川口英俊のブログ - 2010/08

川口英俊のブログ




2010年08月02日(Mon)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想3
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想3

「あらゆるモノ・コトは、有るというわけではない。かといって、無いというわけでもない。」・・この「中道」という絶妙のバランスをいかにして理解し、保てるかどうかが、非常に難解なるところとなります。

普通の世間一般・世俗世界で暮らしていく中においては、この「中道」を理解するのは、全く容易なことではありません。とにかく私たちはモノ・コトを実体視し、常にモノ・コトにおける「有る」と「無い」についてとらわれてしまっているからであります。

私たちは、生来、いや、遙か遠い昔の過去世より、モノ・コトにおいては、「実体がある、自性がある、自相がある」としてのバイアスがかなりきつくかかってしまっています。

このバイアスのきつい度合いが、執着の度合いであり、また、煩悩の度合いとも言えるものであります。

この迷い苦しみを輪廻する原因であるバイアスを解き放つためには、やはり「深遠なる縁起の理法」の理解が誠に重要となります。

それは簡単に述べますと、あらゆる一切のモノ・コトにおいては、「実体がない、自性がない、自相がない」ということの理解となりますが、常日頃に私たちがとらわれて執着して頼りにし、求めているものにおいて、それらは何らとしてとらえて執着することもできず、頼りにもならず、求められないと、少しでも知ってしまった時、まず人は、相当の不安と恐怖、悲観、虚無感に覆われてしまい、絶望に近い感情を抱いてしまうことでしょう。これは人間ならば誰しもが思うことではないかと思います。

問題は、そこで嫌悪感、不快感を持ち、それ以上先に理解が進まなくなってしまうことであります。あまりに強いバイアスがかかってしまっているとなおさらに難しくなってしまいます。

あらゆる一切のモノ・コトにおいては、「実体がない、自性がない、自相がない」ということは、決して悲観・虚無・絶望的なものではなく、むしろ逆に、そのことによってこそ、私たちの世俗世界の一切全てが成り立っているものであるとして「深遠なる縁起の理法」を理解していくことが大切なこととなります。

もちろん、この難しさについて、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)におきまして、齋藤氏は、「世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいこと」と述べておられるわけであります。

『中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。』

「私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。」・・誠に非常に重要なるところでございます。

・・

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想2

さて、「蟻の瓶と象の瓶」の論説の中で、三種の縁起についての説明がございます。

簡単に氏の論説を参照させて頂きますと、

第一層の縁起が、「原因と結果の依存関係」という縁起として、
第二層の縁起が、「部分と全体の依存関係」という縁起として、
第三層の縁起が、「分別によって仮説する」という縁起として、

扱われて説明なされておられます。

この三種の縁起を私の拙い未熟ながらの施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」と僭越ながらも照らし合わさせて頂きますと、

第一層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「時間的先後の因果関係」の縁起として、

第二層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「空間的成立の因果関係」の縁起として、

そして、第三層の縁起については、「第四章 論理的縁起について」における「論理的、相互依存・相互限定・相互相関・相資相依の関係」の縁起として、

もちろん、厳密には、もう少し補足補完が今は必要であるかと反省しておりますが、一応説明させて頂くことができるのではないかと存じております。

三種の縁起の理解は、誠に仏教を学ぶ者にとっては、重大事であり、しっかりと進めていかなければならないと考えております。

何とか補足補完が必要なところをしっかりとまとめて、早期に施本第六弾目に取り組んで参りたいと思っております。

・・

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1

齋藤保高氏の教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご紹介させて頂きましたが、誠に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点を扱っておられまして、改めまして氏の見識の高さにご敬服申し上げる次第でございます。非常に解りやすくしかも簡潔にご解説して下さっておりまして、本当に参考となります。

龍樹論師以降の中観思想学派の展開において、最も懸念されることとなった大きな課題の一つが、「虚無論」への落ち入りをどのようにして防ぐかということであります。「世俗の次元でも自相を否定する」ということの理解と合わせて「深遠なる縁起の理法」を理解するということは、誠に難解至極なる絶妙なバランス(中道)の上においてこそ成り立つというものとなります。この点において教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」の内容は、重要な視座をお示しになられており、是非共にご参考頂ければと存じております。

また、更に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点の理解を補完していく上で考察していかなければならないのが、仏教認識論理学でありまして、特に仏教認識論理学最高峰であるダルマキールティ論師の思想になるかと考えております。とにかく一つ一つでございます。

・・

さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく仏教論著集

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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カレンダ
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