしても、それでは結局は黙して何も語らなければよいのか、コトバの世界は所詮は虚妄・虚偽であるから、何も頼りにならないのか、勝義諦の世界とは、超絶されたものであるのかと、神秘主義、懐疑主義・不可知論、または、虚無・悲観・絶望主義に陥ってしまってもいけないのであります。

もちろん、勝義諦をコトバの実体化により表すことはできません。しかし、世俗諦において、無自性・空なるコトバにより、勝義諦とはいかなるものであるかを指向することはギリギリで可能であると考えます。あくまでも、世俗諦における「無自性・空なるコトバ」によってというところが重要であります。また、その「無自性・空なるコトバ」を誤りなく成立させるために、その背後に控えているのが「深遠なる縁起の理法」であります。

ナーガールジュナ論師の中論「観四諦品」(第二十四・第八偈〜第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』【「中論」邦訳参照〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕】とありますように、二諦の理解をもって、いかなる世俗(言説)における無自性・空なるコトバが、中観帰謬論証派において「言説有」として扱われるのか、ツォンカパ論師は、慎重にコトバの世界を扱う中で、安易に戯論寂滅・言語道断・不可説へと転落しないように、もちろん、実体・自性・自相化へとも転落しないように、絶妙のバランスを保つ「言説有」を徹底的に再構築したわけであります。

ツォンカパ論師は、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」としての「非有非無の中道」を明らかとし、仏教思想史上の革新的転回を果たし、お釈迦様の教えの原点回帰を図ったのであります。

次回も引き続きまして、更にツォンカパ論師の中観思想につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4

さて、今回はもう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

まだ拙い私の理解でございますので、多くの間違いや勘違いがあるかとは存じますが、簡単に今の私の理解について、以下に述べさせて頂きます。

中観帰謬論証派と中観自立論証派との最も大きな相違点は、世俗(言説)の次元における「自相の成立」について、前者ではそれを認めませんが、後者では認めている(正確には、認めざるを得ない)というところであります。

それは、「コトバの世界において扱うモノ・コトの背後に、そのモノ・コトを、モノ・コトとして何か成り立たしめている実体(自性・自相)があるのか、ないのか」ということでの扱いの違いであります。

もちろん、両論派共に勝義諦(第一義諦)においては、そのような実体(自性・自相)は完全に否定しますが、中観自立論証派では、世俗(言説)の次元において、モノ・コトを何か成り立たしめている実体(自性・自相)を認めてしまっている(認めざるをえない)というところがあります。

それは、自立論証を用いて、論証主張して対論者に「空・無自性」を認めさせるためには、立論者と対論者の間において、共通の知識根拠〔量〕(直接知覚と推論)・存在論が必要であることが大きな原因となっています。

しかし、中観論者は、「あらゆるモノ・コトは、空であり、実体が無い」という理解が「空・無自性」を主張するための大前提となっているにも拘わらず、自立論証においては、立論者が対論者(実体論者)に対して、自分の論証主張を認めさせるにも、相手との間において共通の知識根拠(特に直接知覚)・存在論を何とかして設定しなければならず、そのため、相手にある程度譲歩して論証を展開していくという中で、コトバの世界(世俗・言説)においての何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないという誤りが結局は付随してしまうというわけであります。

何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないというのは、例えば、簡単には、「○は、〜である。」の場合、その「○」としてあるモノ・コトについて、「○」というモノ・コトが、そのまま、立論者の意図してる知識根拠の通りに対論者の側での知識根拠としても合致する余地があるのかどうかということではないかと考えております。もしも、合致するような知識根拠が何も無いとなれば、最初から議論は成り立たなくなってしまい、立論そのものが意味のない、無駄なものとなってしまいます。

そのため、自立論証を採用するのであれば、世俗(言説)において、何らかの実体(自性・自相)を何とかしてでも認めざるを得ないこととなってしまいます。しかしながら、世俗(言説)の領域であるとはいえども、そのような実体(自性・自相)を認めてしまうということは、いくら世俗(言説)の領域に限定しても許されないとして中観帰謬論証派からは激しく批判されることになります。

もしも、立論者が本当の中観論者であるならば、「○」には、何らとして「○」として成り立たしめているような実体・自性・自相は当然に見当たらないため、ただ「○は、無自性・空である」ということだけが一応は言えるのみで、それ以上は本来、何も立論のしようが無いのであります。当然に自立論証の展開は成り立たないことになります。

そのため、中観論者は、本来、自立論証は採用できず、相手の主張の矛盾・誤謬を指摘して、その実体論の誤りを正すという帰謬論証を用いて、空・無自性を論証していくことしかできないのであります。また、もちろん、「○」は無実体・無自性・無自相、空なるものでしかありませんが、「○」は、世俗(言説)において、「分別によってただ仮に名のみが与えられているもの(仮名・仮設)に過ぎない」ということで、中観帰謬論証派は「○」について一応は言えることができるという立場として、「言説有」を扱うのであると考えています。

少し上記のことは私の理解が不足している点も多々あるかと存じますので、随時に検証していけましたらと存じております。次回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html


   





カレンダ
2010年9月
     
26    

アーカイブ
2008年 (187)
5月 (17)
6月 (30)
7月 (32)
8月 (31)
9月 (30)
10月 (20)
11月 (3)
12月 (24)
2009年 (175)
1月 (26)
2月 (20)
3月 (20)
4月 (8)
5月 (18)
6月 (4)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (27)
10月 (23)
11月 (2)
12月 (1)
2010年 (62)
1月 (8)
2月 (3)
3月 (3)
4月 (1)
5月 (4)
6月 (7)
7月 (6)
8月 (1)
9月 (13)
10月 (8)
11月 (6)
12月 (2)
2011年 (49)
1月 (7)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (4)
5月 (5)
6月 (6)
7月 (2)
8月 (4)
9月 (3)
10月 (3)
11月 (5)
12月 (2)
2012年 (39)
1月 (4)
2月 (8)
3月 (1)
4月 (2)
5月 (1)
6月 (1)
7月 (2)
8月 (2)
9月 (4)
10月 (2)
11月 (7)
12月 (5)
2013年 (25)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (1)
4月 (1)
5月 (5)
6月 (1)
7月 (2)
8月 (4)
9月 (2)
10月 (1)
11月 (2)
12月 (1)
2014年 (44)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (5)
5月 (4)
6月 (11)
7月 (4)
8月 (3)
9月 (3)
10月 (1)
11月 (3)
12月 (2)
2015年 (59)
1月 (1)
2月 (2)
3月 (5)
4月 (8)
5月 (6)
6月 (3)
7月 (7)
8月 (11)
9月 (4)
10月 (3)
11月 (5)
12月 (4)
2016年 (34)
1月 (3)
2月 (3)
3月 (5)
4月 (1)
5月 (1)
6月 (4)
7月 (3)
8月 (3)
9月 (5)
10月 (1)
11月 (4)
12月 (1)
2017年 (13)
1月 (4)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (1)
5月 (2)
6月 (1)
7月 (1)

アクセスカウンタ
今日:1,020
昨日:1,441
累計:787,122