川口英俊のブログ - 2010/07

川口英俊のブログ




2010年07月30日(Fri)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想2
さて、「蟻の瓶と象の瓶」の論説の中で、三種の縁起についての説明がございます。

簡単に氏の論説を参照させて頂きますと、

第一層の縁起が、「原因と結果の依存関係」という縁起として、
第二層の縁起が、「部分と全体の依存関係」という縁起として、
第三層の縁起が、「分別によって仮説する」という縁起として、

扱われて説明なされておられます。

この三種の縁起を私の拙い未熟ながらの施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」と僭越ながらも照らし合わさせて頂きますと、

第一層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「時間的先後の因果関係」の縁起として、

第二層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「空間的成立の因果関係」の縁起として、

そして、第三層の縁起については、「第四章 論理的縁起について」における「論理的、相互依存・相互限定・相互相関・相資相依の関係」の縁起として、

もちろん、厳密には、もう少し補足補完が今は必要であるかと反省しておりますが、一応説明させて頂くことができるのではないかと存じております。

三種の縁起の理解は、誠に仏教を学ぶ者にとっては、重大事であり、しっかりと進めていかなければならないと考えております。

何とか補足補完が必要なところをしっかりとまとめて、早期に施本第六弾目に取り組んで参りたいと思っております。

・・

齋藤保高氏の教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご紹介させて頂きましたが、誠に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点を扱っておられまして、改めまして氏の見識の高さにご敬服申し上げる次第でございます。非常に解りやすくしかも簡潔にご解説して下さっておりまして、本当に参考となります。

龍樹論師以降の中観思想学派の展開において、最も懸念されることとなった大きな課題の一つが、「虚無論」への落ち入りをどのようにして防ぐかということであります。「世俗の次元でも自相を否定する」ということの理解と合わせて「深遠なる縁起の理法」を理解するということは、誠に難解至極なる絶妙なバランス(中道)の上においてこそ成り立つというものとなります。この点において教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」の内容は、重要な視座をお示しになられており、是非共にご参考頂ければと存じております。

また、更に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点の理解を補完していく上で考察していかなければならないのが、仏教認識論理学でありまして、特に仏教認識論理学最高峰であるダルマキールティ論師の思想になるかと考えております。とにかく一つ一つでございます。

・・

さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく仏教論著集

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月28日(Wed)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)感想1
先日に齋藤保高氏の教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご紹介させて頂きましたが、誠に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点を扱っておられまして、改めまして氏の見識の高さにご敬服申し上げる次第でございます。非常に解りやすくしかも簡潔にご解説して下さっておりまして、本当に参考となります。

龍樹論師以降の中観思想学派の展開において、最も懸念されることとなった大きな課題の一つが、「虚無論」への落ち入りをどのようにして防ぐかということであります。「世俗の次元でも自相を否定する」ということの理解と合わせて「深遠なる縁起の理法」を理解するということは、誠に難解至極なる絶妙なバランス(中道)の上においてこそ成り立つというものとなります。この点において教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」の内容は、重要な視座をお示しになられており、是非共にご参考頂ければと存じております。

また、更に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点の理解を補完していく上で考察していかなければならないのが、仏教認識論理学でありまして、特に仏教認識論理学最高峰であるダルマキールティ論師の思想になるかと考えております。とにかく一つ一つでございます。

・・

さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく仏教論著集

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月26日(Mon)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


「苦楽中道説について」補足
先日に「苦楽中道説について」を述べさせて頂きました。

その中で、『苦楽二辺を離れた中道についての誤解としては、「苦」と「楽」を離れれば良いという単なる「不二論」に陥りやすいところがあります。それでは逆に「中道」ということが、「何か訳の分からないもの」として、かなり曖昧化されたところに落とし込まれてしまう危険性があります。

それは、単なる「不二論」というのは、結局、そのことを考える各人の独善・偏見・自己都合・自己満足によっての価値判断や恣意的判断を招いてしまって、多種多様、十人十色の「中道」説が生じて、何ら収拾がつかなくなり、更なる混乱を生じさせてしまうだけとなるということであります。』

と述べさせて頂きましたが、これはもう少し補足説明しますと、「苦」も「楽」も「苦でも楽でもない」も、その人その人によって、また、時々、状況に応じても、多様に価値判断が変化してしまうために、「では、何が真なる中道であるのか」ということを誰も決めることはほぼ不可能であると思われるからでございます。

例えば、私と読者の皆さんでは、何が「苦」で、何が「楽」なのか、何が「苦でも楽でもない」のかの価値判断は、千差万別に異なってしまうからであります。世間一般、皆さんが「苦」と思われていることでも、私から見れば「楽」なこともありますし、またその逆も当然に言えるわけであります。私が、「苦でも楽でもない」と考えていることでも、ある方からは、「それは苦だ」、「それは楽だ」となってしまうことももちろんあるでしょう。

ですから、単なる「不二論」、または「苦でも楽でもない」ところとして、苦楽二辺を離れた「中道」とは何かを述べて示すことはほとんど意味のないことであると私は考えています。

それよりも、深遠なる縁起の理法のありよう、空のありようをしっかりと検討し、理解していくことにより、苦楽中道説についても考察していくことが重要であると存じております。


「苦楽中道説について」

お釈迦様のお悟りの内実については、特に有名である「苦楽中道」説という見解があります。

このことについては、「苦楽中道 ゴータマ・ブッダは何を発見したか」という宮元啓一氏の論説がかなり参考となります。

「苦楽中道--ゴータマ・ブッダは何を発見したか」宮元啓一氏
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

「苦楽中道」説は、簡単に述べると欲望を極端に解放した欲楽・快楽の生活(楽)と、あまりに厳しく極端に欲望を抑え込む苦行(苦)とを離れたところにこそ、私たちの本来の進むべき道がある、苦と楽の二辺を離れた第三の道をお釈迦様は発見なされたということであります。

有名なエピソードは、あまりに厳しい苦行を続けてきたお釈迦様は、ある時に、「琴の弦は強く絞めすぎると弦は切れてしまって音が出なくなってしまう。かといって、絞めるのが弱いと弦はゆるんでしまって音が出なくなってしまう。琴の弦は、強くもなく、弱くもない、中くらいに締めたところで丁度良い音が出る。」という村人(一説では、お釈迦様に乳粥を差し出した村娘のスジャータ)の何気ない言葉を聞き、苦楽二辺を離れた中道をお悟りになられたと言われております。

苦と楽の二辺を離れた第三の道とは、宮元啓一氏の論説を参考とさせて頂きますと、「輪廻(=苦)の究極的な原因は根本的な生存欲であり、それを滅ぼすものは智慧であり、そのためには徹底的に輪廻的生存にまつわるすべての事実を観察、考察しなければならない」ということとなるわけであります。

苦楽二辺を離れた中道についての誤解としては、「苦」と「楽」を離れれば良いという単なる「不二論」に陥りやすいところがあります。それでは逆に「中道」ということが、「何か訳の分からないもの」として、かなり曖昧化されたところに落とし込まれてしまう危険性があります。

それは、単なる「不二論」というのは、結局、そのことを考える各人の独善・偏見・自己都合・自己満足によっての価値判断や恣意的判断を招いてしまって、多種多様、十人十色の「中道」説が生じて、何ら収拾がつかなくなり、更なる混乱を生じさせてしまうだけとなるということであります。

そのため、「苦楽中道」を考える時には、何も単に「苦」と「楽」だけに留まらず、「有・無」、「主・客」、「生・死」、「善・悪」、「煩悩・菩提」等、あらゆるモノ・コト(存在・現象・思考概念・コトバの世界)の二辺のありようを「縁起」観にて注意深く思慮・考察し、「空」を理解していかなければならないと考えております。

お釈迦様のお悟りになられた「苦楽中道」の根底には、深遠なる縁起の理法が控えていることを踏まえた上で、お釈迦様の真なるお悟りの内実とは何かを考えていかなければならないと存じております。

深遠なる縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様に最敬礼申し上げます。

川口英俊 合掌 九拝

・・

いよいよツォンカパ論師の著作の中でも重要な論著の一つである「菩提道次第論」を読み進めております。


「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」ツォンカパ論師著
ツルティム ケサン・藤仲 孝司翻訳 UNIO

・・

先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様を始め、ナーガールジュナ論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年07月12日(Mon)▲ページの先頭へ
「苦楽中道説について」
「苦楽中道説について」

お釈迦様のお悟りの内実については、特に有名である「苦楽中道」説という見解があります。

このことについては、「苦楽中道 ゴータマ・ブッダは何を発見したか」という宮元啓一氏の論説がかなり参考となります。

「苦楽中道--ゴータマ・ブッダは何を発見したか」宮元啓一氏
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

「苦楽中道」説は、簡単に述べると欲望を極端に解放した欲楽・快楽の生活(楽)と、あまりに厳しく極端に欲望を抑え込む苦行(苦)とを離れたところにこそ、私たちの本来の進むべき道がある、苦と楽の二辺を離れた第三の道をお釈迦様は発見なされたということであります。

有名なエピソードは、あまりに厳しい苦行を続けてきたお釈迦様は、ある時に、「琴の弦は強く絞めすぎると弦は切れてしまって音が出なくなってしまう。かといって、絞めるのが弱いと弦はゆるんでしまって音が出なくなってしまう。琴の弦は、強くもなく、弱くもない、中くらいに締めたところで丁度良い音が出る。」という村人(一説では、お釈迦様に乳粥を差し出した村娘のスジャータ)の何気ない言葉を聞き、苦楽二辺を離れた中道をお悟りになられたと言われております。

苦と楽の二辺を離れた第三の道とは、宮元啓一氏の論説を参考とさせて頂きますと、「輪廻(=苦)の究極的な原因は根本的な生存欲であり、それを滅ぼすものは智慧であり、そのためには徹底的に輪廻的生存にまつわるすべての事実を観察、考察しなければならない」ということとなるわけであります。

苦楽二辺を離れた中道についての誤解としては、「苦」と「楽」を離れれば良いという単なる「不二論」に陥りやすいところがあります。それでは逆に「中道」ということが、「何か訳の分からないもの」として、かなり曖昧化されたところに落とし込まれてしまう危険性があります。

それは、単なる「不二論」というのは、結局、そのことを考える各人の独善・偏見・自己都合・自己満足によっての価値判断や恣意的判断を招いてしまって、多種多様、十人十色の「中道」説が生じて、何ら収拾がつかなくなり、更なる混乱を生じさせてしまうだけとなるということであります。

そのため、「苦楽中道」を考える時には、何も単に「苦」と「楽」だけに留まらず、「有・無」、「主・客」、「生・死」、「善・悪」、「煩悩・菩提」等、あらゆるモノ・コト(存在・現象・思考概念・コトバの世界)の二辺のありようを「縁起」観にて注意深く思慮・考察し、「空」を理解していかなければならないと考えております。

お釈迦様のお悟りになられた「苦楽中道」の根底には、深遠なる縁起の理法が控えていることを踏まえた上で、お釈迦様の真なるお悟りの内実とは何かを考えていかなければならないと存じております。

深遠なる縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様に最敬礼申し上げます。

川口英俊 合掌 九拝

・・

いよいよツォンカパ論師の著作の中でも重要な論著の一つである「菩提道次第論」を読み進めております。


「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」ツォンカパ論師著
ツルティム ケサン・藤仲 孝司翻訳 UNIO

・・

先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様を始め、ナーガールジュナ論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

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・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
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「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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2010年07月01日(Thu)▲ページの先頭へ
「菩提道次第論」(ツォンカパ論師著)を読み始め
いよいよツォンカパ論師の著作の中でも重要な論著の一つである「菩提道次第論」を読み進めております。


「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」ツォンカパ論師著
ツルティム ケサン・藤仲 孝司翻訳 UNIO

・・

先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる尊師であるお釈迦様を始め、ナーガールジュナ論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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カレンダ
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