川口英俊のブログ - 2010/06

川口英俊のブログ




2010年06月30日(Wed)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の「縁起賛」(ダライ・ラマ14世師・法王猊下法話・講演会「縁起賛と発菩提心」よりの資料から)
さて、先日6/26にパシフィコ横浜において、ダライ・ラマ14世師・法王猊下によります法話・講演会「縁起賛と発菩提心」が開催されましたようでありまして、その際に配られました資料におけるツォンカパ論師の「縁起賛」がネット上で転載されておりましたので、ここに私も載せてさせて頂ければと存じております。

深遠なる縁起の理法へのいざないが、輪廻に迷い・苦しむあまたの衆生を、確かなる出離・菩提心・正見へと至らしめることを願いつつ、縁起の理法をお説きになられました偉大なる師であるお釈迦様を始め、龍樹論師、チャンドラキールティ論師、ツォンカパ論師、また、仏教史上、縁起の理法を様々にお説きになられた無数の各論師たちに改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。
川口 英俊 合掌 九拝

以下、転載開始・・

1
<縁起を> 見て、<それを>説かれたため
<釈尊は>無上の智者であり、無上の師である
<故に、>縁起を見て、それを説かれた
勝利者<仏陀>に礼拝いたします

2
この世のいかなる堕落も
その源は無明である
<縁起を>見ることにより、それ<無明>を滅することができるため
縁起<の教え>が説かれた

3
故に、知性ある者が
縁起の道こそ
あなた(釈尊)の教えの心髄であることを
どうして理解しないことなどあろうか

4
そうであるならば
守護者であるあなたを賞賛するために
縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を
いったい誰が見つけられようか

5
「条件に依存しているものはみな
その自性は空である」
これよりも驚くべき
どんな善き教えがあると言うのか

6
凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて
極端論への束縛を堅固にする
賢者にとっては、それ(縁起)が
戯論の網をすべて断ち切る門戸となる

7
この教えは他に見たことがないので
師と名づけられるのはあなた<だけ>である
キツネを獅子<と呼ぶ>ように
非仏教徒たち<の場合>もへつらいの言葉<に過ぎない>

8
すばらしい師よ、すばらしい帰依よ
すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ
縁起を善く説かれた師に
私は礼拝いたします

9
救済者であるあなたは
有情を利益するために
教えの心髄である空を確信できる
比類なき理由を説かれた

10
縁起のありようを
矛盾や不成立と見る人たちは
あなたの体系をいったいどうやって
理解できるというのか

11
あなたの説では
空が縁起の意味であることを見たならば
自性が空であることと
< すべてが>正しく機能することは矛盾しない

12
しかし、その逆を見たならば
空には機能が成り立たず
機能を果たすものは空ではないため
危険な崖から落ちる、と言われている

13
故にあなたの教えでは
縁起を見ることが讃えられている
それはまた、何もないことでも
その自性から存在することでもない

14
<因と条件に>依存しないものは、虚空の華のようである
故に、<因と条件に>依存しないものは存在しない
その自性によって成立しているならば
その成立が因と条件に依存することに矛盾する

15
「故に、<他に>依存して
生じたのではない現象は何もないので
自性が空でない現象は何も存在しない」
と<あなたは>言われた

16
「現象に少しでも自性がある限り
自性を否定することはできないので
涅槃<に至ること>はできず
戯論を滅することもできない」と<あなたは>言われた

17
故に、自性はないと
獅子の声で繰り返し
賢者たちの集まりで善く説かれていることに
いったい誰が対抗できるのか

18
自性が何もないことと
これに依存してこれが生じたという
すべての規定は正しい
この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない

19
「縁起を理由に、極端論に依存しない」
というこの善き教えは
守護者であるあなたが
無上の説法者である理由である

20
このすべては自性が空であるということと
これからこの結果が生じた
という二つの確信は
互いに障りなく助け合っている

21
これよりも驚くべきもの<があるだろうか>
これよりもすばらしいもの<があるだろうか>
こうしてあなたを賞賛することは
<本物の>賞賛であり、他はそうではない

22
無知の奴隷となり
あなたを敵視する者が
自性がないという言葉に耐えられないことは
驚くに足りない

23
しかし、貴重な宝である
縁起というあなたの教えを受け入れながら
空のとどろきに耐えられないことは
私にとって驚くべきことである

24
無自性<の見解>に導く扉である
無上の縁起というその名によって
もし自性にとらわれるなら
今その人を

25
聖者たちが善く旅した
比類なき門戸であり
あなたを喜ばせるこの善き道に
いかなる手段で導けばよいのか

26
自性<があり>、< 因と条件によって>作り出されたのではなく、
<部分に>依存しないものと縁起し、
<部分に>依存して、<因と条件によって>作り出されたもの
この二つが、ひとつの土台において
矛盾することなく集まることなどできようか

27
故に、<他に>依存して生じたものはみな
無始の時より自性を離れているが
<自性があるかの如く>現れる
そこで<釈尊は>、これらはすべて幻のようなものだと言われた

28
あなたがこのように説かれたことに対して
反論者たちが論議をしかけても
法に基づいて論破することはできない
と言われたことも、これ (縁起の教え)によって<私は>よく理解した

29
何故そうなのかと言うと、このように説明することで
見えるもの、見えないものなどの事物について
<ないものを>あるととらえたり、<あるものを>ないととらえたり
することを遠ざけておられるからである

30
あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は
縁起というこの道であり
< あなたが>説かれた他の教えも
正しい認識であるという確信が生じる

31
あるがままに見て善く説かれた
あなたに従って修行する者たちに
すべての堕落は遠ざかっていく
すべての過失の源が退けられるからである

32
あなたの教えに背を向ける者たちは
たとえ長い間苦労を重ねても
過失を呼び戻しているようである
<それは>我見が堅固なためである

33
ああ、賢者たちが
この二者の違いを理解したならば
その時<彼らが>心の底から
あなたを尊敬しないことなどあろうか

34
あなたの多くの教えについては言うまでもなく
その一部の意味だけから
大まかな確信を得る者たちにも
最高の幸せを与える

35
ああ、私の心は無知に打ち負かされている
このようなすばらしい資質の集まり<であるあなた>に
長い間帰依をしたけれど
その資質の一部さえ得ることはなかった

36
しかし、死に向かって近づいていく
命の流れが止まってしまうまでに
あなたへのわずかな確信を得られたなら
それだけでも恵まれたことだと考える

37
世に現れた仏陀たちが<他の師よりも卓越していた>ように
師の中でも、縁起を説いた師
智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを
あなた<だけ>が善く知っておられ、他<の師たち>は知らない

38
あなたが説かれたすべての教えは
縁起から始めて入るものである
それもまた、涅槃のためであり
<有情の堕落を>鎮めない行ないは、あなたにはない

39
ああ、あなたの教えは
誰の耳に届いても
すべての人が静寂を得るため
あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか

40
すべての反論者たちを克服し
前後に矛盾がなく
有情に二つの目的を与えるこの体系に
わたしの喜びは増していく

41
このために、あなたは
ある時はからだを、別の時は命を
そして愛しい者や所有物なども
<三>阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた

42
その<教えの>すぐれた資質を見て
釣り針が魚を<引きあげる>ように
< 釈尊の>お心が<強く>引かれて説かれた教えを
あなたから聞けなかったのは残念なことである

43
その嘆きの激しさは
母の心が
愛しい子供のこと<だけ>を追いかけるように
私の心をとらえて離さない

44
この<嘆き>もまた、あなたのお言葉を思い出して
「<三十二>相<八十>種好の栄えある<仏陀の>しるしで輝き
光の網に完全に包まれ
師の清らかなお声で

45
これをこのように説かれた」と思うと
そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで
月の光が熱の苦痛<を癒すように>
<私の心は>癒される

46
このようなすばらしい善き体系にも
賢くない人たちは
<もつれた>つる草のように
どの面からも完全に混乱してしまう

47
これを見て
私は多くの努力を積み
賢者たちのあとに従って
あなたの真意を繰り返し求めた

48
そのような時、中観派と実在論者たちの
多くのテキストを学んだが
再び疑問の網に<とらわれて>
私の心は絶え間なく苦しめられた

49
有と無の極端を滅した
あなたの無上の乗り物を
あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは
夜咲く睡蓮の庭のようである

50
汚れなき智慧のマンダラは満ち
教えはさえぎられることなく虚空を飛び
極端論者の心の闇を晴らし
誤った説法者たちの星座群より強く輝く

51
<そのような>チャンドラキールティの善説という
一連の白い光によって明らかにされたことを
ラマの恩によって見た時
私の心は休息を得た

52
すべての行ないの中で
お言葉の行ないが最もすぐれたものである
その中でもまた、このお言葉であるため
賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである

53
その師に従って出家して
勝利者の教えを劣らず学び
ヨガ行に精進する比丘である<私は>
その偉大な修行者をこのように尊敬いたします

54
無上なる師の教えにこのように出会えたのは
ラマの恩によるものなので
この功徳もまた、すべての有情たちが
聖なる精神の導師によって守られる因となりように廻向いたします

55
この救済者の教えが、この世の終わりまで
悪い考えの風で動じることなく
教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで
常に満たされますように

56
縁起のありようを明らかにされた
釈尊の善き体系を
すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し
一瞬たりとも手放すことがありませんように

57
「この最高の指導者が、はかり知れない困難な<行を実践され>
精力的な努力によって達成されたこの<教え>を
いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」
と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように

58
清らかですぐれた決意により、このように努力しているので
梵天、帝釈天など世俗の守護神や
大黒天などの護法尊もまた
絶え間なく常に助けてくれますように

・・以上、転載ここまで。

仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月26日(Sat)▲ページの先頭へ
最極限の狭間
さて、仏教・中観思想の学びは、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違点についての理解まで何とかようやくにたどり着くことができて参りました。

しかし、正直なところ、仏教最高峰の思想哲学であるツォンカパ論師の中観思想の学びにおいて、ここから更にその先は、もはや概念・思考論理の領域を超えていくところであり、あとは実地における知見と実践しかありません。言葉の世界の限界の臨界点を見極めて、その最極限の狭間で現実世界を過ごしていく厳しさが求められていくこととなります。その最極限の狭間においては、相当強靱なる精神力が求められ、少しでも中途半端さ、曖昧さが出てしまうと、あっという間に更なる過酷な迷い・苦しみの輪廻という奈落の底へと一気に転落してしまうこととなってしまうでしょう・・

実に最大限の警戒が必要と存じております。

とにかく、今はまだしばらく、概念・思考論理の領域においてツォンカパ論師の中観思想の学びを進めて参りたいと考えております。

・・

仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

さて、中観思想の学びの進めにおきまして、次に「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始めました。



二部構成で、第一部では、ツォンカパ論師の「ラムツォ・ナムスム」における「出離」・「菩提心」・「正見」の「三要訣」という実に深遠なるチベット仏教における真髄なるところの教えについての解説が成されております。

・・

「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」の再々読を終えまして、ようやくに、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違についての理解が及んできたように存じております。

自相の成立の有無の問題については、更に理解を深めていければと考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

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6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。


2010年06月25日(Fri)▲ページの先頭へ
「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということについて
仏教では、迷い・苦しみの輪廻からの解脱、涅槃寂静へ向けて、「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」ということが盛んに述べられます。

このことは、頭では理解できていたとしても、日常生活の中においては、様々な欲望・煩悩・虚妄分別により、常に何かに執着し、こだわり、とらわれ、かたよってしまっており、とてもそのような境地に至ることは難儀至極であります。

確かに、瞑想・座禅や無心で何かに集中して打ち込んでいる時などは、ほんの一瞬だけでも、そのような境地に至れることはあるでしょうが、持続してそのような境地を保つことは本当に難しいことであります。

また、何が自分の「執着、こだわり、とらわれ、かたより」であるのかさえも分からない場合のことの方が多いのではないかと思います。

私も最近になって、ようやくに自分が何に執着し、こだわり、とらわれ、かたよっているのかが、やっと分かるようになって参りました。

まずは、自分の中で無くさねばならない執着の対象を丁寧に見つけ出していくことから始めないと、いきなり「執着を無くせ」、「こだわり、とらわれ、かたよりを無くせ」と言われても、所詮無理であり、机上の空論でしかないこととなってしまいかねません。

仏教最大の真理要諦である「縁起」というものを単に空論に陥れてしまわないためにも、しっかりと理解と実践に努めていかなければならないと存じております。

※上記の「空論」は、あくまでも「意味のない空しい論」ということで、「縁起」と共に非常に仏教においては重要となる「空」思想の論のこととは違いますのであしからずご了承下さいませ。

・・

最近は、仏教・中観思想における学びを一歩一歩と進めておりますが、仏教最大の真理要諦である「縁起」について、理論だけの理解に留まらず、実地に生きていく中において知見していけるかどうかも誠に重要であると考えております。

・・

さて、中観思想の学びの進めにおきまして、次に「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始めました。



二部構成で、第一部では、ツォンカパ論師の「ラムツォ・ナムスム」における「出離」・「菩提心」・「正見」の「三要訣」という実に深遠なるチベット仏教における真髄なるところの教えについての解説が成されております。

・・

「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」の再々読を終えまして、ようやくに、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違についての理解が及んできたように存じております。

自相の成立の有無の問題については、更に理解を深めていければと考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

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仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

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さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。


2010年06月19日(Sat)▲ページの先頭へ
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始め
さて、中観思想の学びの進めにおきまして、次に「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」を読み始めました。



二部構成で、第一部では、ツォンカパ論師の「ラムツォ・ナムスム」における「出離」・「菩提心」・「正見」の「三要訣」という実に深遠なるチベット仏教における真髄なるところの教えについての解説が成されております。

・・

「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」の再々読を終えまして、ようやくに、ツォンカパ論師の捉えられている中観自立論証派と中観帰謬論証派の論点・視座の相違についての理解が及んできたように存じております。

自相の成立の有無の問題については、更に理解を深めていければと考えております。

・・

仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

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倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

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日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
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仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
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「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

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6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。


2010年06月10日(Thu)▲ページの先頭へ
アルボムッレ・スマナサーラ大長老様と会談
6/9に以前より見学してみたいと願っておりました日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)に行って参りました。

お参りさせて頂いております中、ナント偶然に、かの高名なるアルボムッレ・スマナサーラ大長老様が、たまたまその日に執り行われるお食事布施会への参加のため、途中で精舎にお寄りになられて、光栄にもお会いさせて頂きました。

礼拝の後、長老様より、「何かお話でもおありですか?」とお声をお掛け頂きまして、30分ほどにもわたりまして、仏教に関することで、仏法法理である、無常、無我、更には縁起や空などについてご質問させて頂いたり、また、直々にこれからの日本仏教のあり方、更には僧侶としてのあり方についてのアドバイスも賜りました。特に、現世・現実における一人一人の人間の実際に抱えてしまっている迷い苦しみをいかにして無くしていくことができるのかが、僧侶としての一大事であるとお教え賜りました。自身、振り返りまして最近は、あまりに仏教思想・哲学の理論面に偏りすぎているところがあると猛省致しました・・

仏教を一から学び直しを進めていく中で、会員となりまして、もう4年ほどが経ちましたが、この度、始めて精舎を訪れさせて頂きまして、なおかつ、まさかスマナサーラ大長老様にもお会いでき、真摯に様々にお教えを賜りまして、幸甚の至りでございました。かなり嬉しく存じました。

ゴータミー精舎・一階


二階・ご本堂


いつも、機関誌や法話DVDにて拝見させて頂いておりましたご本尊様をお参りできました。

何か不思議な縁を感じるこの度の上京でございました。

・・

さて、仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

・・

仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月03日(Thu)▲ページの先頭へ
「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」
さて、仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

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仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

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さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

・・

倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

・・

日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年06月02日(Wed)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の中観思想・「言説有」の理解
仏教・中観思想の学びの前進のために大きな指針となりました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』。ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考としての「勝義無・言説有」がありますが、特に「言説有」の内容について非常に解りやすく解説が丁寧に成されていると感じました。著書の内容はダライ・ラマ14世師のご法話でございますが、その内容について翻訳・解説付記をされた鴨居真理氏も相当に凄いと存じました。

「すべてのものは他に依存して名づけられただけの存在である」という「言説有」の理解は、まさにツォンカパ論師の中観思想の要諦であり、この「言説有」の理解により、仏教において大切なお釈迦様のご教説である「四法印」・「四聖諦」についても正しく理解していかなければならないと考えております。

・・

仏教・中観思想の学びのために新たに追加しました『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』を一気に読み終えました。

仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

・・

さて、かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

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倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

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日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
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現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

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「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
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「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
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「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
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「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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