川口英俊のブログ - 2010

川口英俊のブログ




2010年12月21日(Tue)▲ページの先頭へ
「もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら」を一読
さて、しばらく仏教論考考察を小休止致しております間にも、仏教に関する書物は色々と読み進めております。

「龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想) 石飛道子著・佼成出版社」・「入門 哲学としての仏教・竹村牧男著・講談社現代新書」、「ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』 黒崎宏著 哲学書房」の再読、そして、更には「もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら 架神恭介著 イカロス出版」、「法蔵-「一即一切」という法界縁起 (構築された仏教思想) 吉津宜英著 佼成出版社」と読み進めさせて頂きました。

この中で特には、「もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら」は、なかなか面白い内容でありましたが、私と致しましては、やたらと本文中に出てくる「全体ドカーン」に関してのことは、やや異議あるところであります。しかし、仏教についての大まかな流れ、概要を知るには非常に参考となる内容ではないかと存じます。また、中観思想に関しても一瞥の価値ある内容でありました。

とにかく一つ一つであります。。

・・

しばらく仏教論考考察を小休止致しておりますが、現在、改めまして、「ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』 黒崎宏著 哲学書房」を読み進めております。

龍樹(ナーガールジュナ)論師の「中論」は、大乗仏教の基本書中の基本書であります。

しかし、非常に重要な論でありますが、未だ龍樹論師が実際に著したとされるサンスクリット原本は発見されておらず、謎に包まれているところもあり、更に解釈も難解な論であります。現在、「中論」としてまとめられておりますのは、様々な論師による注釈書によるところでもあります。

そのため、解釈の相違による思想的差異が生じてしまう要因ともなってしまっているのでありますが、真なる龍樹論師の意図する釈尊の教えへの原点回帰を図る上でも、慎重にその内容の理解を進めていく必要があります。

「中論」を原点とする仏教思想「中観思想」の展開を学んでいくためにも、様々な視点から、この論を見極めていくことが大切なこととなります。

とにかく一歩一歩であります。

・・

仏教論考考察を小休止致しております間、「入門 哲学としての仏教・竹村牧男著・講談社現代新書」を通読致しました。

竹村牧男氏は、唯識思想・華厳思想・禅思想、西田幾多郎・鈴木大拙思想の研究家であり、これまでの仏教の学びを進めていく上で、多くの著書を読ませて頂きました。

私が最近傾注考察致しております松本史朗氏の批判的研究と竹村牧男氏の研究とをあえて対比致しますと、まさに両者の考え方は、前者を反如来蔵思想、後者を如来蔵思想の立場として、相反、両極をなします。

そのため、両者の考え方を比較検討吟味していくことは、仏教の論考考察の上で非常に意義があるのではないかと考えています。

これまでの私の拙い学びの成果として発行させて頂いております施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」における内容においては、どちらかと言いますと、竹村牧男氏よりの解釈に近いところがあるかもしれません。

しかし、私は如来蔵思想に関しては、明確に批判的な立場で展開しており、そのため、解釈が両者の折衷的、曖昧なところに陥っているということも言えるところでございます。

もちろん、竹村牧男氏が如来蔵思想の擁護的立場にあるのかどうかというところも、もう少し慎重に掘り下げて吟味する必要があると思われますので、松本史朗氏の批判的研究と対比しての考察を今後の課題として進めていけましたらと考えております。

・・

とにかく、中観思想の学びを進めて、空の思想における「増益と損減」を離れての理解を正しくしていくことが大切なこととなります。

増益とは、過剰な肯定、損減とは、過剰な否定というものであります。

過剰な肯定とは、簡単に述べますとモノ・コトを実体視してしまうことで、過剰な否定とは、「縁起」としてのあり方さえも否定してしまうことであります。

「増益と損減」を離れて、この絶妙のバランスを保って、「縁起」のあり方を捉えて理解していくこと・・これが「中観」というものであります。

とにかく一つ一つ一歩一歩です。

・・

仏教論考考察

「基体説」論考3-4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51788684.html

「基体説」論考1-2
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51786543.html

「場所の哲学」と仏教
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51784548.html

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・基体説について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51783852.html

チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51776609.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版
「中国仏教の批判的研究」伊藤隆寿著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年12月07日(Tue)▲ページの先頭へ
「入門 哲学としての仏教・竹村牧男著・講談社現代新書」を通読
しばらく仏教論考考察を小休止致しております間、「入門 哲学としての仏教・竹村牧男著・講談社現代新書」を通読致しました。

竹村牧男氏は、唯識思想・華厳思想・禅思想、西田幾多郎・鈴木大拙思想の研究家であり、これまでの仏教の学びを進めていく上で、多くの著書を読ませて頂きました。

私が最近傾注考察致しております松本史朗氏の批判的研究と竹村牧男氏の研究とをあえて対比致しますと、まさに両者の考え方は、前者を反如来蔵思想、後者を如来蔵思想の立場として、相反、両極をなします。

そのため、両者の考え方を比較検討吟味していくことは、仏教の論考考察の上で非常に意義があるのではないかと考えています。

これまでの私の拙い学びの成果として発行させて頂いております施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」における内容においては、どちらかと言いますと、竹村牧男氏よりの解釈に近いところがあるかもしれません。

しかし、私は如来蔵思想に関しては、明確に批判的な立場で展開しており、そのため、解釈が両者の折衷的、曖昧なところに陥っているということも言えるところでございます。

もちろん、竹村牧男氏が如来蔵思想の擁護的立場にあるのかどうかというところも、もう少し慎重に掘り下げて吟味する必要があると思われますので、松本史朗氏の批判的研究と対比しての考察を今後の課題として進めていけましたらと考えております。

・・

とにかく、中観思想の学びを進めて、空の思想における「増益と損減」を離れての理解を正しくしていくことが大切なこととなります。

増益とは、過剰な肯定、損減とは、過剰な否定というものであります。

過剰な肯定とは、簡単に述べますとモノ・コトを実体視してしまうことで、過剰な否定とは、「縁起」としてのあり方さえも否定してしまうことであります。

「増益と損減」を離れて、この絶妙のバランスを保って、「縁起」のあり方を捉えて理解していくこと・・これが「中観」というものであります。

とにかく一つ一つ一歩一歩です。

・・

仏教論考考察

「基体説」論考3-4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51788684.html

「基体説」論考1-2
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51786543.html

「場所の哲学」と仏教
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51784548.html

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・基体説について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51783852.html

チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51776609.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版
「中国仏教の批判的研究」伊藤隆寿著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年11月22日(Mon)▲ページの先頭へ
「基体説」論考4
「基体説」論考4

さて、今回は「基体説」のもたらす弊害につきまして考えて参りたいと存じます。

まず、松本史郎氏の関連論考を参考と致しまして、松本史郎氏が「基体説」の弊害として述べられていると思われる主張に関して、私なりに少しメモ程度にまとめさせて頂きますと、

『安易な空思想は最悪の現実肯定の理論となる。それは、「不二」や「即」の名のもとに楽天的な"同一性"を説き、密教を擁護する理論となる。』

『現実と実在の全面的同一性』の理論となる。

『(空の思想が)一切を単純に否定する気楽なニヒリズムと、それに裏うちされた全面肯定の楽天主義』に陥る。

『善悪を超えた一元の立場から善悪をそのまま容認する現実肯定的、最善主義的な』思想に陥り、何らの問題(迷い・苦しみ)の解決にもならない。

『原理的な同一、無差別を言うことによって、かえって現実的な差別を肯定し、絶対化する』というものとなる。

『原理的な同一性、無差別性を言いながら、最終的には現実の種姓や諸法の差別を述べることで終わる。』

『無差別平等なる「一」によって、差別たる現実の「多」の実在性が根拠づけられる』ことにより、『現実的差別が固定化・絶対化』されてしまうということになる。

以上の松本氏の主要な主張を鑑みますと、仏教思想における「現実肯定化・同一化・固定化・絶対化」、そして、特には「差別の肯定化・絶対化」といったことを弊害として簡潔にまとめることができ、更には、「仏教の曖昧化」、「仏教の堕落化・腐敗化・退廃化」といったことも考えることができます。

更に上記より導き出されるより具体的な弊害としては、「仏教の反知的神秘主義化」を招き、「教説・修行の神秘化・密教化、あるいは魔性化」傾向が顕著となる、また、「全面肯定論」から「修行不要論」・「仏教不要論」への転落といったことなどが考えられます。

次に、仏教思想が非仏教化していくことに大きく影響した思想について考察して参りたいと思います。

・・

「基体説」論考3

如来蔵・仏性思想において、最も重大な問題は、「実体的な存在」を是認しているのかどうかということでありますが、残念ながら、これまでの私なりに進めて参りました仏教論考考察の結果として、松本史朗氏の「基体説」によって明確に説明されるように「実体的な存在」を是認していると言わざるを得ないものと考えることができ、松本史朗氏の「如来蔵(仏性)思想は仏教にあらず」という見解は追認するべきであると言えます。

これまで、考察の俎上に何度も挙げて参りました「基体説」とは、『存在・現象など一切のモノ・コト、万物に関する究極的な真理としての最終的基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源・根拠などの本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだと想定・仮定・仮説した上で、それらから、あらゆる事物・事象・現象が生じていると説明する「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」』というものであります。仏教が、上記のような「基体」を想定・仮定・仮説し、「現実肯定の理論」へと転落して、非仏教化していく経緯の中においては、様々に「最終的基体」(dhātu)に関しての表現が成されて説明されていることが伺えます。

今までの私なりの仏教論考考察から思いつくままにそれらの例をまずは挙げてみましょう。中には、意外と思われる単語も含まれているかも知れませんが、「最終的基体」(dhātu)を思想的に含んでいる可能性が高いものとしてご理解を頂けましたらと存じます。

「最終的基体」(dhātu)を思想的に含んでいる可能性が高いと考えられる単語

最終的基体・究極的真理・諸法の基体・万物の根源

単一実在論・一元論的我論・発生論的一元論・絶対的一元論・超越的一元論・神秘的同一論

無執着・無所有・無所得・無処住・無所住・無基体

無区別・無分別・不二・離辺・断辺・八不中道・不生不滅・非有非無・百非・絶無

無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦

言忘慮絶・言語道断・絶言絶思・無念無想・無戯論・戯論寂滅・不思不観・無名・無記・不可知主義・反知的神秘主義・神秘的不可説

無基体の基体・無基底の基底・無限の無・無立場の立場・絶対無・絶対的絶対

真理・真如・涅槃・虚空・虚無・空寂・法性・法界・法身・実際・実義・一実・一如・一相・平等・無相・法位・無為・真諦・真性・実諦・実際・如実・実相・自性清浄

もう少し厳密に分析していかなければなりませんし、明確に分類したわけではありませんが、以上のような単語を挙げることができるのではないかと考えています。

さて、それでは「基体説」のもたらす弊害とはどのようなものとなるのでしょうか。次に少し考えて参りたいと存じます。

・・

「基体説」論考1-2
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「場所の哲学」と仏教
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"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・基体説について
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チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
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ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51776609.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
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「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
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教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版
「中国仏教の批判的研究」伊藤隆寿著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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2010年11月18日(Thu)▲ページの先頭へ
「基体説」論考3
「基体説」論考3

如来蔵・仏性思想において、最も重大な問題は、「実体的な存在」を是認しているのかどうかということでありますが、残念ながら、これまでの私なりに進めて参りました仏教論考考察の結果として、松本史朗氏の「基体説」によって明確に説明されるように「実体的な存在」を是認していると言わざるを得ないものと考えることができ、松本史朗氏の「如来蔵(仏性)思想は仏教にあらず」という見解は追認するべきであると言えます。

これまで、考察の俎上に何度も挙げて参りました「基体説」とは、『存在・現象など一切のモノ・コト、万物に関する究極的な真理としての最終的基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源・根拠などの本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだと想定・仮定・仮説した上で、それらから、あらゆる事物・事象・現象が生じていると説明する「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」』というものであります。仏教が、上記のような「基体」を想定・仮定・仮説し、「現実肯定の理論」へと転落して、非仏教化していく経緯の中においては、様々に「最終的基体」(dhātu)に関しての表現が成されて説明されていることが伺えます。

今までの私なりの仏教論考考察から思いつくままにそれらの例をまずは挙げてみましょう。中には、意外と思われる単語も含まれているかも知れませんが、「最終的基体」(dhātu)を思想的に含んでいる可能性が高いものとしてご理解を頂けましたらと存じます。

「最終的基体」(dhātu)を思想的に含んでいる可能性が高いと考えられる単語

最終的基体・究極的真理・諸法の基体・万物の根源

単一実在論・一元論的我論・発生論的一元論・絶対的一元論・超越的一元論・神秘的同一論

無執着・無所有・無所得・無処住・無所住・無基体

無区別・無分別・不二・離辺・断辺・八不中道・不生不滅・非有非無・百非・絶無

無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦

言忘慮絶・言語道断・絶言絶思・無念無想・無戯論・戯論寂滅・不思不観・無名・無記・不可知主義・反知的神秘主義・神秘的不可説

無基体の基体・無基底の基底・無限の無・無立場の立場・絶対無・絶対的絶対

真理・真如・涅槃・虚空・虚無・空寂・法性・法界・法身・実際・実義・一実・一如・一相・平等・無相・法位・無為・真諦・真性・実諦・実際・如実・実相・自性清浄

もう少し厳密に分析していかなければなりませんし、明確に分類したわけではありませんが、以上のような単語を挙げることができるのではないかと考えています。

さて、それでは「基体説」のもたらす弊害とはどのようなものとなるのでしょうか。次に少し考えて参りたいと存じます。

・・

「基体説」論考2

今回は、「如来蔵・仏性思想」の根本的な問題について考えて参りたいと存じます。

この問題については、下記の論考が非常に参考となるものであります。

「如来蔵・仏性思想の問題点」
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar3.pdf

少し参考までに本文を見て参りましょう。

如来蔵・仏性思想を説く経典としては、『如来蔵経』『勝鬘経』『大乗涅槃経』『楞伽経』などがあり、論としては『宝性論』(Sthiramati ?)『仏性論』(世親 Vasubandhu)『大乗起信論』(馬鳴 ASvaghoXa ?)『摂大乗論』(無著 AsaGga)などがある。

その他、法華経、華厳経、大日経、金剛頂経、理趣経など、中期・後期大乗仏教の主要教典においても如来蔵・仏性思想の影響が色濃く反映されている内容となっていると言えます。

如来蔵思想・仏性思想とは何か

衆生のうちには、仏・如来、あるいは仏と違わない本来清らかな心(自性清浄心)が宿っており、客塵煩悩(āgantuka kleśa)によって覆われているが、その覆いを取り去ることによって成仏が可能となる、という思想。

如来蔵・仏性思想は異端か

仏教は無我説、すなわち、唯一の根源的実在を認めない。しかるに、"dhātu"なる語は、根源的実在・諸法の発生根拠という意味をもち、そのようなものを認めることは無我説に反する。また、如来蔵思想とウパニシャッド哲学との類似性が指摘されている。ウパニシャッド(ベーダーンタ)とは、釈尊が批判した対象に他ならないから、これが反仏教思想であることが結論される。

如来蔵・仏性思想は平等思想か

大乗涅槃経にある「一切衆生悉有仏性」を単純に「一切の衆生は成仏の可能性が有る」とか、平等思想の宣言だとみなしてはならない。この文言の後には必ず、「一闡堤(いっせんだい、icchantika)を除く 」という語が付加されていて、「一闡堤」と呼ばれるある種の人々は、永久に仏に成ることができない、という差別的な立場が明記されているからである。

・・参照ここまで。

上記に見ましたように、如来蔵・仏性思想の大きな問題点として、一つには、仏教の基本的教説である「空」・「無我」の思想とは真っ向から対立する「根源的実在」を認める考えとなってしまうということ、もう一つは、「差別思想」であるということの二点を挙げることができます。

後者の「差別思想」に関しては、また機会を得て考察していくこととして、ここでは如来蔵・仏性を「根源的実在」として認める考えの弊害について、次回は扱って参りたいと存じます。

・・

「基体説」論考1

前回は、『「場所の哲学」と仏教』ということについて述べさせて頂きまして、今回は、仏教が「現実肯定の理論」へと転落し、非仏教化していく経緯を松本史郎氏提唱の「基体説」を視座として、「基体説」の内実、または『究極の真理・永遠の真理としてある「場所」』というものを探究しつづけて展開された仏教の内実とは、いったいどのようなものであるのかにつきまして考えて参りたいと存じます。

「基体説」・『究極の真理・永遠の真理としてある「場所」』の基本的な考え方は端的に申しますと、存在・現象など一切のモノ・コト、万物に関する究極的な真理としての最終的基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源・根拠などの本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだと想定・仮定・仮説した上で、それらから、あらゆる事物・事象・現象が生じていると説明する「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」であります。

存在・現象など一切のモノ・コト、万物に関する究極的な真理を説明していこうとする考え方は、宗教と哲学の両者共の至上命題である「真理の探究」の趣旨に適うことであります。

しかし、「真理の探究」において「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」というものを想定・仮定・仮説してしまうことは、仏教の基本的教説である「空」・「無我」の思想とは真っ向から対立することになるはずであります。ところが、長い仏教史上において、特に「空」・「無我」の概念から大きく逸脱していく教説が展開されてゆくこととなってしまいます。それが、いわゆる「如来蔵・仏性思想」というものであります。

「如来蔵・仏性思想」に関しましては、拙著施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」の第九章「仏性思想・如来蔵思想について」におきましてある程度詳しく述べさせて頂いておりますので参照して頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html

第九章「仏性思想・如来蔵思想について」
http://oujyouin.com/enginorikai9.html

そこで、今一度、「如来蔵」・「仏性」というものは、果たしてどのようなものであるのかということを理解していければと考えています。もしも、「如来蔵」・「仏性」というものを「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」であるとして認めるならば、「空」・「無我」の概念からは説明がつかなくなってしまいます。かといって、認めないならば、どうして「如来蔵」・「仏性」というような概念が出てきてしまったのか、ということを考えていかなければなりません。このことについては、上記の「仏性思想・如来蔵思想について」の考察の中でも少し触れていることではありますが、次にもう少し詳しく扱って参りたいと存じます。

「場所の哲学」と仏教
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51784548.html

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・基体説について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51783852.html

チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51776609.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
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余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

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「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
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「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
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・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
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「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
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「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
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「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
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「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
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「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
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『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
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「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
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「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版
「中国仏教の批判的研究」伊藤隆寿著・大蔵出版

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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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「基体説」論考2
「基体説」論考2

今回は、「如来蔵・仏性思想」の根本的な問題について考えて参りたいと存じます。

この問題については、下記の論考が非常に参考となるものであります。

「如来蔵・仏性思想の問題点」
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar3.pdf

少し参考までに本文を見て参りましょう。

如来蔵・仏性思想を説く経典としては、『如来蔵経』『勝鬘経』『大乗涅槃経』『楞伽経』などがあり、論としては『宝性論』(Sthiramati ?)『仏性論』(世親 Vasubandhu)『大乗起信論』(馬鳴 ASvaghoXa ?)『摂大乗論』(無著 AsaGga)などがある。

その他、法華経、華厳経、大日経、金剛頂経、理趣経など、中期・後期大乗仏教の主要教典においても如来蔵・仏性思想の影響が色濃く反映されている内容となっていると言えます。

如来蔵思想・仏性思想とは何か

衆生のうちには、仏・如来、あるいは仏と違わない本来清らかな心(自性清浄心)が宿っており、客塵煩悩(āgantuka kleśa)によって覆われているが、その覆いを取り去ることによって成仏が可能となる、という思想。

如来蔵・仏性思想は異端か

仏教は無我説、すなわち、唯一の根源的実在を認めない。しかるに、"dhātu"なる語は、根源的実在・諸法の発生根拠という意味をもち、そのようなものを認めることは無我説に反する。また、如来蔵思想とウパニシャッド哲学との類似性が指摘されている。ウパニシャッド(ベーダーンタ)とは、釈尊が批判した対象に他ならないから、これが反仏教思想であることが結論される。

如来蔵・仏性思想は平等思想か

大乗涅槃経にある「一切衆生悉有仏性」を単純に「一切の衆生は成仏の可能性が有る」とか、平等思想の宣言だとみなしてはならない。この文言の後には必ず、「一闡堤(いっせんだい、icchantika)を除く 」という語が付加されていて、「一闡堤」と呼ばれるある種の人々は、永久に仏に成ることができない、という差別的な立場が明記されているからである。

・・参照ここまで。

上記に見ましたように、如来蔵・仏性思想の大きな問題点として、一つには、仏教の基本的教説である「空」・「無我」の思想とは真っ向から対立する「根源的実在」を認める考えとなってしまうということ、もう一つは、「差別思想」であるということの二点を挙げることができます。

後者の「差別思想」に関しては、また機会を得て考察していくこととして、ここでは如来蔵・仏性を「根源的実在」として認める考えの弊害について、次回は扱って参りたいと存じます。

・・

「基体説」論考1

前回は、『「場所の哲学」と仏教』ということについて述べさせて頂きまして、今回は、仏教が「現実肯定の理論」へと転落し、非仏教化していく経緯を松本史郎氏提唱の「基体説」を視座として、「基体説」の内実、または『究極の真理・永遠の真理としてある「場所」』というものを探究しつづけて展開された仏教の内実とは、いったいどのようなものであるのかにつきまして考えて参りたいと存じます。

「基体説」・『究極の真理・永遠の真理としてある「場所」』の基本的な考え方は端的に申しますと、存在・現象など一切のモノ・コト、万物に関する究極的な真理としての最終的基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源・根拠などの本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだと想定・仮定・仮説した上で、それらから、あらゆる事物・事象・現象が生じていると説明する「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」であります。

存在・現象など一切のモノ・コト、万物に関する究極的な真理を説明していこうとする考え方は、宗教と哲学の両者共の至上命題である「真理の探究」の趣旨に適うことであります。

しかし、「真理の探究」において「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」というものを想定・仮定・仮説してしまうことは、仏教の基本的教説である「空」・「無我」の思想とは真っ向から対立することになるはずであります。ところが、長い仏教史上において、特に「空」・「無我」の概念から大きく逸脱していく教説が展開されてゆくこととなってしまいます。それが、いわゆる「如来蔵・仏性思想」というものであります。

「如来蔵・仏性思想」に関しましては、拙著施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」の第九章「仏性思想・如来蔵思想について」におきましてある程度詳しく述べさせて頂いておりますので参照して頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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第九章「仏性思想・如来蔵思想について」
http://oujyouin.com/enginorikai9.html

そこで、今一度、「如来蔵」・「仏性」というものは、果たしてどのようなものであるのかということを理解していければと考えています。もしも、「如来蔵」・「仏性」というものを「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」であるとして認めるならば、「空」・「無我」の概念からは説明がつかなくなってしまいます。かといって、認めないならば、どうして「如来蔵」・「仏性」というような概念が出てきてしまったのか、ということを考えていかなければなりません。このことについては、上記の「仏性思想・如来蔵思想について」の考察の中でも少し触れていることではありますが、次にもう少し詳しく扱って参りたいと存じます。

「場所の哲学」と仏教
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「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
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余談「批判的思考の必要性について・1」
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・・

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2010年11月10日(Wed)▲ページの先頭へ
「場所の哲学」と仏教
さて、前回は、松本史朗氏の「基体説」の解説につきまして詳しくその内容を見たところでございます。「基体説」は、如来蔵(仏性)思想批判において展開された松本史朗氏による提唱の説でございますが、仏教が「現実肯定の理論」へと転落し、非仏教化していく経緯を詳しく知見することのできる極めて有効な説でもあり、純粋な仏教とは一体どのようなものであるかを考察していく上で、重要な視座を示しているものであると考えております。

「基体説」は、ある意味で哲学におけるトポス論の一つであると考えることができます。「トポス」(topos)とは、「場所」のことを表しますが、存在・現象の基体としての「場所」について探究を行うのが、トポス論であります。最も有名であるのが、西田幾多郎氏の哲学(西田哲学)における「場所論」・「場所の哲学」であります。「場所の哲学」は、究極の真理・永遠の真理としてある「場所」を探究することがその目的であると言えます。

真理の探究は、宗教と哲学の両者共の至上命題であり、何千年と人類が取り組んできたことでもあります。仏教ももちろん真理の探究に取り組むわけではありますが、仏教の開祖、お釈迦様により、既にその答えは出ていたはずであったにも拘わらず、その後、仏教に関わる者たちは、様々に悪戦苦闘しながら真理の探究に更に取り組み、色々な教義・教説・論説・解釈が生じることとなって、諸派入り乱れて、現代まで展開して来ることとなってしまいました。

この混乱の要因は色々と挙げることができますが、その一つとして、「根深い実在論・実体論」というものを特に挙げることができるのではないかと思います。それが、松本史朗氏の「基体説」というもので、明確にその「基体説」を否定することで、真なる仏教を確立させようとする意図を松本氏の論考から随所に伺うことができます。

では、さて、究極の真理・永遠の真理としてある「場所」について、仏教ではどのように考えるべきであるのでしょうか。これは、これまでの拙いながらも私の仏教論考考察からの一つの結論として、そのような『究極の真理・永遠の真理としてある「場所」』というものは、はっきりと(実体・実在として)無いと言えます。このことは、お釈迦様の教えにおいて意図されているところとも完全に一致する結論であると強く確信しています。私の確信が正しいのか、間違っているのかは、これからの仏教研究の成果により更に示していければと考えている次第ではありますが、では、『究極の真理・永遠の真理としてある「場所」』というものを探究しつづけて展開された仏教の内実とはどのようなものであるのかについても、しっかりと検証して見極めていく必要があると考えております。

では、まず一体どのような考え方が、「基体説」と言えるのかということについて、次回に少し述べさせて頂こうと存じます。

・・

とにかく、しばらくは「批判的合理主義」の極北を目指して参りたいと考えておりますが、現代仏教学を再考していくための重要な視座として、松本史朗氏の「基体説」による批判学を挙げさせて頂いております。

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・「基体説」とは、簡単に述べさせて頂きますと、一切万物の最終的基体・根本・根源(dha(_)tu)というものを仮立して、全てのモノ・コト、dharma(諸法)を説明し解決してしまおうという考え方であります。

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」の構造は、非常にシンプルで、「単一な実在である基体(dha(_)tu)が、多元的なdharma(諸法)を生じる」と主張する説で、発生論的一元論・根源実在論であります。

以下、まずは、松本史朗『縁起と空-如来蔵思想批判』大蔵出版 1989年 5-6ページにおける松本氏の「基体説」の説明を見てみましょう。



如来蔵思想における"dha(_)tu"の意味を明確なものとするためにも、私が如来蔵思想の本質的構造と考えている"dha(_)tu-va(_)da"について、以下に説明しよう。"dha(_)tu-va(_)da"(基体説)とは、私が仮説的に用いる用語であるが、その構造は、上の図に示される。

図に明らかな通り、一切は下にある"locus"〔以下Lと略〕と上にある"super-locus"〔Sと略〕とに二分されるが、"dha(_)tu-va(_)da"の構造上の特徴を挙げれば、次の通りである。1、LはSの基体(locus)である。2、故に、LはSを生じる〔原因である〕。3、Lは単一であり、Sは多である。4、Lは実在であり、Sは非実在である。5、LはSの本質(a(_)tman)である。6、Sは非実在ではあるが、Lから生じたものであるから、またLを本質とするから、ある程度の実在性をもつ、または、実在性の根拠をもつ。

以上の諸点について解説すれば、1は言うまでもなく、"dha(_)tu-va(_)da"の構造自体を決定する最重要の点である。2におけるSのLからの「出生」は、Lの基体(locus)という性格・概念それ自体から導かれる。3と4について、Lを単一な実在と見るとき、Sはそれと異性質のものと見ざるを得ない。さもなければ、LからSが生じることは無意味となる。5について、本質(a(_)tman)とは、"aがなければbは生じない"という関係(avina(_)bha(_)va 関係)における"a"と考えられる。SはLがなければ生じないから。実際、如来蔵思想の代表経典たる『勝鬘経』と『涅槃経』は、Lを"a(_)tman"(我)と明言している。6は、"差別・区別の絶対化・固定化"を支える思想原理となる。五姓各別説もカースト制も、ここにその根拠を見いだしうる。何故なら、図ではLの上に三つのdharmaが乗っているだけであるが、そこに、永久に成仏できない一闡提、つまり無姓(agotra)を含めた五姓という五つのdharmaをSとして置くこともできる。その場合、「一切衆生悉有仏性」と「一闡提不成仏」は、矛盾することなく"調和"する。さらに、Sのところに、国王・人民・奴隷等の様々の階級をのせることも可能である。ところで、Sの"多性"は"dha(_)tu-va(_)da"の構造上不可欠の要因であるから、決して解消されない。従って、所謂"現実"の差別はここに絶対化される。繰り返せば、Lの単一性(平等)は、Sの多性(差別)を解消するどころか、かえってそれを維持し根拠づける原理となる。これは、明らかに差別思想である。

以上、"dha(_)tu-va(_)da"の構造を要約すれば、それは、「単一な実在である基体(dha(_)tu)が、多元的なdharmaを生じる」と主張する説ということになる。簡単に「発生論的一元論」とか「根源実在論」とか呼んでもよいであろう。

・・ここまで。

以上の松本氏の"dha(_)tu-va(_)da"(基体説)の見解を参照にしつつ、仏教が「現実肯定の理論」へと転落し、非仏教化していったことについて改めまして考えて参りたいと思います。

・・

ここ一ヶ月ほどは私事にて仏教の論考考察を小休止させて頂いておりました。少し思うところもあり、これまでの仏教論考考察のあり方について、見直しを図って参ろうかと存じております。

とにかく、仏教思想の中でも非常に重要な視座の一つである「空思想」を考える際においては、「一切は空である」、「諸法は空である」、「諸法は無自性である」ということで、全ての問題が解決されることはあり得ないということの理解が大切となります。

それは、「寂静」・「無戯論」・「無分別」が実義・真理であるとして、全ての問題が解決されることがあり得ないということとも同様であり、「空」やそれらの論理をもって現実肯定の理論にすり替えていくことは、やはり愚かなことであると言わざるを得ないものであり、「如来蔵思想・仏性思想」における現実肯定の理論においても、もちろん同様であります。

「空」・「寂静」・「無戯論」・「言語道断」・「不可説」・「無分別」・「不二」・「即」で、「はい、全ての問題が解決し、悩み、苦しみも無くなりました。一件落着で良かった。」となるものでは到底ありません。

僧侶に限らず、普通の一般の方におかれましても、ある程度仏教哲学を学べば、「一切は空である」、「諸法は空である」、「諸法は無自性である」ということは容易に理解できるところであります。

問題は、「空」や「無分別」・「無戯論」・「不二」等を理解してから、いかにして現実実際上における「縁起」を見定めていくべきであるのかが重要なこととなります。

日本仏教における伝統教学においても、楽観的、楽天的な一時しのぎの気休め程度にしかならないような教説は徹底して排除すべきであり、とにかく、『「批判的合理主義」・「空のニヒリズム主義」による「徹底した自己否定」・「絶対的一元論の否定」・「絶対的存在・実在の否定」・「神秘主義の否定」・「盲目的信仰・崇拝の否定」・「密教の否定」・「呪術・マントラ・迷信の否定」といったこと』の視座から、何百年と継承されてきた日本仏教の伝統教学における誤りについても見直すことが必要であると考えております。

まだまだ若輩、浅学非才の未熟者ではごさいますが、日本仏教の前途について憂うところがある次第でございます。

これからも仏教論考考察に関しても鋭意精進しつつ、自らも確かなる利他・慈悲行の実践へ向けまして努力していけましたらと存じております。

・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾
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・・

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2010年11月08日(Mon)▲ページの先頭へ
"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・基体説について
とにかく、しばらくは「批判的合理主義」の極北を目指して参りたいと考えておりますが、現代仏教学を再考していくための重要な視座として、松本史朗氏の「基体説」による批判学を挙げさせて頂いております。

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」・「基体説」とは、簡単に述べさせて頂きますと、一切万物の最終的基体・根本・根源(dha(_)tu)というものを仮立して、全てのモノ・コト、dharma(諸法)を説明し解決してしまおうという考え方であります。

"dha(_)tu-va(_)da"「ダートゥ・ヴァーダ」の構造は、非常にシンプルで、「単一な実在である基体(dha(_)tu)が、多元的なdharma(諸法)を生じる」と主張する説で、発生論的一元論・根源実在論であります。

以下、まずは、松本史朗『縁起と空-如来蔵思想批判』大蔵出版 1989年 5-6ページにおける松本氏の「基体説」の説明を見てみましょう。



如来蔵思想における"dha(_)tu"の意味を明確なものとするためにも、私が如来蔵思想の本質的構造と考えている"dha(_)tu-va(_)da"について、以下に説明しよう。"dha(_)tu-va(_)da"(基体説)とは、私が仮説的に用いる用語であるが、その構造は、上の図に示される。

図に明らかな通り、一切は下にある"locus"〔以下Lと略〕と上にある"super-locus"〔Sと略〕とに二分されるが、"dha(_)tu-va(_)da"の構造上の特徴を挙げれば、次の通りである。1、LはSの基体(locus)である。2、故に、LはSを生じる〔原因である〕。3、Lは単一であり、Sは多である。4、Lは実在であり、Sは非実在である。5、LはSの本質(a(_)tman)である。6、Sは非実在ではあるが、Lから生じたものであるから、またLを本質とするから、ある程度の実在性をもつ、または、実在性の根拠をもつ。

以上の諸点について解説すれば、1は言うまでもなく、"dha(_)tu-va(_)da"の構造自体を決定する最重要の点である。2におけるSのLからの「出生」は、Lの基体(locus)という性格・概念それ自体から導かれる。3と4について、Lを単一な実在と見るとき、Sはそれと異性質のものと見ざるを得ない。さもなければ、LからSが生じることは無意味となる。5について、本質(a(_)tman)とは、"aがなければbは生じない"という関係(avina(_)bha(_)va 関係)における"a"と考えられる。SはLがなければ生じないから。実際、如来蔵思想の代表経典たる『勝鬘経』と『涅槃経』は、Lを"a(_)tman"(我)と明言している。6は、"差別・区別の絶対化・固定化"を支える思想原理となる。五姓各別説もカースト制も、ここにその根拠を見いだしうる。何故なら、図ではLの上に三つのdharmaが乗っているだけであるが、そこに、永久に成仏できない一闡提、つまり無姓(agotra)を含めた五姓という五つのdharmaをSとして置くこともできる。その場合、「一切衆生悉有仏性」と「一闡提不成仏」は、矛盾することなく"調和"する。さらに、Sのところに、国王・人民・奴隷等の様々の階級をのせることも可能である。ところで、Sの"多性"は"dha(_)tu-va(_)da"の構造上不可欠の要因であるから、決して解消されない。従って、所謂"現実"の差別はここに絶対化される。繰り返せば、Lの単一性(平等)は、Sの多性(差別)を解消するどころか、かえってそれを維持し根拠づける原理となる。これは、明らかに差別思想である。

以上、"dha(_)tu-va(_)da"の構造を要約すれば、それは、「単一な実在である基体(dha(_)tu)が、多元的なdharmaを生じる」と主張する説ということになる。簡単に「発生論的一元論」とか「根源実在論」とか呼んでもよいであろう。

・・ここまで。

以上の松本氏の"dha(_)tu-va(_)da"(基体説)の見解を参照にしつつ、仏教が「現実肯定の理論」へと転落し、非仏教化していったことについて改めまして考えて参りたいと思います。

・・

ここ一ヶ月ほどは私事にて仏教の論考考察を小休止させて頂いておりました。少し思うところもあり、これまでの仏教論考考察のあり方について、見直しを図って参ろうかと存じております。

とにかく、仏教思想の中でも非常に重要な視座の一つである「空思想」を考える際においては、「一切は空である」、「諸法は空である」、「諸法は無自性である」ということで、全ての問題が解決されることはあり得ないということの理解が大切となります。

それは、「寂静」・「無戯論」・「無分別」が実義・真理であるとして、全ての問題が解決されることがあり得ないということとも同様であり、「空」やそれらの論理をもって現実肯定の理論にすり替えていくことは、やはり愚かなことであると言わざるを得ないものであり、「如来蔵思想・仏性思想」における現実肯定の理論においても、もちろん同様であります。

「空」・「寂静」・「無戯論」・「言語道断」・「不可説」・「無分別」・「不二」・「即」で、「はい、全ての問題が解決し、悩み、苦しみも無くなりました。一件落着で良かった。」となるものでは到底ありません。

僧侶に限らず、普通の一般の方におかれましても、ある程度仏教哲学を学べば、「一切は空である」、「諸法は空である」、「諸法は無自性である」ということは容易に理解できるところであります。

問題は、「空」や「無分別」・「無戯論」・「不二」等を理解してから、いかにして現実実際上における「縁起」を見定めていくべきであるのかが重要なこととなります。

日本仏教における伝統教学においても、楽観的、楽天的な一時しのぎの気休め程度にしかならないような教説は徹底して排除すべきであり、とにかく、『「批判的合理主義」・「空のニヒリズム主義」による「徹底した自己否定」・「絶対的一元論の否定」・「絶対的存在・実在の否定」・「神秘主義の否定」・「盲目的信仰・崇拝の否定」・「密教の否定」・「呪術・マントラ・迷信の否定」といったこと』の視座から、何百年と継承されてきた日本仏教の伝統教学における誤りについても見直すことが必要であると考えております。

まだまだ若輩、浅学非才の未熟者ではごさいますが、日本仏教の前途について憂うところがある次第でございます。

これからも仏教論考考察に関しても鋭意精進しつつ、自らも確かなる利他・慈悲行の実践へ向けまして努力していけましたらと存じております。

・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾
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・・

チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
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教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
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チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
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「苦楽中道説について」補足
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中観帰謬論証派の学びのススメ
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mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版
「中国仏教の批判的研究」伊藤隆寿著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

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2010年11月04日(Thu)▲ページの先頭へ
今後の仏教論考考察について
さて、ここ一ヶ月ほどは私事にて仏教の論考考察を小休止させて頂いておりました。少し思うところもあり、これまでの仏教論考考察のあり方について、見直しを図って参ろうかと存じております。

とにかく、仏教思想の中でも非常に重要な視座の一つである「空思想」を考える際においては、「一切は空である」、「諸法は空である」、「諸法は無自性である」ということで、全ての問題が解決されることはあり得ないということの理解が大切となります。

それは、「寂静」・「無戯論」・「無分別」が実義・真理であるとして、全ての問題が解決されることがあり得ないということとも同様であり、「空」やそれらの論理をもって現実肯定の理論にすり替えていくことは、やはり愚かなことであると言わざるを得ないものであり、「如来蔵思想・仏性思想」における現実肯定の理論においても、もちろん同様であります。

「空」・「寂静」・「無戯論」・「言語道断」・「不可説」・「無分別」・「不二」・「即」で、「はい、全ての問題が解決し、悩み、苦しみも無くなりました。一件落着で良かった。」となるものでは到底ありません。

僧侶に限らず、普通の一般の方におかれましても、ある程度仏教哲学を学べば、「一切は空である」、「諸法は空である」、「諸法は無自性である」ということは容易に理解できるところであります。

問題は、「空」や「無分別」・「無戯論」・「不二」等を理解してから、いかにして現実実際上における「縁起」を見定めていくべきであるのかが重要なこととなります。

日本仏教における伝統教学においても、楽観的、楽天的な一時しのぎの気休め程度にしかならないような教説は徹底して排除すべきであり、とにかく、『「批判的合理主義」・「空のニヒリズム主義」による「徹底した自己否定」・「絶対的一元論の否定」・「絶対的存在・実在の否定」・「神秘主義の否定」・「盲目的信仰・崇拝の否定」・「密教の否定」・「呪術・マントラ・迷信の否定」といったこと』の視座から、何百年と継承されてきた日本仏教の伝統教学における誤りについても見直すことが必要であると考えております。

まだまだ若輩、浅学非才の未熟者ではごさいますが、日本仏教の前途について憂うところがある次第でございます。

これからも仏教論考考察に関しても鋭意精進しつつ、自らも確かなる利他・慈悲行の実践へ向けまして努力していけましたらと存じております。

・・

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾
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・・

チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51777157.html

ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51776609.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
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「非有・非無の中道」について
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「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
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2010年10月19日(Tue)▲ページの先頭へ
チベット仏教・「シュクデン」崇拝問題から考える
仏教考察は少しお休みさせて頂いております・・

さて、松本史朗氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の視座につきまして、これまで私なりに考察して参りました。もちろん、まだまだこれからでございますが、現時点におきましては、『「批判的合理主義」・「空のニヒリズム主義」による「徹底した自己否定」・「絶対的一元論の否定」・「絶対的存在・実在の否定」・「神秘主義の否定」・「盲目的信仰・崇拝の否定」・「密教の否定」・「呪術・マントラ・迷信の否定」といったものを挙げることができる』と述べさせて頂いております。

松本氏の視座によりますと、チベット仏教を教学的に大成し、ゲルク派を開基したツォンカパ論師の思想につきましても、最終的には如来蔵思想を脱却できずにやがて密教へと傾注してゆくこととなったことを論著内において批判的に述べられています。

つまり、チベット最大の宗派としてその後発展していったゲルク派が奉じている「密教」的な教義におけるところも当然に松本氏にとっては、批判対象となるわけであります。

もちろん、顕密仏教・体制で強固に成り立っている現代チベット仏教において、密教的要素を完全に取り除くことは恐らくほぼ不可能でありますでしょう。

ただ、このあたりのところで、現在のゲルク派の最高指導者であるダライ・ラマ14世師が、カルト・セクト主義色の強いとされる「シュクデン」崇拝を禁止するに至った経緯は、チベット仏教史上においても非常に重大な出来事であると言えるでしょう。

しかしながら、ダライ・ラマ14世師が、禁令したものの、「シュクデン」崇拝はチベット仏教内において相当な影響力を占めており、無くなるどころではなく、信奉者はゲルク派内でも圧倒的な多数を占めているとされ、また、「ニュー・カダンパ・トラディション」といった、チベット仏教から独立した国際宗教団体が活動を広げているなど、今後も「シュクデン」崇拝問題は、どのように展開していくのかは、非常に注視の必要があります。

「シュクデン」崇拝問題は、チベット仏教の今後、ダライ・ラマ14世師の活動の今後の展開においても、まさに「アキレス腱」になりかねないといったところではないかと恐れ多くも察する次第でございます。

とにかく、松本氏の視座から考えますと、現在に至るまでのチベット仏教の様々な歴史的経緯を察するに、純粋な顕教における「中観思想」の理解だけでは留まらず、「密教」を受容していったことは、「ある意味で残念至極であった」ということになりますでしょうか・・

私が仏教考察を少しお休みさせて頂いておりますのも、ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意欲がやや減退してきてしまっていることも少なからず影響しています・・もちろん、松本氏の論著の学びを進めていくことで、ある種の失望は自身も予測していたことではありますが・・

最後に「チベット仏教哲学・松本史朗著・大蔵出版」の第10章「ツォンカパと離辺中観説」p390から、以下の文章を抜粋しておきます・・

抜粋開始・・

「ツォンカパが、"最高の実在は不可説であるから、一切の言葉・分別・判断・主張はもっぱら否定されなければならない"という実在論的仏教理解を根底から否定したことの意義は、革命的なものと言えようが、"縁起"("世俗有の主張")か、"空"("勝義無の主張")かを二者択一的に問うたとき、ツォンカパの議論の力点が後者に置かれていたことは否定すべくもないであろう。ツォンカパが、"仏教には主張がある"と力説したことは、仏教を明確な"哲学"として確立しようとしたことを意味する。しかし、そのツォンカパにとっての仏教の"主張""哲学"が、"縁起"ではなくて"空"という否定的なものであったということが、彼の思想から深刻さを奪い、結果的には"縁起"とは全く矛盾する"dha(_)tu-va(_)da"にもとづく密教を自ら許容する余地を生じることになったのである。」

・・抜粋ここまで。

・・

前回にダライ・ラマ14世師の属しておられるチベット仏教最大の宗派・ゲルク派における内部問題として、「シュクデン」崇拝問題を挙げさせて頂きました。

あまりご存じでない方も多いかと存じますので、「シュクデン」崇拝問題とはどういうものであるのかについてWikipediaに詳しく記載されておりますので、ご参照頂けましたらと思います。

「シュクデン」 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%87%E3%83%B3

・・

ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
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「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
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『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
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2010年10月17日(Sun)▲ページの先頭へ
ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席との会談について考える
仏教考察は少しお休みさせて頂いております・・

さて、松本史朗氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の視座の真なる狙いを捉えようとしている次第でございますが、その狙いの一つとして考えられるのは、「盲目的・無批判的な信仰・崇拝・狂信・病的執着による様々な弊害の排除」というものがあるように存じております。

このことは、余談「批判的思考の必要性について・1」において、
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「・・例えば、宗教の場合は、特に神秘的・密教的・呪術的な要素を扱うことがあれば、それらはある意味では万人を納得させることが容易ではなく、証明のほとんど効かないようなことを非合理的で曖昧な領域において展開されていくことがあります。そのため、宗教における神秘的・密教的・呪術的な行為というものは、盲目的・無批判的な信仰・崇拝・狂信・病的執着を生み出しやすく、様々な弊害をもたらしてきたことは、過去にあまたの例があります。

また、宗教における神秘的・密教的・呪術的な行為は、その行き過ぎにより犯罪・詐欺的行為へと結びつく可能性も非常に高く、実際に問題になることも多々であり、また、表面化してこないことで、潜在的に非常に曖昧なグレーゾーンの領域において受容・許容されていることもたくさんあります。・・」

と述べさせて頂きました。

そこで、このことを考えるうちに、中国によるチベット侵攻の前に、ダライ・ラマ14世師と毛沢東・中国初代国家主席とが会談した時のやり取りについて、どこか考えさせられるところが出て参りました。映画「クンドゥン」でも誠に印象に残る場面であります。

参照 児童小銃 http://d.hatena.ne.jp/rna/
『ダライ・ラマ自叙伝より: 毛沢東曰く「仏教はよい宗教」「しかし宗教は毒だ」』
http://d.hatena.ne.jp/rna/20080318/p2

『・・数日後、私は毛沢東から「一時間以内に会いに来る」というメッセージを受け取った。彼は、到着したとき、ただ単に訪問しただけだと言った。それから、何かのはずみに、「仏教はたしかによい宗教だ。釈尊はもとは王子であったが、人民の生活条件を向上させる問題に、多くの考えを払った方だ。また観音菩薩は親切な心の女性だ」という意見を述べた。数分後に、彼は立ち去ったが、私はこれらの意見にすっかり当惑して、どう判断してよいのか分からなかった。・・』
『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』木村肥佐生訳 (1986) p137

『・・この非凡な人物と私の最後のインタビューは、私の中国訪問が終わりに近付いたころであった。私が全中国人民代表会議常任委員会の会議に出席していたとき、私は毛主席邸に行って、主席に会うようにと書かれたメッセージを受け取った。それまでに、私は中国各省の歴訪をすでに完了していたので、私は、彼に「私が見たすべての開発工事に深い感銘を受け、興味を持った」と正直に話した。これに対し彼は、民主主義の真の形態について、私に長い講義をした上で、どうやって、人民の指導者となるか、いかに彼らの提案に留意するかについて、私に忠告を与えた。それから彼は、椅子の上で、私の方ににじり寄り、「私はあなたをよく理解している。しかしもちろんのことだけど、宗教は毒だ。宗教は二つの欠点を持っている。まずそれは民族を次第に衰えさせる。第二に、それは国家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだ」と、低い声でささやいた。

私は、全く驚いた。このことは何を意味し、暗示しようとしているのか? 私は心を落ち着かせようとしたが、彼をどう理解すべきか、私には分からなかった。ただ彼が、宗教の手強い敵であることは、充分知っていた。それにもかかわらず、彼は私に対して、本当に友好的で、親愛感にあふれているように見えた。これらの異常な意見を述べたのち、彼は、私と共に自動車の所まで歩き、「体に気をつけなさい」と別れの言葉を告げた。・・』
『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』木村肥佐生訳 (1986) p138-139

上記に置ける「宗教は毒だ」という毛沢東の発言は、誠に有名であります。その理由としては、「民族の弱体を招くこと」、「国家の進歩を妨げること」という二点が毛沢東の発言から直接に伺えます。チベットは近代化に乗り遅れている劣等の地方・民族であるという毛沢東の見方が、この発言と、やがて迫り来るチベット侵攻の動機とも言えますが、さて、ここで私が何を述べたいのか・・毛沢東がチベット侵攻をした真なる意図(領土拡大・植民地支配・資源奪取・対インド対策・対資本主義対策等)については、ひとまずここでは触れずにおいておくとしまして、毛沢東の「宗教は毒だ」という発言における「宗教の毒性」ということについて少し考えてみたいと存じます。

ここで毛沢東が、毒に関して、宗教ともう一つの喩えを暗示していたというものが、実は「麻薬」、特に「アヘン」であります。列強の植民地支配にあえぎ苦しんでいた清国は、イギリスによるアヘンの流入により、更なる社会不安の増大を招き、やがてアヘンの輸入を禁止すると、イギリスとの間で戦争にまで至り、敗北後、列強各国による植民地支配はますます酷くなり、いよいよ清国の崩壊も加速していくこととなります。

毛沢東は、アヘンという麻薬による弊害(毒性)によって国家が衰退へと大きく影響したことと、宗教における弊害(毒性)として時にある「盲目的・無批判的な信仰・崇拝・狂信・病的執着」による影響とを、同様のものと見なして、「毒」として喩えて表現し、「宗教は毒だ」と嫌忌したのだと考えることができます。

麻薬における弊害と、宗教において時にある「盲目的・無批判的な信仰・崇拝・狂信・病的執着」による弊害と、双方共通して言えることは、依存性・常習性・堕落性をもたらすことや、(人格の崩壊、暴力性・凶暴性などによる犯罪の誘発といったことでの)社会の治安の悪さの増大、不安定さの増大、更には労働意欲の減退、離職者の急増、失業者の増加による経済への影響など、色々と挙げることができます。家庭崩壊もその一つと挙げてもいいかもしれません。

とにかく、毛沢東の「宗教は毒だ」という発言については、当時のチベットにおいて、仏教における「盲目的・無批判的な信仰・崇拝・狂信・病的執着」による弊害が、どの程度見受けられていたのかということも考えておかなければいけないところでもあります。例えば、各宗派間の醜い権力(政治権力)争い、勢力争いの状況や、または、神秘的・密教的・呪術的な側面の強さによって、どれほどに腐敗・堕落していたのか、といったことについてもしっかりと見極める必要があります。

現在、ダライ・ラマ14世師の属しておられるチベット仏教最大の宗派・ゲルク派においても、長年にわたる他派との醜い勢力争い、政治権力争いの問題や、派内におけるシュクデン崇拝問題など、ややこしいところがあるのも事実であります。

何事も表だけで判断することなく、やはりその裏もしっかりと見極めていかないといけないという感じでもあります・・批判的思考の必要性を思うところであります。

・・

以前に、余談「批判的思考の必要性について・1」におきまして、松本史朗氏の批判的視座につきまして、簡単に述べさせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

少しだけその関連として、松本史朗氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の視座を私なりに簡単に今一度推察しますと、「批判的合理主義」・「空のニヒリズム主義」による「徹底した自己否定」・「絶対的一元論の否定」・「絶対的存在・実在の否定」・「神秘主義の否定」・「盲目的信仰・崇拝の否定」・「密教の否定」・「呪術・マントラ・迷信の否定」といったものを挙げることができるのではないだろうかと存じております。

その目的は、雑多な思想展開を経て変容してきた仏教において、上記の視座を通じて、余計なものを退けてゆくことによって、真なる純粋な仏教を抽出し、確立させていこうとしているものと考えます。

では、松本史朗氏の抽出し確立させようとしている真なる純粋な仏教とは何であるのか、それは、これまでの氏の論著集の中から、すでにいくつか挙げることができます。また、このことについても考察して参りたいと存じます。

・・

次回からは、前回の「サムイェーの宗論」の考察と関連しまして、龍樹(ナーガールジュナ)論師の中論の核心部分について、松本史朗氏の「禅思想の批判的研究・大蔵出版 」の第一章「禅思想の意義」を参考としまして考えて参りたいと思っております。

中論において、特に解釈が難解であるとされている中論「観法品」(第十八・第九偈)についての内容考察となります。

とにかく最近は、松本史朗氏の論著をかなり集中的に読み進めております。松本氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の真なる狙いが少しずつ分かり始めてきたところでございます。

とにかく粛々と一歩一歩です。

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年10月16日(Sat)▲ページの先頭へ
松本史朗氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の視座
仏教考察は少しお休みさせて頂いております・・

以前に、余談「批判的思考の必要性について・1」におきまして、松本史朗氏の批判的視座につきまして、簡単に述べさせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

少しだけその関連として、松本史朗氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の視座を私なりに簡単に今一度推察しますと、「批判的合理主義」・「空のニヒリズム主義」による「徹底した自己否定」・「絶対的一元論の否定」・「絶対的存在・実在の否定」・「神秘主義の否定」・「盲目的信仰・崇拝の否定」・「密教の否定」・「呪術・マントラ・迷信の否定」といったものを挙げることができるのではないだろうかと存じております。

その目的は、雑多な思想展開を経て変容してきた仏教において、上記の視座を通じて、余計なものを退けてゆくことによって、真なる純粋な仏教を抽出し、確立させていこうとしているものと考えます。

では、松本史朗氏の抽出し確立させようとしている真なる純粋な仏教とは何であるのか、それは、これまでの氏の論著集の中から、すでにいくつか挙げることができます。また、このことについても考察して参りたいと存じます。

・・

次回からは、前回の「サムイェーの宗論」の考察と関連しまして、龍樹(ナーガールジュナ)論師の中論の核心部分について、松本史朗氏の「禅思想の批判的研究・大蔵出版 」の第一章「禅思想の意義」を参考としまして考えて参りたいと思っております。

中論において、特に解釈が難解であるとされている中論「観法品」(第十八・第九偈)についての内容考察となります。

とにかく最近は、松本史朗氏の論著をかなり集中的に読み進めております。松本氏の「批判宗学」・「批判仏教学」・「如来蔵(仏性)思想批判」の真なる狙いが少しずつ分かり始めてきたところでございます。

とにかく粛々と一歩一歩です。

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6-7
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51774538.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第四弾

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「仏教思想論 上」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年10月11日(Mon)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・7
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・7

さて、今回も前回から引き続きまして、「サムイェーの宗論」につきまして考えて参りたいと存じます。

前回にも述べさせて頂きましたように「サムイェーの宗論」における論点と致しましては、「無分別知」(般若の智慧)へと至るための方法論の相違を挙げさせて頂きました。

では、「無分別知」ということについてはどうであるのかと言いますと、松本氏の「禅思想の批判的研究・大蔵出版 」の第一章「禅思想の意義」を参考と致しますと、「無分別知」そのものについては、両者共に認めているという点では一致しているということが理解できます。

実は、この「無分別知」というものが一体どういうものとして成り立っているのかということにおいては、非常に重要な問題が控えているところであります。

「無分別知」というのは、「あらゆるモノ・コトは、分別が無いというありよう」、つまり、「分かれていない、別れていない」ということを「知」、「知る」ということになります。

では、本当に「無分別知」ということはあり得るのでしょうか。ここは非常にある意味で無理のあるところで、私たちが、思考・思慮・思惟する限りにおいては、必ず何らかを分別しなければならないため、当然に思考・思慮・思惟を否定しなければならなくなるという不都合が生じざるを得ないところであります。

そのため、「無分別知」というものが有るのだとして執着してしまうと、当然に「不思・不観」・「無念・無想」という「思考の停止」を説くに至るのは仕方のない面もありまして、実は、摩訶衍論師と同様に、「無分別知」へと至るためには、カマラシーラ論師も最終的には「無念」・「無思惟」を認めているというところがあります。

つまり、カマラシーラ論師の「無分別知」と摩訶衍論師の「無分別知」では何が異なるのかと言えば、基本的には何らとして変わらないわけであります。それを前者の「無分別知」は、「正しい無分別知」で、後者は「誤った無分別知」と言うのもおかしなことであり、至るところが同じとなれば、特に段階を設けなくても、摩訶衍論師の「不思・不観」・「無念・無想」という「思考の停止」による修行方法でも特に問題はないこととなってしまいます。

また、カマラシーラ論師は、「無分別知」へと至るための段階として、「正しい分別知」・「正しい個別観察」というものの必要性を説いていますが、では、何が基準として、どのようなことが「正しい分別知」・「正しい個別観察」であるのかということも実は問題として出てくるのであります。もちろん、このことを考える上での基準の一つとしては、「空性の知」・「空性の洞察」というものが考えられていますが、「空性の知・空性の洞察」というのは、「あらゆるモノ・コトは、空である」・「諸法は無自性である」というものとなるものの、それで、「無分別知」に至れるということもやや疑問が残るところであります。

つまり、「諸法は、空・無自性である」という分別知が、「無分別知」というのも無理があり、また、結局は、「無分別知」を悟るということは、「諸法は、空・無自性である」ということを悟るということとなっても、それならば、その他の一切の仏説は全く必要のないものとなってしまうという不都合も生じてしまいかねません。

更には、「諸法は、空・無自性・無分別である」→「その主張も、空・無自性・無分別である」→「戯論寂滅・言語道断・不可説」→「不思・不観」・「無念・無想」→「思考の停止」→「無分別知」→「諸法は、空・無自性・無分別である」→「その主張も、空・無自性・無分別である」→・・・と循環論法に陥ってしまうことにもなってしまいかねません。そこで、最高の真理・最高の真実は、「無分別知」であるとして、この循環論法を停止させることになるわけです。

しかし、それは「無分別知」なるものを「最高の真理、最高の真実」として実体視して捉えようとしてしまうところへと容易に繋がってゆくことにもなってしまいます。

つまりは、「無分別なるもの」・「分かれていない、別れていないもの」・「あらゆるモノ・コトは、分別が無いというありようであるということ」というのは、単一の実在、最高の実在として捉えようとする一元論的な見方が働いてしまうこととなってしまいかねません。

それは、「無分別知」・「諸法無自性」というものによって、あらゆる問題を解決してしまうかのような錯覚へと陥ってゆき、仏教・仏説、更には仏教において最も重要な教説である「縁起の理法」さえもが無力化されかねない懸念が生じてしまう弊害が出てきてしまうことになるのであります。

このような弊害は中観思想内においても見受けられたことで、「空」として本来はその実体視を否定されるべきである「無分別知」が、「最高の真理、最高の真実」として肯定的に扱われ出してしまってくることによって、中観思想が自己矛盾を抱えて自己崩壊を招き、実在・実体化論へ傾斜してゆくことになってしまうのであります。

瑜伽行中観自立論証派であったカマラシーラ論師においても、「無分別知」を認めて、肯定的に実体・実在視して扱ってしまっているという限り、如来蔵思想の影響は少ないながらも受けてしまっていると言えるため、摩訶衍論師とカマラシーラ論師の両者共にその論争の内容の根底を鑑みると、如来蔵思想の影響が、濃いか薄いかという濃淡の違いでしかなく、真なる意味で、「如来蔵思想 VS 中観思想」と言えるのかどうかということは、実はかなり疑問符が付いてしまうのであります。

次回も引き続きまして、この問題を扱って参りたいと存じます。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6

今回は、「サムイェーの宗論」につきまして、少し考えて参りたいと存じます。「サムイェーの宗論」とは、チベット・サムイェー寺において展開された中国の禅師・摩訶衍論師とインドの中観思想家・カマラシーラ論師との論争のことであります。

松本氏の論著におきましては、「サムイェーの宗論」への言及が随所に見受けられますように、如来蔵思想の問題を考える上で、「サムイェーの宗論」は、重要な内容を持っており、中観思想と如来蔵思想の激突として、チベット仏教史上における一大宗教論争として重大な事件でありました。

摩訶衍論師は、中国禅宗の北宗派(神秀禅師を開祖とする派)の流れを汲む系統と位置づけられていますが、北宗派を激しく非難した神会禅師(南宗派・六祖慧能禅師の弟子)の弟子であったともされ、北宗派の段階的に悟りを進める「漸悟禅」を主張する立場であったのか、それとも、南宗派の悟りへの段階を認めずに悟りへの境地を目指す「頓悟禅」を主張する立場であったのか、定かではないところがありますが、「サムイェーの宗論」においては、「頓悟禅」の立場を主張したとされています。

一方のカマラシーラ論師は、インド・ナーランダ僧院の高僧・シャーンタラクシタ論師の弟子であり、思想的立場は、「瑜伽行中観自立論証派」と位置づけられています。「瑜伽行中観自立論証派」は、唯識思想と中観思想とが思想的に統合して発展した派で、空の思想を基底に置きつつ、(一応、仮として認める)心(識)の作用を、悟りへと向けていかにして調えていくべきであるのかについて考えていく立場であります。

「サムイェーの宗論」の大きな論点としましては、松本氏の「禅思想の批判的研究・大蔵出版 」の第一章「禅思想の意義」を参考と致しますと、「無分別知」(般若の智慧)ということをめぐり、摩訶衍論師は、「不思不観」・「無念無想」による「無分別知」への即座の到達を主張し、カマラシーラ論師は、「正しい分別知」・「正しい個別観察」によって、段階的に「無分別知」への到達を目指すべきであると主張したということが挙げられるのではないかと存じます。

少しまとめますと、摩訶衍論師の主張と致しましては、「不思不観」・「無念無想」→「無分別知」という流れとなり、カマラシーラ論師の主張と致しましては、「正しい分別知」・「正しい個別観察」→「無分別知」という流れで、更に、「無分別知」→「空性の洞察」が必要であるとして、段階的な知の階梯を主張します。

結果的には、摩訶衍論師の主張は退けられ、以後、チベット仏教においては、中観思想派の流れが優位となっていくわけですが、重要なことは、「サムイェーの宗論」において完全に如来蔵思想の問題が払拭したというわけではなく、厳密に中観思想と如来蔵思想の激突と言えたのかどうかということについても疑問の余地が残ってしまったところがあります。

次回も引き続きまして、「サムイェーの宗論」の意義に関しまして考えて参りたいと存じます。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

仏教の学びの参考論著に、「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版を追加しました。


「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51773161.html

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年10月09日(Sat)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・6

さて、今回は、「サムイェーの宗論」につきまして、少し考えて参りたいと存じます。「サムイェーの宗論」とは、チベット・サムイェー寺において展開された中国の禅師・摩訶衍論師とインドの中観思想家・カマラシーラ論師との論争のことであります。

松本氏の論著におきましては、「サムイェーの宗論」への言及が随所に見受けられますように、如来蔵思想の問題を考える上で、「サムイェーの宗論」は、重要な内容を持っており、中観思想と如来蔵思想の激突として、チベット仏教史上における一大宗教論争として重大な事件でありました。

摩訶衍論師は、中国禅宗の北宗派(神秀禅師を開祖とする派)の流れを汲む系統と位置づけられていますが、北宗派を激しく非難した神会禅師(南宗派・六祖慧能禅師の弟子)の弟子であったともされ、北宗派の段階的に悟りを進める「漸悟禅」を主張する立場であったのか、それとも、南宗派の悟りへの段階を認めずに悟りへの境地を目指す「頓悟禅」を主張する立場であったのか、定かではないところがありますが、「サムイェーの宗論」においては、「頓悟禅」の立場を主張したとされています。

一方のカマラシーラ論師は、インド・ナーランダ僧院の高僧・シャーンタラクシタ論師の弟子であり、思想的立場は、「瑜伽行中観自立論証派」と位置づけられています。「瑜伽行中観自立論証派」は、唯識思想と中観思想とが思想的に統合して発展した派で、空の思想を基底に置きつつ、(一応、仮として認める)心(識)の作用を、悟りへと向けていかにして調えていくべきであるのかについて考えていく立場であります。

「サムイェーの宗論」の大きな論点としましては、松本氏の「禅思想の批判的研究・大蔵出版 」の第一章「禅思想の意義」を参考と致しますと、「無分別知」(般若の智慧)ということをめぐり、摩訶衍論師は、「不思不観」・「無念無想」による「無分別知」への即座の到達を主張し、カマラシーラ論師は、「正しい分別知」・「正しい個別観察」によって、段階的に「無分別知」への到達を目指すべきであると主張したということが挙げられるのではないかと存じます。

少しまとめますと、摩訶衍論師の主張と致しましては、「不思不観」・「無念無想」→「無分別知」という流れとなり、カマラシーラ論師の主張と致しましては、「正しい分別知」・「正しい個別観察」→「無分別知」という流れで、更に、「無分別知」→「空性の洞察」が必要であるとして、段階的な知の階梯を主張します。

結果的には、摩訶衍論師の主張は退けられ、以後、チベット仏教においては、中観思想派の流れが優位となっていくわけですが、重要なことは、「サムイェーの宗論」において完全に如来蔵思想の問題が払拭したというわけではなく、厳密に中観思想と如来蔵思想の激突と言えたのかどうかということについても疑問の余地が残ってしまったところがあります。

次回も引き続きまして、「サムイェーの宗論」の意義に関しまして考えて参りたいと存じます。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5

さて、今回は更に「仏性内在論」と「仏性顕在論」における問題点について考えて参りたいと存じます。

松本氏は、禅思想の本質をなす基本的論理には、人間の思考を一切の迷妄と苦しみの根源として根源悪と見なし、「思考の停止」を迷妄と苦の消滅の因として説くという考え方があると述べられています。

では、どうして人間の思考が、一切の迷妄と苦しみの根源であるという考え方が生じるのかということに関して、如来蔵(仏性)思想の「仏性内在論」と「仏性顕在論」における、迷いの方向と悟りの方向について松本氏が非常に興味深い考察をされておられます。

まず、「仏性内在論」において、「人から諸法へ」という迷いの方向性があるということについてでございます。もともと人に内在している仏性から、それ以外の諸法(モノ・コト、事象・現象)というものは、煩悩(妄想・妄心・妄念・執着)の対象、あるいは原因となっているという捉え方があるというものです。

そのため、仏性以外の一切は、迷い苦しみをもたらす原因であるとして、思考というものもその中に包摂されてしまうことになります。この考え方には、思考・思慮・思念、言語活動・コトバの世界、分別・戯論というものは「悪」であり、不思不観・無念無想、言語道断、無分別・離戯論は「善」という捉え方が控えており、そのため、修行においても後者を目指して取り組むことへと繋がってゆくこととなってしまいます。

次に、「仏性顕在論」は、「諸法から人へ」という悟りの方向性があるということについてでございますが、この場合、煩悩(妄想・妄心・妄念・執着)を持ってしまって迷い苦しんでしまっている人から、既に仏性として顕現している諸法(現象的な個々の事物)に悟りを求めるべきであるという考え方となります。

つまり、迷い苦しみにある人が、既に悟っている諸法(現象的な個々の事物)へ悟りのあり方を目指していくということとなり、そのため、人間と諸法(現象的な個々の事物)との違いを考えますと、やはり人間活動における思考・思慮・思念、言語活動・コトバの世界、分別・戯論は、悟りの妨げとして、「悪」と見なされ、不思不観・無念無想、言語道断、無分別・離戯論は「善」という図式が成り立つことになるわけであります。

このように、「思考の停止」というものを目指すことが、やがて仏教の目指すべき最高の目的となってゆくと、基本的な仏教の教説(四法印、四聖諦、縁起・空の考え方、慈悲行、利他行、六波羅蜜行など)さえもが、簡単に破壊されていくという弊害が生じることにも繋がっていってしまいます。また、この「思考の停止」を目指すという考え方が起こった背後には、更に「無分別知」こそが、最高の境地、悟りの知であるという誤った概念が当時の仏教界において蔓延していたことも大きな要因として考えられています。

この「思考の停止」・「無分別知」を目指すという誤った考え方は、長らく仏教思想史上において強力な勢力を占めることとなってしまうわけですが、その見直し、是正を目指す動きが起こったのは、インドでも、また、中国でもなく、チベットの地において、「サムイェーの宗論」という、一大宗教論争が端緒となって現れることとなります。いわゆる、「如来蔵思想 VS 中観思想」でありますが、しかし、ここで完全に決着が付いたというわけではなく、その後においても議論は展開されてゆくこととなります。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

余談「批判的思考の必要性について・1」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51772472.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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2010年10月07日(Thu)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・5

さて、今回は更に「仏性内在論」と「仏性顕在論」における問題点について考えて参りたいと存じます。

松本氏は、禅思想の本質をなす基本的論理には、人間の思考を一切の迷妄と苦しみの根源として根源悪と見なし、「思考の停止」を迷妄と苦の消滅の因として説くという考え方があると述べられています。

では、どうして人間の思考が、一切の迷妄と苦しみの根源であるという考え方が生じるのかということに関して、如来蔵(仏性)思想の「仏性内在論」と「仏性顕在論」における、迷いの方向と悟りの方向について松本氏が非常に興味深い考察をされておられます。

まず、「仏性内在論」において、「人から諸法へ」という迷いの方向性があるということについてでございます。もともと人に内在している仏性から、それ以外の諸法(モノ・コト、事象・現象)というものは、煩悩(妄想・妄心・妄念・執着)の対象、あるいは原因となっているという捉え方があるというものです。

そのため、仏性以外の一切は、迷い苦しみをもたらす原因であるとして、思考というものもその中に包摂されてしまうことになります。この考え方には、思考・思慮・思念、言語活動・コトバの世界、分別・戯論というものは「悪」であり、不思不観・無念無想、言語道断、無分別・離戯論は「善」という捉え方が控えており、そのため、修行においても後者を目指して取り組むことへと繋がってゆくこととなってしまいます。

次に、「仏性顕在論」は、「諸法から人へ」という悟りの方向性があるということについてでございますが、この場合、煩悩(妄想・妄心・妄念・執着)を持ってしまって迷い苦しんでしまっている人から、既に仏性として顕現している諸法(現象的な個々の事物)に悟りを求めるべきであるという考え方となります。

つまり、迷い苦しみにある人が、既に悟っている諸法(現象的な個々の事物)へ悟りのあり方を目指していくということとなり、そのため、人間と諸法(現象的な個々の事物)との違いを考えますと、やはり人間活動における思考・思慮・思念、言語活動・コトバの世界、分別・戯論は、悟りの妨げとして、「悪」と見なされ、不思不観・無念無想、言語道断、無分別・離戯論は「善」という図式が成り立つことになるわけであります。

このように、「思考の停止」というものを目指すことが、やがて仏教の目指すべき最高の目的となってゆくと、基本的な仏教の教説(四法印、四聖諦、縁起・空の考え方、慈悲行、利他行、六波羅蜜行など)さえもが、簡単に破壊されていくという弊害が生じることにも繋がっていってしまいます。また、この「思考の停止」を目指すという考え方が起こった背後には、更に「無分別知」こそが、最高の境地、悟りの知であるという誤った概念が当時の仏教界において蔓延していたことも大きな要因として考えられています。

この「思考の停止」・「無分別知」を目指すという誤った考え方は、長らく仏教思想史上において強力な勢力を占めることとなってしまうわけですが、その見直し、是正を目指す動きが起こったのは、インドでも、また、中国でもなく、チベットの地において、「サムイェーの宗論」という、一大宗教論争が端緒となって現れることとなります。いわゆる、「如来蔵思想 VS 中観思想」でありますが、しかし、ここで完全に決着が付いたというわけではなく、その後においても議論は展開されてゆくこととなります。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

余談「批判的思考の必要性について・1」
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「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
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「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
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「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
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「非有・非無の中道」について
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「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
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教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
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チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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「苦楽中道説について」
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「苦楽中道説について」補足
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中観帰謬論証派の学びのススメ
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集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社
「縁起と空 如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「禅思想の批判的研究」松本史朗著・大蔵出版
「道元思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法然親鸞思想論」松本史朗著・大蔵出版
「法華経思想論」松本史朗著・大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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2010年10月05日(Tue)▲ページの先頭へ
余談「批判的思考の必要性について・1」
余談「批判的思考の必要性について・1」

さて、最近は、批判宗学・批判仏教で高名なる松本史朗氏の著書を集中的に再読させて頂いております。

松本史朗氏の著書は、「縁起と空 如来蔵思想批判」・「チベット仏教哲学」・「禅思想の批判的研究」・「道元思想論」・「法然親鸞思想論」と持っておりまして、間もなく「法華経思想論」は購入予定でございます。



この中で、最近に読み始めましたのが、「禅思想の批判的研究」・「道元思想論」でございます。まだ、読んでいないのが、「法然親鸞思想論」・「法華経思想論」です。

「縁起と空 如来蔵思想批判」・「チベット仏教哲学」は、私が「縁起と空」の思想について真剣に考え始めるきっかけを与えて頂きました論著でありまして、特に「チベット仏教哲学」は何度も読み返して理解に努めているところでございました。

なぜ、私が松本史朗氏の論著集に惹かれるのかと申しますと、一つは真摯なる学究姿勢、そして、もう一つが、その批判的視座にあります。

何事においても批判的視座が必要であると痛感しますのは、私も含めて、人間・人類、または組織・体制、社会は基本的に少なからず怠惰へと向かう傾向があり、強欲・傲慢・堕落・独善・自己満足・自己都合・偽善へと安易に陥りやすいのは、世の常であります。何事においてもバランス、均衡を保つためにも、常に批判・反省・評価検証が求められるものであります。それは、宗教においても同様であり、仏教においても必要なものであります。

時に、習慣・風習・伝統などにおいて、時代の流れ・変化などに対応して改革していかなければならないことを、習慣・風習・伝統であるということを錦の御旗として、あまり深くは考えずに見直すこともなく、安易に受け入れて踏襲していくことによる怠惰・強欲・傲慢・堕落・独善・自己満足・自己都合・偽善へと陥る弊害は、よく見受けられることであります。

例えば、宗教の場合は、特に神秘的・密教的・呪術的な要素を扱うことがあれば、それらはある意味では万人を納得させることが容易ではなく、証明のほとんど効かないようなことを非合理的で曖昧な領域において展開されていくことがあります。そのため、宗教における神秘的・密教的・呪術的な行為というものは、盲目的・無批判的な信仰・崇拝・狂信・病的執着を生み出しやすく、様々な弊害をもたらしてきたことは、過去にあまたの例があります。

また、宗教における神秘的・密教的・呪術的な行為は、その行き過ぎにより犯罪・詐欺的行為へと結びつく可能性も非常に高く、実際に問題になることも多々であり、また、表面化してこないことで、潜在的に非常に曖昧なグレーゾーンの領域において受容・許容されていることもたくさんあります。

とにかく、宗教においても、怠惰・強欲・傲慢・堕落・独善・自己満足・自己都合・偽善へと陥る弊害を抑えて、また、神秘的・密教的・呪術的な行為の行き過ぎによる被害・犠牲を回避するためには、常に自己・相手・第三者による評価検証・監視・批判が必要であると考えています。

最も望ましいのは、自己評価検証・自己批判・自己反省ができるように自己統制力・自己制御力・自浄力が充分に養えれば良いのですが、そうもいかない場合は、やはり第三者によって行われることも必要となりますでしょう。

そのあたりのところを松本史朗氏の批判宗学・批判仏教における批判的視座から学ぶことができるように存じておりまして、私が松本氏の論著集の内容に惹かれる一番の要因でもあります。

続く・・

・・

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51771197.html

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51770905.html

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
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「非有・非無の中道」について
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「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
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教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
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チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
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「苦楽中道説について」補足
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中観帰謬論証派の学びのススメ
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mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
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集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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施本「佛の道」
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2010年10月01日(Fri)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・4

では、次に「仏性顕在論」における問題点につきまして考えて参りたいと存じます。

「仏性顕在論」は、現象的な個々の事物に仏性が全面的に現れている。現象的事物そのものを仏性と見る考え方であります。「仏性内在論」よりか、「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」な要素が濃くあります。

「仏性顕在論」における修行においては、あらゆる事物・事象・現象そのものが、「仏性」の顕現であるとして、そのままで顕在している「仏性」が「仏性」として顕現していることを証・覚・悟することによって、涅槃へと至ろうという考え方となりますが、前回にも少し触れましたように、「仏性顕在論」の問題は、「修行不要論」へと容易に傾斜しやすいのと、修行必要論を説いたとしても、修行の内容が、神秘的・密教的な自然観に基づいたものとなっていく傾向があります。それは、あらゆる事物・事象・現象そのものが、「仏性」の顕現であるとするならば、煩悩にまみれている「有情(人)」よりか「無情(山川草木・瓦礫・自然界の事物)」の方が悟っているとして、「無情」のあり方を目指して、例えば、禅定(坐禅)修行が、「不思不観・無念無想」・「戯論寂滅」・「言語道断」・「無分別」・「不二」といった「思考の停止」へと陥ったり、または、三昧修行(念仏・唱題などの専修行)の神秘化・密教化が目立ってしまうようになるなど、弊害が顕著となってしまうということであります。

また、「仏性顕在論」においては、「一切にことごとく仏性が有る」ということが、基本的な考え方でもあります。そのため、全てもう既に悟っているのであれば、「修行不要論」となるのは必然であり、また、「仏教不要論」にも至ってしまうものとなってしまいかねません。もちろん、「修行不要論」・「仏教不要論」を回避するために、如来蔵思想(仏性思想)において、何らかの修行体系を確立させて、「仏性」の顕れを修めるべくに「仏性修顕論」を説くことに苦心する場合もありますが、その論理一貫性を保つのは非常に難しいのも歴然としています。

とにかく、如来蔵思想(仏性思想)における根本的な問題は、究極的な真理としての基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源など本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだとするところにあります。何らとしてそのような絶対的存在、超絶的・超越的存在、究極的存在は見当たらないということを真に理解するためにも、深遠なる縁起の理法をしっかりと学ぶことが求められることとなります。

大乗仏教における各宗派の展開においては、如来蔵思想(仏性思想)を大なり小なり受容している場合が多く、少なからずも神秘的・密教的な修行や作法に基づいた法要・儀式・行事が伝統的に踏襲されていることはあるのではないかと存じます。それは、それらの基本となっている考え方として、「仏性顕在論」的な要素・性質が控えているものであるからということが考えられます。

さて、引き続きまして次回も「仏性顕在論」の問題点について考えて参りたいと存じます。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・3

引き続きまして、「道元思想論」の内容に関しまして、著者の松本史朗氏は、論著の中で、如来蔵思想を「仏性内在論」と「仏性顕在論」との二つの定義を仮説されました。

では、「仏性内在論」と「仏性顕在論」、それぞれ一体、何が問題となっているのかにつきまして、今回は考えて参りたいと存じます。

まず、そもそも如来蔵思想(仏性思想)の抱えている最大の問題は、「如来蔵・仏性」(仏となる性質・本質・本性)というものの扱いにおいて、それらを「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」として立論してしまう懸念であります。

松本氏の根本的な視座は、「如来蔵思想(仏性思想)は、基体説である」として、その「基体説」から展開されている様々な仏教における教説を批判・否定されているところにあります。

基体説とは、究極的な真理としての基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源など本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだと想定・仮説した上で、それらから、あらゆる事物・事象・現象が生じていると説明する「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」であります。

そして、仏教の目指す涅槃へ向けて、上記のような基体としての「仏性」というものを証・覚・悟することに精進努力することが仏道修行となります。また、その基体としての「仏性」をどのようにして顕現させるべきかという考え方ついて、「仏性内在論」と「仏性顕在論」においての相違があります。

「仏性内在論」は、私たちは、それぞれにおいて「仏性」というものを本来持っているものとし、その「仏性」を覆い隠してしまっている「煩悩(妄想・妄心・妄念・執着)」によって、迷い苦しみを輪廻してしまうため、その「煩悩」を取り除き、もともと持っている「仏性」を顕現させることによって、輪廻からの解脱を図り、涅槃へと至ろうという考え方であります。

「仏性顕在論」は、あらゆる事物・事象・現象そのものが、「仏性」の顕現であるとして、そのままで顕在している「仏性」が「仏性」として顕現していることを証・覚・悟することによって、涅槃へと至ろうという考え方であります。

「仏性内在論」は、「仏性」と「煩悩」という二元論を扱います。簡単には、「きれい」と「きたない」と言えます。「きたない」に覆われて隠された「きれい」を「きたない」から取り除くことが大切となりますが、「仏性内在論」においては、そもそも相反するもの同士が混在していること自体に矛盾があり、また、「仏性」は「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」であるが、「煩悩」は、そうではなく、取り除くことができるもの、滅することができるものということでは、ご都合主義も良いところとなってしまいます。

また、「無常なるものは苦である」という仏教の基本的な考え方からすれば、「仏性」は「常」で、「煩悩」は「無常」となります。「煩悩」は「常」ではなく、なぜに「無常」であると説明するのかというのは、もしも「無常」でなければ、取り除くこと、滅することもできないこととなってしまうからであります。そして、「無常・苦」なるものを「悪」とすれば、「仏性=善」、「煩悩=悪」という図式として、「煩悩=悪」なるものを徹底的に排除していくということになります。

そうすると、常ではない無常なるものは迷い・苦しみをもたらす悪なるものだから無くせば良いとして、無常なるものは何かと、身体(肉体)・心(思慮・思考・概念・分別)だと、あれもこれもと徹底的に排除していくべきものを挙げていき、その結果として、身体(肉体)を極端にいじめ、更に心も極端にいじめてゆく修行へと至っていってしまったりする例が、重傷・瀕死となるような「難苦行」であったり、または、禅定における「不思不観・無念無想」であります。更に極端な例は、身体も心も無常は無常なるもので、なかなかどうにもならない、ならば、身体も心も捨ててしまえば、無常なるものは無くなるとして、「死ねば良い」という考えに至ることにもなってしまいかねません。あるいは、いずれ死ねば、自然と「仏性」が顕現してくれるだろう、「仏性」がもともとあるのであれば、「別に何もしなくても良い」・「好き勝手にしていれば良い」ということで、修行不要論・仏教不要論といった弊害も生み出してしまう危惧も控えています。これは、「仏性顕在論」においても言えることとなりますが、「仏性内在論」は基本的には、修行必要論を扱い、涅槃へ向けて、「仏性」を覆い隠してしまっているものを取り除こうとしていくことを目指していきます。

では、次に「仏性顕在論」における問題点につきまして考えて参りたいと存じます。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

・・

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・2
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2010年09月30日(Thu)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・3
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・3

さて、引き続きまして、「道元思想論」の内容に関しまして、著者の松本史朗氏は、論著の中で、如来蔵思想を「仏性内在論」と「仏性顕在論」との二つの定義を仮説されました。

では、「仏性内在論」と「仏性顕在論」、それぞれ一体、何が問題となっているのかにつきまして、今回は考えて参りたいと存じます。

まず、そもそも如来蔵思想(仏性思想)の抱えている最大の問題は、「如来蔵・仏性」(仏となる性質・本質・本性)というものの扱いにおいて、それらを「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」として立論してしまう懸念であります。

松本氏の根本的な視座は、「如来蔵思想(仏性思想)は、基体説である」として、その「基体説」から展開されている様々な仏教における教説を批判・否定されているところにあります。

基体説とは、究極的な真理としての基体(基本・基底・基盤・根本・根底・根源など本質体)というものが、「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」としてあるのだと想定・仮説した上で、それらから、あらゆる事物・事象・現象が生じていると説明する「発生論的一元論」・「生成流出論的根源論」・「絶対的一元論」であります。

そして、仏教の目指す涅槃へ向けて、上記のような基体としての「仏性」というものを証・覚・悟することに精進努力することが仏道修行となります。また、その基体としての「仏性」をどのようにして顕現させるべきかという考え方ついて、「仏性内在論」と「仏性顕在論」においての相違があります。

「仏性内在論」は、私たちは、それぞれにおいて「仏性」というものを本来持っているものとし、その「仏性」を覆い隠してしまっている「煩悩(妄想・妄心・妄念・執着)」によって、迷い苦しみを輪廻してしまうため、その「煩悩」を取り除き、もともと持っている「仏性」を顕現させることによって、輪廻からの解脱を図り、涅槃へと至ろうという考え方であります。

「仏性顕在論」は、あらゆる事物・事象・現象そのものが、「仏性」の顕現であるとして、そのままで顕在している「仏性」が「仏性」として顕現していることを証・覚・悟することによって、涅槃へと至ろうという考え方であります。

「仏性内在論」は、「仏性」と「煩悩」という二元論を扱います。簡単には、「きれい」と「きたない」と言えます。「きたない」に覆われて隠された「きれい」を「きたない」から取り除くことが大切となりますが、「仏性内在論」においては、そもそも相反するもの同士が混在していること自体に矛盾があり、また、「仏性」は「絶対的な存在・実在・実体・自性・自相」であるが、「煩悩」は、そうではなく、取り除くことができるもの、滅することができるものということでは、ご都合主義も良いところとなってしまいます。

また、「無常なるものは苦である」という仏教の基本的な考え方からすれば、「仏性」は「常」で、「煩悩」は「無常」となります。「煩悩」は「常」ではなく、なぜに「無常」であると説明するのかというのは、もしも「無常」でなければ、取り除くこと、滅することもできないこととなってしまうからであります。そして、「無常・苦」なるものを「悪」とすれば、「仏性=善」、「煩悩=悪」という図式として、「煩悩=悪」なるものを徹底的に排除していくということになります。

そうすると、常ではない無常なるものは迷い・苦しみをもたらす悪なるものだから無くせば良いとして、無常なるものは何かと、身体(肉体)・心(思慮・思考・概念・分別)だと、あれもこれもと徹底的に排除していくべきものを挙げていき、その結果として、身体(肉体)を極端にいじめ、更に心も極端にいじめてゆく修行へと至っていってしまったりする例が、重傷・瀕死となるような「難苦行」であったり、または、禅定における「不思不観・無念無想」であります。更に極端な例は、身体も心も無常は無常なるもので、なかなかどうにもならない、ならば、身体も心も捨ててしまえば、無常なるものは無くなるとして、「死ねば良い」という考えに至ることにもなってしまいかねません。あるいは、いずれ死ねば、自然と「仏性」が顕現してくれるだろう、「仏性」がもともとあるのであれば、「別に何もしなくても良い」・「好き勝手にしていれば良い」ということで、修行不要論・仏教不要論といった弊害も生み出してしまう危惧も控えています。これは、「仏性顕在論」においても言えることとなりますが、「仏性内在論」は基本的には、修行必要論を扱い、涅槃へ向けて、「仏性」を覆い隠してしまっているものを取り除こうとしていくことを目指していきます。

では、次に「仏性顕在論」における問題点につきまして考えて参りたいと存じます。

※現在進めております如来蔵思想(仏性思想)関連の考察は、あくまでも中観思想(帰謬論証派)の立場をいったん脇によけておいてのものでありまして、その点はあしからずにご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

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「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・2

前回に引き続きまして、「道元思想論」の内容に関しまして考えて参りたいと存じます。

道元禅師の思想変容についての論考の中で、松本史朗氏は、如来蔵思想に関しまして、二つの定義を明らかにされます。

如来蔵思想(仏性思想)

仏性内在論・・仏性は、人間存在、特にその肉体の中に存在しているとする考え方。(心身)二元論の立場。

仏性顕在論・・現象的な個々の事物に仏性が全面的に現れている。現象的事物そのものを仏性と見る考え方。絶対的一元論の立場。

如来蔵思想(仏性思想)は、インドにおけるヒンドゥー教の「梵我一如」思想を起源として、その考えを仏教が取り入れていくことによって発展していった思想と考えられています。

「梵我一如」思想とは、「梵《ぼん》(ブラフマン・宇宙を支配する原理)」と「我(アートマン・個人を支配する原理)」が同一であること、また、これらが同一であることを悟ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想であります。

しかし、如来蔵思想(仏性思想)は、仏教の基本法理としてある「諸法無我」や「空の思想」・「中観思想」との矛盾が指摘され、現代においても議論が展開されるところであります。

簡単に述べさせて頂きますと、(空・縁起の理解によって)一切の存在・現象においては、絶対的存在、超絶的・超越的存在、究極的存在は、見当たらないとして、それらを無実体・無自性・無自相視する立場と、絶対的存在、超絶的・超越的存在、究極的存在は、あるのだとして、それらを実体・自性・自相視するという立場との見解の相違であります。

如来蔵思想(仏性思想)は、明らかに後者の立場にあるとして、前者の立場からは、そのようなものは認めないとして批判されるわけであります。

私の如来蔵思想(仏性思想)に関しての見解につきましては、拙著・施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」の「第九章 仏性思想・如来蔵思想について」、第十三章 現代日本仏教の抱える課題について」におきまして、ある程度扱わせて頂いておりますので、ここでは改めては述べませんが、松本氏は、「道元思想論」において、如来蔵思想(仏性思想)を批判する立場として、道元禅師の思想変容について論じられているのであります。

また、如来蔵思想(仏性思想)の展開においては、インドにおいて仏性内在論であったものが、中国における老荘思想の影響を受けて、仏性顕在論へとその性質を変え、仏性内在論・仏性顕在論が混在した思想が、日本へと随時に流入し、影響を及ぼす中で、日本の仏教思想の展開があるということを考える上でも非常に興味深いところがあります。

では、そもそも仏性内在論、仏性顕在論共に何が問題であるのかについて、次回は確認していこうと存じます。

・・

「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して・1
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ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
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「非有・非無の中道」について
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
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教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
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「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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施本「佛の道」
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2010年09月28日(Tue)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して2
さて、前回に引き続きまして、「道元思想論」の内容に関しまして考えて参りたいと存じます。

道元禅師の思想変容についての論考の中で、松本史朗氏は、如来蔵思想に関しまして、二つの定義を明らかにされます。

如来蔵思想(仏性思想)

仏性内在論・・仏性は、人間存在、特にその肉体の中に存在しているとする考え方。(心身)二元論の立場。

仏性顕在論・・現象的な個々の事物に仏性が全面的に現れている。現象的事物そのものを仏性と見る考え方。絶対的一元論の立場。

如来蔵思想(仏性思想)は、インドにおけるヒンドゥー教の「梵我一如」思想を起源として、その考えを仏教が取り入れていくことによって発展していった思想と考えられています。

「梵我一如」思想とは、「梵《ぼん》(ブラフマン・宇宙を支配する原理)」と「我(アートマン・個人を支配する原理)」が同一であること、また、これらが同一であることを悟ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想であります。

しかし、如来蔵思想(仏性思想)は、仏教の基本法理としてある「諸法無我」や「空の思想」・「中観思想」との矛盾が指摘され、現代においても議論が展開されるところであります。

簡単に述べさせて頂きますと、(空・縁起の理解によって)一切の存在・現象においては、絶対的存在、超絶的・超越的存在、究極的存在は、見当たらないとして、それらを無実体・無自性・無自相視する立場と、絶対的存在、超絶的・超越的存在、究極的存在は、あるのだとして、それらを実体・自性・自相視するという立場との見解の相違であります。

如来蔵思想(仏性思想)は、明らかに後者の立場にあるとして、前者の立場からは、そのようなものは認めないとして批判されるわけであります。

私の如来蔵思想(仏性思想)に関しての見解につきましては、拙著・施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」の「第九章 仏性思想・如来蔵思想について」、第十三章 現代日本仏教の抱える課題について」におきまして、ある程度扱わせて頂いておりますので、ここでは改めては述べませんが、松本氏は、「道元思想論」において、如来蔵思想(仏性思想)を批判する立場として、道元禅師の思想変容について論じられているのであります。

また、如来蔵思想(仏性思想)の展開においては、インドにおいて仏性内在論であったものが、中国における老荘思想の影響を受けて、仏性顕在論へとその性質を変え、仏性内在論・仏性顕在論が混在した思想が、日本へと随時に流入し、影響を及ぼす中で、日本の仏教思想の展開があるということを考える上でも非常に興味深いところがあります。

では、そもそも仏性内在論、仏性顕在論共に何が問題であるのかについて、次回は確認していこうと存じます。

・・

「道元思想論」の感想と致しましては、松本氏が提唱されました曹洞宗の批判宗学の意義、曹洞宗の開祖・道元禅師の思想変容に関しての興味深い内容を知見できたことと共に、更に、「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」の問題点につきましても改めまして考察を深めることができたように存じます。

まず、批判宗学につきましては、松本氏の提唱によりますと、

批判宗学とは何か。
1.「いかなる対象も絶対視・神秘化することなく。絶えず自己自身を否定しつつ、宗門の正しい教義を探求すること」
2.「いかなる対象」とは
”いかなる人物(宗祖)、テキスト(宗典、経典)、行(坐禅)、教義(縁起説)等”を意味する。
3.従って、批判宗学は、密教の否定である。
4.批判宗学は、宗祖無謬説に立たない。一切のguru(師)崇拝を排除する。
5.道元の思想的変化を認め、道元が目指そうとしたもの(正しい仏教)を、目指す。
6.批判宗学自身の見解は、縁起説であり、行は、縁起説にもとづく誓度一切衆生(自未得度先度他)の行である。
7.批判宗学は、本質的に、社会的(「誓度一切衆生」)でなければならない。
8.曹洞宗は、『弁道話』の見解と行、即ち、如来蔵思想(「仏性顕在論」)と、神秘的密教的坐禅(「一寸坐れば、一寸の仏」)を捨て、後期道元のものと思われる「深信因果」(縁起説)と「誓度一切衆生之坐禅」にまで、進むべきものと思われる。

とあります。主に宗祖・宗典・経典・教義・修行内容の絶対視・神秘化の排除、密教の否定、無批判的に宗祖無謬説には立たず、一切の祖師崇拝の排除(根拠のない盲目的信仰・崇拝の排除)を目的とし、曹洞宗においては、道元の思想的変容を認め、(如来蔵思想(「仏性顕在論」)・神秘的密教的坐禅から)、道元が目指そうとした(正しい仏教)〔「深信因果」(縁起説)と「誓度一切衆生之坐禅」〕を目指すこと、批判宗学自身の見解は、縁起説であり、縁起説にもとづく修行(仏道行)を目指すこと、また慈悲・利他(輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を救おうとする精神)を目指し、社会との関わりを展開していくこととして、批判宗学は、社会的(「誓度一切衆生」)なるものでなければならないことなど、非常に興味深い内容があります。

この批判宗学については、当時、宗学内外において、賛否両論入り乱れ、大きな議論の渦を巻き起こしたことが想像できます。なぜならば、曹洞宗においては、宗派教義・教説の根底に関わることを扱っているため、下手に扱うと、宗派そのものを崩壊させかねない危険性があるからであります。更には、松本氏の論考姿勢である如来蔵思想批判の内容から鑑みますと、特に曹洞宗に限らず、広く大乗仏教の各宗派においても、批判宗学は適用される可能性は十分に高いからであります。現代仏教各宗派にとっても「対岸の火事」というわけにはいかないということであります。

そのため、ある意味で、伝統教学を護る護宗的立場(特に各宗派お抱えの御用学者)の者たちからは、批判宗学に対しての批判も多く噴出したのは確かであります。

しかし、基本的な松本氏の批判宗学の意図しようとしている姿勢につきましては、私自身、かつて仏教に対しての無知さ、無批判さ、認識の甘さによる反省から、おおむねで認めるところでございます。

さて、批判宗学の批判の一つに、批判宗学自身が、提唱第六で「縁起説」を絶対視化しようしているのではないか、それは偏見であり、提唱第一・提唱第二と矛盾するのではないかという、「批判宗学」批判があります。(現に提唱第二において、提唱第一の対象として「教義(縁起説)」も挙げられていることから)

この点に関して、私見を述べさせて頂くならば、松本氏の真なる意図は分からないところがありますが、提唱第二における「縁起説」と提唱第六における「縁起説」の真なるところの意味合いは大きく異なっているものではないだろうかと考えています。非常にその差異を表現するのは難しく思いますが、後者の「縁起説」は、「無実体・無自性・無自相的縁起説」と言えるのではないかと考えます。

もう少し分かりやすく申しますと、前者の縁起説は、「惑・業・苦の業感縁起説、十二支縁起説など、いわゆる時間的・空間的縁起、因果関係的な縁起説」のことを意図し、後者は、「無実体・無自性・無自相としての縁起説、論理的な縁起説、中観思想、特に中観帰謬論証派(ツォンカパ論師の中観思想)が捉えようとするところの縁起説」と言えるのではないかと考えています。

ただ、このあたりのところはやはり非常に難しい差異が控えているような気もしておりますので、ツォンカパ論師の中観思想の学びの進捗とも関わってくるところでもあり、更に今後考察していくべき課題として、今はまだこの見解につきましては、結論を保留させて頂こうかと思っております。

少し「ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義」に関しましての考察は小休止させて頂きまして、引き続きまして、「道元思想論」の内容に関しまして考えて参りたいと存じます。

・・

「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51769465.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
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仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
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「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
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「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
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「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
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『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
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 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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2010年09月27日(Mon)▲ページの先頭へ
「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」を一読して
さて、前回の余談の続きとなりますが、「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」に続きまして、「道元思想論・松本史朗著・大蔵出版」もざっと一読させて頂きました。



「道元思想論」の感想と致しましては、松本氏が提唱されました曹洞宗の批判宗学の意義、曹洞宗の開祖・道元禅師の思想変容に関しての興味深い内容を知見できたことと共に、更に、「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」の問題点につきましても改めまして考察を深めることができたように存じます。

まず、批判宗学につきましては、松本氏の提唱によりますと、

批判宗学とは何か。
1.「いかなる対象も絶対視・神秘化することなく。絶えず自己自身を否定しつつ、宗門の正しい教義を探求すること」
2.「いかなる対象」とは
”いかなる人物(宗祖)、テキスト(宗典、経典)、行(坐禅)、教義(縁起説)等”を意味する。
3.従って、批判宗学は、密教の否定である。
4.批判宗学は、宗祖無謬説に立たない。一切のguru(師)崇拝を排除する。
5.道元の思想的変化を認め、道元が目指そうとしたもの(正しい仏教)を、目指す。
6.批判宗学自身の見解は、縁起説であり、行は、縁起説にもとづく誓度一切衆生(自未得度先度他)の行である。
7.批判宗学は、本質的に、社会的(「誓度一切衆生」)でなければならない。
8.曹洞宗は、『弁道話』の見解と行、即ち、如来蔵思想(「仏性顕在論」)と、神秘的密教的坐禅(「一寸坐れば、一寸の仏」)を捨て、後期道元のものと思われる「深信因果」(縁起説)と「誓度一切衆生之坐禅」にまで、進むべきものと思われる。

とあります。主に宗祖・宗典・経典・教義・修行内容の絶対視・神秘化の排除、密教の否定、無批判的に宗祖無謬説には立たず、一切の祖師崇拝の排除(根拠のない盲目的信仰・崇拝の排除)を目的とし、曹洞宗においては、道元の思想的変容を認め、(如来蔵思想(「仏性顕在論」)・神秘的密教的坐禅から)、道元が目指そうとした(正しい仏教)〔「深信因果」(縁起説)と「誓度一切衆生之坐禅」〕を目指すこと、批判宗学自身の見解は、縁起説であり、縁起説にもとづく修行(仏道行)を目指すこと、また慈悲・利他(輪廻に迷い苦しむあまたの衆生を救おうとする精神)を目指し、社会との関わりを展開していくこととして、批判宗学は、社会的(「誓度一切衆生」)なるものでなければならないことなど、非常に興味深い内容があります。

この批判宗学については、当時、宗学内外において、賛否両論入り乱れ、大きな議論の渦を巻き起こしたことが想像できます。なぜならば、曹洞宗においては、宗派教義・教説の根底に関わることを扱っているため、下手に扱うと、宗派そのものを崩壊させかねない危険性があるからであります。更には、松本氏の論考姿勢である如来蔵思想批判の内容から鑑みますと、特に曹洞宗に限らず、広く大乗仏教の各宗派においても、批判宗学は適用される可能性は十分に高いからであります。現代仏教各宗派にとっても「対岸の火事」というわけにはいかないということであります。

そのため、ある意味で、伝統教学を護る護宗的立場の者たちからは、批判宗学に対しての批判も多く噴出したのは確かであります。

しかし、基本的な松本氏の批判宗学の意図しようとしている姿勢につきましては、私自身、かつて仏教に対しての無知さ、無批判さ、認識の甘さによる反省から、おおむねで認めるところでございます。

さて、批判宗学の批判の一つに、批判宗学自身が、提唱第六で「縁起説」を絶対視化しようしているのではないか、それは偏見であり、提唱第一・提唱第二と矛盾するのではないかという、「批判宗学」批判があります。(現に提唱第二において、提唱第一の対象として「教義(縁起説)」も挙げられていることから)

この点に関して、私見を述べさせて頂くならば、松本氏の真なる意図は分からないところがありますが、提唱第二における「縁起説」と提唱第六における「縁起説」の真なるところの意味合いは大きく異なっているものではないだろうかと考えています。非常にその差異を表現するのは難しく思いますが、後者の「縁起説」は、「無実体・無自性・無自相的縁起説」と言えるのではないかと考えます。

もう少し分かりやすく申しますと、前者の縁起説は、「惑・業・苦の業感縁起説、十二支縁起説など、いわゆる時間的・空間的縁起、因果関係的な縁起説」のことを意図し、後者は、「無実体・無自性・無自相としての縁起説、論理的な縁起説、中観思想、特に中観帰謬論証派(ツォンカパ論師の中観思想)が捉えようとするところの縁起説」と言えるのではないかと考えています。

ただ、このあたりのところはやはり非常に難しい差異が控えているような気もしておりますので、ツォンカパ論師の中観思想の学びの進捗とも関わってくるところでもあり、更に今後考察してべき課題として、今はまだこの見解につきましては、結論を保留させて頂こうかと思っております。

少し「ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義」に関しましての考察は小休止させて頂きまして、引き続きまして、「道元思想論」の内容に関しまして考えて参りたいと存じます。

・・

少し余談となりますが、長い間、購入してからそのまま本棚に並んでおりました「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を松本氏の「チベット仏教哲学」の再々再読を進めていく中で、少し読んでおきたくなり、ざっとでありますが、初めて一読致しました。

松本氏の「如来蔵思想批判」の各論考は、現代仏教を再構築する上でも、欠かせない重要な内容が扱われていると考えております。大乗仏教思想の展開において、「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」のもたらしてきた弊害の甚大さ、深刻さは計り知れないものがある一端が伺えます。仏教の原点回帰へ向けての困難さの解決は、いかにして「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」を現代仏教から完全に払拭させうるかどうかに懸かっていると言っても過言ではありません。

私は、如来蔵思想・仏性思想・本覚思想を現代仏教から完全に払拭させるヒントの一つが、ツォンカパ論師の中観思想の学びにあると至ったのは、ここ一年ほどのことであります。既に十年近く仏教に携わっていながらも、それまでは、一体、何が仏教批判の問題なのかさえも理解できていませんでした。

現代仏教の抱えている問題に関して、初期仏教から学び直しを一から進めていく中で、多くの疑問が生じ、その都度に私なりに段階を経て考察を深めていくことができ、そして、今の仏教理解に至ってくることができてきた次第であります。

もちろん、まだまだ浅学非才の未熟者ゆえに、至らぬところも多々あり、猛省することばかりであります。

お寺の跡継ぎという立場に生まれ育った私が本格的に仏教の世界と向き合うようになったのは、臨済宗の禅専門道場に入る機会を得たところでありました。良くもあり、悪くもあるその世界(禅専門道場)を垣間見ることができ、そこで仏教に対して、様々な疑念が生じたものの、私自身、当時は仏教について無知であり、修行もそれほど長く取り組むつもりもなく、少なくとも最低でも三年、長くて十年は修行をしないと一人前とは見なされないその世界ではあまり褒められるような立場でもなく、実際、二年にも至らない期間で終えたため、その疑念をどうにかしようとすること自体がおこがましいことであるとして、無批判的に、あまり考えずにいたままでしたが、やがて、実家に戻り、その後はお寺のことに主に従事していく中において、もう少し仏教としっかりと向き合わないといけないという気持ちが高まりだし、改めて修行時代からの疑念も深まりつつあったため、まずは仏教思想について一から学んでいこうと決心するに至り、ここまでおおよそ四年ほどが経ったわけであります。

そして、本日にふと「禅思想の批判的研究」をさらっとでありますが、たまたま一読する気となり、その中における松本氏の見解の一つに、『結論として言えば、臨済の基本思想は、仏教の無我説とは矛盾する"アートマン論"であると考えられる。』(第三章 臨済の基本思想について p387)との記述、その結論に至る論考も読むうちに、私が長年に抱いていた疑念の一つの理由が改めて確認できたように思います。

長い間、「禅思想の批判的研究」を本棚に放置してしまっていたのは、恐らく少なからずも私が修行をし、関わってきた「臨済宗」について批判的な見解が載っているであろうことは、ある程度予測ができていたからであります。それを目の当たりにすることにいささかの躊躇があったのは事実であります。なぜならば、拙いまでも私なりにはそれなりに色々と苦闘した修行の日々が否定されてしまうのが怖かったからでもありますでしょう・・

もしも、まだ仏教の学びが拙い時期にこの本を読んでいれば、私は、かなりのショックを受けて、自己嫌悪に陥っていたかもしれません。一体、あの苦闘の時期は何だったのだろうか、そもそも修行は正しかったのだろうか・・と・・ややもすれば、無駄であったと後悔することになっていたかもしれません・・

しかし、今は仏教の学びがある程度進んできていたため、まあ、そんなものであろうと、すんなりと受け入れることができたところがあります。もちろん、だからといっても、臨済宗を完全に否定したりするわけではありませんが、長い仏教思想の変容過程の中で、やむを得ずにそうなってしまったという仕方のない側面もあるのも事実ですし、また、逆に、当時の自らの無知さ、無批判さ、認識の甘さを恥じることもできたように存じます。

とにかく、何が仏教批判の問題であるのかが、今はしっかりと認識できてきているため、これからの学びの進めにおいて、更に問題の解決を自分なりに探し出していくために尚一層に精進していかなければならないと存じております。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4-5
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51768858.html

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
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「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
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mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
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仏教・学びの進捗状況全般参照
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集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
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「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
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「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
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「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
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『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
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『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

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2010年09月26日(Sun)▲ページの先頭へ
「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を一読して
さて、少し余談となりますが、長い間、購入してからそのまま本棚に並んでおりました「禅思想の批判的研究・松本史朗著・大蔵出版 」を松本氏の「チベット仏教哲学」の再々再読を進めていく中で、少し読んでおきたくなり、ざっとでありますが、初めて一読致しました。

松本氏の「如来蔵思想批判」の各論考は、現代仏教を再構築する上でも、欠かせない重要な内容が扱われていると考えております。大乗仏教思想の展開において、「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」のもたらしてきた弊害の甚大さ、深刻さは計り知れないものがある一端が伺えます。仏教の原点回帰へ向けての困難さの解決は、いかにして「如来蔵思想・仏性思想・本覚思想」を現代仏教から完全に払拭させうるかどうかに懸かっていると言っても過言ではありません。

私は、如来蔵思想・仏性思想・本覚思想を現代仏教から完全に払拭させるヒントの一つが、ツォンカパ論師の中観思想の学びにあると至ったのは、ここ一年ほどのことであります。既に十年近く仏教に携わっていながらも、それまでは、一体、何が仏教批判の問題なのかさえも理解できていませんでした。

現代仏教の抱えている問題に関して、初期仏教から学び直しを一から進めていく中で、多くの疑問が生じ、その都度に私なりに段階を経て考察を深めていくことができ、そして、今の仏教理解に至ってくることができてきた次第であります。

もちろん、まだまだ浅学非才の未熟者ゆえに、至らぬところも多々あり、猛省することばかりであります。

お寺の跡継ぎという立場に生まれ育った私が本格的に仏教の世界と向き合うようになったのは、臨済宗の禅専門道場に入る機会を得たところでありました。良くもあり、悪くもあるその世界(禅専門道場)を垣間見ることができ、そこで仏教に対して、様々な疑念が生じたものの、私自身、当時は仏教について無知であり、修行もそれほど長く取り組むつもりもなく、少なくとも最低でも三年、長くて十年は修行をしないと一人前とは見なされないその世界ではあまり褒められるような立場でもなく、実際、二年にも至らない期間で終えたため、その疑念をどうにかしようとすること自体がおこがましいことであるとして、無批判的に、あまり考えずにいたままでしたが、やがて、実家に戻り、その後はお寺のことに主に従事していく中において、もう少し仏教としっかりと向き合わないといけないという気持ちが高まりだし、改めて修行時代からの疑念も深まりつつあったため、まずは仏教思想について一から学んでいこうと決心するに至り、ここまでおおよそ四年ほどが経ったわけであります。

そして、本日にふと「禅思想の批判的研究」をさらっとでありますが、たまたま一読する気となり、その中における松本氏の見解の一つに、『結論として言えば、臨済の基本思想は、仏教の無我説とは矛盾する"アートマン論"であると考えられる。』(第三章 臨済の基本思想について p387)との記述、その結論に至る論考も読むうちに、私が長年に抱いていた疑念の一つの理由が改めて確認できたように思います。

長い間、「禅思想の批判的研究」を本棚に放置してしまっていたのは、恐らく少なからずも私が修行をし、関わってきた「臨済宗」について批判的な見解が載っているであろうことは、ある程度予測ができていたからであります。それを目の当たりにすることにいささかの躊躇があったのは事実であります。なぜならば、拙いまでも私なりにはそれなりに色々と苦闘した修行の日々が否定されてしまうのが怖かったからでもありますでしょう・・

もしも、まだ仏教の学びが拙い時期にこの本を読んでいれば、私は、かなりのショックを受けて、自己嫌悪に陥っていたかもしれません。一体、あの苦闘の時期は何だったのだろうか、そもそも修行は正しかったのだろうか・・と・・ややもすれば、無駄であったと後悔することになっていたかもしれません・・

しかし、今は仏教の学びがある程度進んできていたため、まあ、そんなものであろうと、すんなりと受け入れることができたところがあります。もちろん、だからといっても、臨済宗を完全に否定したりするわけではありませんが、長い仏教思想の変容過程の中で、やむを得ずにそうなってしまったという仕方のない側面もあるのも事実ですし、また、逆に、当時の自らの無知さ、無批判さ、認識の甘さを恥じることもできたように存じます。

とにかく、何が仏教批判の問題であるのかが、今はしっかりと認識できてきているため、これからの学びの進めにおいて、更に問題の解決を自分なりに探し出していくために尚一層に精進していかなければならないと存じております。


ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義5

さて、今回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

中観帰謬論証派も中観自立論証派も当然に仏教の目指す正悟・正覚・涅槃へと至るための方法論として、「世俗諦と勝義諦の二諦」を扱います。二諦に関しましては、これまでの私の施本でも詳しく述べさせて頂いておりますので、ここでは解説は致しませんが、中観帰謬論証派においては、世俗諦と勝義諦を明確に隔絶させて扱います。しかし、一方の中観自立論証派では、勝義諦の中に世俗諦を無理矢理にでも何とか組み込んで、勝義諦を世俗諦においても表そうと苦心します。勝義諦と世俗諦との重なる領域を「異門勝義・依言勝義」として、どうにかコトバの世界でも勝義諦を表そうとしたのであります。

もちろん、中観自立論証派の目指そうとした気持ちは分からなくはないのですが、コトバの世界がもともと抱えてしまっている限界のために、結局のところは論難がつきまとい、論証に破綻をきたしてしまうこととなり、また、世俗諦と勝義諦を曖昧化させてしまっては、様々な弊害が生じることになってしまいました。つまりは、何が世俗諦であり、何が勝義諦であるのかの区別がつかなくなり、仏教教義の収拾がいっそう図れなくなってしまう危険性が出てきてしまうということであります。

弊害の一つは、コトバの実体化であります。コトバにより、勝義諦を表すことはできないというのは、中観論者の大原則であります。しかし、「勝義諦とは・・」、「勝義諦によって・・」と何かを立論することは、勝義諦の実体化を図ろうとする意図があり、あくまでも世俗(言説)におけることとしておきながらも、それは中観帰謬論証派から見れば、勝義諦というものを何か実体化していくもの以外の何者でもないということとなってしまいます。勝義諦の領域において少しでも何かを実体化させてしまっては、もはやそれは、勝義諦では無いものであり、世俗諦と勝義諦との曖昧化は何としても避けなければならないのであります。その曖昧化の典型の一つが、「絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向」を許してしまいかねない事態をもたらしてしまうことであります。

しかし、確かに勝義諦はコトバでは表せないとしても、それでは結局は黙して何も語らなければよいのか、コトバの世界は所詮は虚妄・虚偽であるから、何も頼りにならないのか、勝義諦の世界とは、超絶されたものであるのかと、神秘主義、懐疑主義・不可知論、または、虚無・悲観・絶望主義に陥ってしまってもいけないのであります。

もちろん、勝義諦をコトバの実体化により表すことはできません。しかし、世俗諦において、無自性・空なるコトバにより、勝義諦とはいかなるものであるかを指向することはギリギリで可能であると考えます。あくまでも、世俗諦における「無自性・空なるコトバ」によってというところが重要であります。また、その「無自性・空なるコトバ」を誤りなく成立させるために、その背後に控えているのが「深遠なる縁起の理法」であります。

ナーガールジュナ論師の中論「観四諦品」(第二十四・第八偈〜第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』【「中論」邦訳参照〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕】とありますように、二諦の理解をもって、いかなる世俗(言説)における無自性・空なるコトバが、中観帰謬論証派において「言説有」として扱われるのか、ツォンカパ論師は、慎重にコトバの世界を扱う中で、安易に戯論寂滅・言語道断・不可説へと転落しないように、もちろん、実体・自性・自相化へとも転落しないように、絶妙のバランスを保つ「言説有」を徹底的に再構築したわけであります。

ツォンカパ論師は、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」としての「非有非無の中道」を明らかとし、仏教思想史上の革新的転回を果たし、お釈迦様の教えの原点回帰を図ったのであります。

次回も引き続きまして、更にツォンカパ論師の中観思想につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4

さて、今回はもう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

まだ拙い私の理解でございますので、多くの間違いや勘違いがあるかとは存じますが、簡単に今の私の理解について、以下に述べさせて頂きます。

中観帰謬論証派と中観自立論証派との最も大きな相違点は、世俗(言説)の次元における「自相の成立」について、前者ではそれを認めませんが、後者では認めている(正確には、認めざるを得ない)というところであります。

それは、「コトバの世界において扱うモノ・コトの背後に、そのモノ・コトを、モノ・コトとして何か成り立たしめている実体(自性・自相)があるのか、ないのか」ということでの扱いの違いであります。

もちろん、両論派共に勝義諦(第一義諦)においては、そのような実体(自性・自相)は完全に否定しますが、中観自立論証派では、世俗(言説)の次元において、モノ・コトを何か成り立たしめている実体(自性・自相)を認めてしまっている(認めざるをえない)というところがあります。

それは、自立論証を用いて、論証主張して対論者に「空・無自性」を認めさせるためには、立論者と対論者の間において、共通の知識根拠〔量〕(直接知覚と推論)・存在論が必要であることが大きな原因となっています。

しかし、中観論者は、「あらゆるモノ・コトは、空であり、実体が無い」という理解が「空・無自性」を主張するための大前提となっているにも拘わらず、自立論証においては、立論者が対論者(実体論者)に対して、自分の論証主張を認めさせるにも、相手との間において共通の知識根拠(特に直接知覚)・存在論を何とかして設定しなければならず、そのため、相手にある程度譲歩して論証を展開していくという中で、コトバの世界(世俗・言説)においての何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないという誤りが結局は付随してしまうというわけであります。

何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないというのは、例えば、簡単には、「○は、〜である。」の場合、その「○」としてあるモノ・コトについて、「○」というモノ・コトが、そのまま、立論者の意図してる知識根拠の通りに対論者の側での知識根拠としても合致する余地があるのかどうかということではないかと考えております。もしも、合致するような知識根拠が何も無いとなれば、最初から議論は成り立たなくなってしまい、立論そのものが意味のない、無駄なものとなってしまいます。

そのため、自立論証を採用するのであれば、世俗(言説)において、何らかの実体(自性・自相)を何とかしてでも認めざるを得ないこととなってしまいます。しかしながら、世俗(言説)の領域であるとはいえども、そのような実体(自性・自相)を認めてしまうということは、いくら世俗(言説)の領域に限定しても許されないとして中観帰謬論証派からは激しく批判されることになります。

もしも、立論者が本当の中観論者であるならば、「○」には、何らとして「○」として成り立たしめているような実体・自性・自相は当然に見当たらないため、ただ「○は、無自性・空である」ということだけが一応は言えるのみで、それ以上は本来、何も立論のしようが無いのであります。当然に自立論証の展開は成り立たないことになります。

そのため、中観論者は、本来、自立論証は採用できず、相手の主張の矛盾・誤謬を指摘して、その実体論の誤りを正すという帰謬論証を用いて、空・無自性を論証していくことしかできないのであります。また、もちろん、「○」は無実体・無自性・無自相、空なるものでしかありませんが、「○」は、世俗(言説)において、「分別によってただ仮に名のみが与えられているもの(仮名・仮設)に過ぎない」ということで、中観帰謬論証派は「○」について一応は言えることができるという立場として、「言説有」を扱うのであると考えています。

少し上記のことは私の理解が不足している点も多々あるかと存じますので、随時に検証していけましたらと存じております。次回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html


2010年09月24日(Fri)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義5
ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義5

さて、今回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

中観帰謬論証派も中観自立論証派も当然に仏教の目指す正悟・正覚・涅槃へと至るための方法論として、「世俗諦と勝義諦の二諦」を扱います。二諦に関しましては、これまでの私の施本でも詳しく述べさせて頂いておりますので、ここでは解説は致しませんが、中観帰謬論証派においては、世俗諦と勝義諦を明確に隔絶させて扱います。しかし、一方の中観自立論証派では、勝義諦の中に世俗諦を無理矢理にでも何とか組み込んで、勝義諦を世俗諦においても表そうと苦心します。勝義諦と世俗諦との重なる領域を「異門勝義・依言勝義」として、どうにかコトバの世界でも勝義諦を表そうとしたのであります。

もちろん、中観自立論証派の目指そうとした気持ちは分からなくはないのですが、コトバの世界がもともと抱えてしまっている限界のために、結局のところは論難がつきまとい、論証に破綻をきたしてしまうこととなり、また、世俗諦と勝義諦を曖昧化させてしまっては、様々な弊害が生じることになってしまいました。つまりは、何が世俗諦であり、何が勝義諦であるのかの区別がつかなくなり、仏教教義の収拾がいっそう図れなくなってしまう危険性が出てきてしまうということであります。

弊害の一つは、コトバの実体化であります。コトバにより、勝義諦を表すことはできないというのは、中観論者の大原則であります。しかし、「勝義諦とは・・」、「勝義諦によって・・」と何かを立論することは、勝義諦の実体化を図ろうとする意図があり、あくまでも世俗(言説)におけることとしておきながらも、それは中観帰謬論証派から見れば、勝義諦というものを何か実体化していくもの以外の何者でもないということとなってしまいます。勝義諦の領域において少しでも何かを実体化させてしまっては、もはやそれは、勝義諦では無いものであり、世俗諦と勝義諦との曖昧化は何としても避けなければならないのであります。その曖昧化の典型の一つが、「絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向」を許してしまいかねない事態をもたらしてしまうことであります。

しかし、確かに勝義諦はコトバでは表せないとしても、それでは結局は黙して何も語らなければよいのか、コトバの世界は所詮は虚妄・虚偽であるから、何も頼りにならないのか、勝義諦の世界とは、超絶されたものであるのかと、神秘主義、懐疑主義・不可知論、または、虚無・悲観・絶望主義に陥ってしまってもいけないのであります。

もちろん、勝義諦をコトバの実体化により表すことはできません。しかし、世俗諦において、無自性・空なるコトバにより、勝義諦とはいかなるものであるかを指向することはギリギリで可能であると考えます。あくまでも、世俗諦における「無自性・空なるコトバ」によってというところが重要であります。また、その「無自性・空なるコトバ」を誤りなく成立させるために、その背後に控えているのが「深遠なる縁起の理法」であります。

ナーガールジュナ論師の中論「観四諦品」(第二十四・第八偈〜第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』【「中論」邦訳参照〔中論(上・中・下)三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕】とありますように、二諦の理解をもって、いかなる世俗(言説)における無自性・空なるコトバが、中観帰謬論証派において「言説有」として扱われるのか、ツォンカパ論師は、慎重にコトバの世界を扱う中で、安易に戯論寂滅・言語道断・不可説へと転落しないように、もちろん、実体・自性・自相化へとも転落しないように、絶妙のバランスを保つ「言説有」を徹底的に再構築したわけであります。

ツォンカパ論師は、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」としての「非有非無の中道」を明らかとし、仏教思想史上の革新的転回を果たし、お釈迦様の教えの原点回帰を図ったのであります。

次回も引き続きまして、更にツォンカパ論師の中観思想につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4

さて、今回はもう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

まだ拙い私の理解でございますので、多くの間違いや勘違いがあるかとは存じますが、簡単に今の私の理解について、以下に述べさせて頂きます。

中観帰謬論証派と中観自立論証派との最も大きな相違点は、世俗(言説)の次元における「自相の成立」について、前者ではそれを認めませんが、後者では認めている(正確には、認めざるを得ない)というところであります。

それは、「コトバの世界において扱うモノ・コトの背後に、そのモノ・コトを、モノ・コトとして何か成り立たしめている実体(自性・自相)があるのか、ないのか」ということでの扱いの違いであります。

もちろん、両論派共に勝義諦(第一義諦)においては、そのような実体(自性・自相)は完全に否定しますが、中観自立論証派では、世俗(言説)の次元において、モノ・コトを何か成り立たしめている実体(自性・自相)を認めてしまっている(認めざるをえない)というところがあります。

それは、自立論証を用いて、論証主張して対論者に「空・無自性」を認めさせるためには、立論者と対論者の間において、共通の知識根拠〔量〕(直接知覚と推論)・存在論が必要であることが大きな原因となっています。

しかし、中観論者は、「あらゆるモノ・コトは、空であり、実体が無い」という理解が「空・無自性」を主張するための大前提となっているにも拘わらず、自立論証においては、立論者が対論者(実体論者)に対して、自分の論証主張を認めさせるにも、相手との間において共通の知識根拠(特に直接知覚)・存在論を何とかして設定しなければならず、そのため、相手にある程度譲歩して論証を展開していくという中で、コトバの世界(世俗・言説)においての何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないという誤りが結局は付随してしまうというわけであります。

何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないというのは、例えば、簡単には、「○は、〜である。」の場合、その「○」としてあるモノ・コトについて、「○」というモノ・コトが、そのまま、立論者の意図してる知識根拠の通りに対論者の側での知識根拠としても合致する余地があるのかどうかということではないかと考えております。もしも、合致するような知識根拠が何も無いとなれば、最初から議論は成り立たなくなってしまい、立論そのものが意味のない、無駄なものとなってしまいます。

そのため、自立論証を採用するのであれば、世俗(言説)において、何らかの実体(自性・自相)を何とかしてでも認めざるを得ないこととなってしまいます。しかしながら、世俗(言説)の領域であるとはいえども、そのような実体(自性・自相)を認めてしまうということは、いくら世俗(言説)の領域に限定しても許されないとして中観帰謬論証派からは激しく批判されることになります。

もしも、立論者が本当の中観論者であるならば、「○」には、何らとして「○」として成り立たしめているような実体・自性・自相は当然に見当たらないため、ただ「○は、無自性・空である」ということだけが一応は言えるのみで、それ以上は本来、何も立論のしようが無いのであります。当然に自立論証の展開は成り立たないことになります。

そのため、中観論者は、本来、自立論証は採用できず、相手の主張の矛盾・誤謬を指摘して、その実体論の誤りを正すという帰謬論証を用いて、空・無自性を論証していくことしかできないのであります。また、もちろん、「○」は無実体・無自性・無自相、空なるものでしかありませんが、「○」は、世俗(言説)において、「分別によってただ仮に名のみが与えられているもの(仮名・仮設)に過ぎない」ということで、中観帰謬論証派は「○」について一応は言えることができるという立場として、「言説有」を扱うのであると考えています。

少し上記のことは私の理解が不足している点も多々あるかと存じますので、随時に検証していけましたらと存じております。次回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html


ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4
ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義4

さて、今回はもう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

まだ拙い私の理解でございますので、多くの間違いや勘違いがあるかとは存じますが、簡単に今の私の理解について、以下に述べさせて頂きます。

中観帰謬論証派と中観自立論証派との最も大きな相違点は、世俗(言説)の次元における「自相の成立」について、前者ではそれを認めませんが、後者では認めている(正確には、認めざるを得ない)というところであります。

それは、「コトバの世界において扱うモノ・コトの背後に、そのモノ・コトを、モノ・コトとして何か成り立たしめている実体(自性・自相)があるのか、ないのか」ということでの扱いの違いであります。

もちろん、両論派共に勝義諦(第一義諦)においては、そのような実体(自性・自相)は完全に否定しますが、中観自立論証派では、世俗(言説)の次元において、モノ・コトを何か成り立たしめている実体(自性・自相)を認めてしまっている(認めざるをえない)というところがあります。

それは、自立論証を用いて、論証主張して対論者に「空・無自性」を認めさせるためには、立論者と対論者の間において、共通の知識根拠〔量〕(直接知覚と推論)・存在論が必要であることが大きな原因となっています。

しかし、中観論者は、「あらゆるモノ・コトは、空であり、実体が無い」という理解が「空・無自性」を主張するための大前提となっているにも拘わらず、自立論証においては、立論者が対論者(実体論者)に対して、自分の論証主張を認めさせるにも、相手との間において共通の知識根拠(特に直接知覚)・存在論を何とかして設定しなければならず、そのため、相手にある程度譲歩して論証を展開していくという中で、コトバの世界(世俗・言説)においての何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないという誤りが結局は付随してしまうというわけであります。

何らかの実体(自性・自相)を認めざるを得ないというのは、例えば、簡単には、「○は、〜である。」の場合、その「○」としてあるモノ・コトについて、「○」というモノ・コトが、そのまま、立論者の意図してる知識根拠の通りに対論者の側での知識根拠としても合致する余地があるのかどうかということではないかと考えております。もしも、合致するような知識根拠が何も無いとなれば、最初から議論は成り立たなくなってしまい、立論そのものが意味のない、無駄なものとなってしまいます。

そのため、自立論証を採用するのであれば、世俗(言説)において、何らかの実体(自性・自相)を何とかしてでも認めざるを得ないこととなってしまいます。しかしながら、世俗(言説)の領域であるとはいえども、そのような実体(自性・自相)を認めてしまうということは、いくら世俗(言説)の領域に限定しても許されないとして中観帰謬論証派からは激しく批判されることになります。

もしも、立論者が本当の中観論者であるならば、「○」には、何らとして「○」として成り立たしめているような実体・自性・自相は当然に見当たらないため、ただ「○は、無自性・空である」ということだけが一応は言えるのみで、それ以上は本来、何も立論のしようが無いのであります。当然に自立論証の展開は成り立たないことになります。

そのため、中観論者は、本来、自立論証は採用できず、相手の主張の矛盾・誤謬を指摘して、その実体論の誤りを正すという帰謬論証を用いて、空・無自性を論証していくことしかできないのであります。また、もちろん、「○」は無実体・無自性・無自相、空なるものでしかありませんが、「○」は、世俗(言説)において、「分別によってただ仮に名のみが与えられているもの(仮名・仮設)に過ぎない」ということで、中観帰謬論証派は「○」について一応は言えることができるという立場として、「言説有」を扱うのであると考えています。

少し上記のことは私の理解が不足している点も多々あるかと存じますので、随時に検証していけましたらと存じております。次回も引き続きましてツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51766505.html

「非有・非無の中道」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51764526.html

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
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 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

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施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
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2010年09月17日(Fri)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義3
さて、前回におきましては、ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派とツォンカパ論師の中観思想の相違につきまして簡単に触れさせて頂きました。次に、ツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようとしていく中観論者たちの一派のことであります。

ツォンカパ論師は、中観自立論証派に対して厳しい批判を展開するわけですが、ツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との最大の相違は、中観自立論証派においては、「世俗(言説)において自相を認めている」ということに対して、中観帰謬論証派は、そのような自相すらも否定するということであります。

「自相を認めるということ」は、「ある各モノ・コトそれぞれにおいて、それたらしめている構成要素(属性・性質・作用)が、それぞれ自身において 成立していることを認めていること」ということであります。この自相が成立していることを認めることによって、中観自立論証派の論証式は成り立っているわけですが、勝義諦では当然として、世俗(言説)においても、そのような「自相」の成立を認めないのが、中観帰謬論証派となるわけであります。

ここの差異の吟味が非常に難しいところでありますが、非常に分かりやすい解説がなされているのが、

チベット仏教ゲルク派・宗学研究所「教理の考察」
「誰も知らない火事(齋藤保高氏)」
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

の内容でございますので、是非共にご参照して頂ければと存じます。

少し私の拙い現状での理解を簡単に述べさせて頂くと致しますと、中観自立論証派の場合、自ら打ち立てた論証主張を相手にも認めさせるためには、自分と相手との間に共通のモノ・コトが無ければ、相手にそれを認めさせることができずに論証主張は成り立たなくなってしまいます。

これは当然のことであって、主張者が、どのように論証主張をしたとしても、自分と相手との間で、知覚・知識・認識・概念・思考などにおいて何らかの確かなる共通のモノ・コトが無ければ、理解の相違・異同・差異が生じるは当たり前のことで、議論に齟齬をきたすのは明白であるからであります。

それは、もしも、自分と相手との間で何らかの確かなる共通のモノ・コトが無いとなれば、いくら頑張って論証主張しても意味が無く、無駄となってしまうため、中観自立論証派においては、何とかして論証主張を成立させるためにも、自分と相手との間において共通のモノ・コトをどうにかして設定しなければならなかったわけであります。それが「自相の成立」についてであり、「世俗(言説)において自相を認めている」として、中観帰謬論証派から批判を受けたのであります。

次回も、もう少しツォンカパ論師の中観思想(中観帰謬論証派)と中観自立論証派との相違につきまして考えて参りたいと存じます。

・・

前回には、ツォンカパ論師による「離辺中観説」の批判概要について簡単に触れさせて頂きました。当時、中観帰謬論証派において主流を占めつつあった「中観論者には主張がない」という見解から、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程を学ぶことが非常に大切なこととなります。

中観帰謬論証派、中観自立論証派、離辺中観論者も含めて、中観思想論者全般の共通して目指すところは、当然に正覚・正悟への到達、迷い苦しみの輪廻からの解脱を図り、涅槃へと到達することであります。

しかし、正覚・正悟への到達、涅槃への到達における過程の相違が、中観思想の中においても様々な見解を生じさせてしまったのであります。

特には、中観思想を大きく分けることとなった二派において、中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようと尽力し、中観帰謬論証派は、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出すことによって、「空・無自性」を証明しようと尽力したのであります。

仏教最高真理としての「勝義諦(第一義諦)」は、「無分別」・「不可説」・「戯論寂滅」・「言語道断」というコトバ・論理の世界を超えたところであることは両派も認めるところであります。しかし、「勝義諦(第一義諦)」へと至るための「世俗諦」の扱いにおける見解の相違によって、両派は分かれて議論を展開することになってしまいました。

ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派においては、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出していくために、当然に、対論者(実体論者)の主張を待って、その主張の抱えている矛盾を指摘していくことによって、「空・無自性」を証明していくため、自ら積極的に主張を行うことは、自ら矛盾をさらしてしまうこととなるため、「主張をすることはない」という考えが大勢でありました。

しかし、ツォンカパ論師は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という「非有・非無」について、独自の解釈を展開し、「中観論者には、主張が有る」ということを示して、コトバの世界において、勝義諦として否定されるべきことと、世俗諦において否定されてはならないことをしっかりと明らかにして、正確に否定対象を否定していくための「正理のはたらき」の正しい理解をしていくことに不断の努力を積み重ねていく中、積極的にコトバの世界において、「空・無自性」を証明していこうとしたのであります。

ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派では、「中観論者には主張が無い」として、コトバの世界をただ否定するのみに終始していたことから、コトバの世界において、できうる限りに「空・無自性」を証明していくために、「中観論者には主張が有るのだ」と、ツォンカパ論師が明確に打ち出したことは、中観思想史上の劇的な転回となったのであります。

では、ツォンカパ論師の中観思想と、従来より「中観論者には、主張がある」として、「空・無自性」について、コトバ・論理の世界を積極的に用いて証明していこうとしていた中観自立論証派との相違はどこにあるのか、そのことについて次回は少し考えて参りたいと存じます。

・・

前回に「非有・非無の中道」について少し述べさせて頂きました。その中における『・・ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題・・』と述べさせて頂きましたことについて、今回は考えて参りたいと存じます。

ツォンカパ論師までの中観思想において大勢を占めていたのが、「離辺中観説」であります。「離辺中観説」とは、仏教最高の真理である「勝義諦(第一義諦)」は、言語道断・不可説であり、一切の分別、戯論を離れており、有ということもできず、無ということもできない(非有・非無)、有辺と無辺を離れているという説であります。

この「離辺中観説」を痛烈に厳しく批判したのがツォンカパ論師であり、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」として、それまでの中観思想においては、最高真理である勝義諦へ向けて、無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)を指向することが大いに礼賛されてきた流れが、ツォンカパ論師によってせき止められたことで、仏教思想史上の一大革新的転回を迎えたわけであります。

仮に、もしも仏教の真理が、「無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)」で良しとするならば、不思不観、無念無想の境地において、「何も考えなければよい」、「何も思わなければよい」、「何も言わなくても(主張しなくて)よい」ということから、やがては、「何もしなくてもよい」、「何をしても意味がない」、「何をしても無駄である」、更には、「何をしても構わない」、「何でもあり」と、様々な弊害を生み出してしまい、お釈迦様の真なる教えが破壊されていってしまうのは明白であり、実際の仏教史上においても、そのような流れにおいて、仏教が変容していってしまいました。その大きな流れとして、やがて、仏教の教義において、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向が顕著となってゆき、そのことによって仏教が堕落と衰退へと陥ってしまう事態が避けられなくなってしまったのも事実であります。

ツォンカパ論師は、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)を基として展開されつつあった密教が前面へと出すぎてしまい、堕落へと向かい始めたチベット仏教において、その堕落を止めるため、中観思想の解釈の徹底した見直しと密教のあり方の見直しを進めると共に、修行の階梯、戒律の再整備を行い、僧院集団の綱紀粛正を図って、ゲルク派(黄帽派)を創始するに至ったのであります。

お釈迦様の教えの原点回帰を図るために興った初期大乗仏教運動の念願は、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来、紆余曲折を経ながらも、ツォンカパ論師によって一つの結実を見ることとなったわけであります。

・・

「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります。

「有」というのは、モノ・コトについて、「実体・自性・自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(常見)のことであり、「無」というのは、モノ・コトについて、「無実体・無自性・無自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(断見)のことであります。

「実体・自性・自相」として、成り立っているモノ・コトは見当たらないことについては、改めてここで説明はもう致しませんが、問題は、「無実体・無自性・無自相」ということの理解について少し補足しておきたいと存じます。

それは、あくまでも「無実体・無自性・無自相」ということを説明しなければならない事態は、「実体・自性・自相」としてのあり方があるという執着を離させるための教説展開に過ぎないということであります。

そのため、「実体・自性・自相」は、非(無)「実体・自性・自相」であり、更には、非(無)「無実体・無自性・無自相」であるということも「非有・非無の中道」においては、理解しておかなければなりません。

つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除かなければならないこととなります。

そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていくこととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。

ここは非常にツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で重要なところであり、ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題を、ツォンカパ論師はどのようにして解決へと導くことができたのかを考えていかなければなりません。

「中観論者には、主張が無い」とするツォンカパ論師以前の中観思想が占めようとしていた大勢的立場から、世俗諦(コトバの世界)において、「非有・非無」について「勝義においては無であるが、言説(世俗)においては有である」として、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程をしっかりと学ぶことが、「深遠なる縁起の理法」を理解していく上でも誠に大切なこととなります。

・・

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
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集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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2010年09月16日(Thu)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義2
さて、前回には、ツォンカパ論師による「離辺中観説」の批判概要について簡単に触れさせて頂きました。当時、中観帰謬論証派において主流を占めつつあった「中観論者には主張がない」という見解から、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程を学ぶことが非常に大切なこととなります。

中観帰謬論証派、中観自立論証派、離辺中観論者も含めて、中観思想論者全般の共通して目指すところは、当然に正覚・正悟への到達、迷い苦しみの輪廻からの解脱を図り、涅槃へと到達することであります。

しかし、正覚・正悟への到達、涅槃への到達における過程の相違が、中観思想の中においても様々な見解を生じさせてしまったのであります。

特には、中観思想を大きく分けることとなった二派において、中観自立論証派は、積極的にコトバの世界、論理の世界を扱って、正覚・正悟・涅槃へ至るために「空・無自性」を証明しようと尽力し、中観帰謬論証派は、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出すことによって、「空・無自性」を証明しようと尽力したのであります。

仏教最高真理としての「勝義諦(第一義諦)」は、「無分別」・「不可説」・「戯論寂滅」・「言語道断」というコトバ・論理の世界を超えたところであることは両派も認めるところであります。しかし、「勝義諦(第一義諦)」へと至るための「世俗諦」の扱いにおける見解の相違によって、両派は分かれて議論を展開することになってしまいました。

ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派においては、コトバの世界、論理の世界が抱えている矛盾を暴き出していくために、当然に、対論者(実体論者)の主張を待って、その主張の抱えている矛盾を指摘していくことによって、「空・無自性」を証明していくため、自ら積極的に主張を行うことは、自ら矛盾をさらしてしまうこととなるため、「主張をすることはない」という考えが大勢でありました。

しかし、ツォンカパ論師は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という「非有・非無」について、独自の解釈を展開し、「中観論者には、主張が有る」ということを示して、コトバの世界において、勝義諦として否定されるべきことと、世俗諦において否定されてはならないことをしっかりと明らかにして、正確に否定対象を否定していくための「正理のはたらき」の正しい理解をしていくことに不断の努力を積み重ねていく中、積極的にコトバの世界において、「空・無自性」を証明していこうとしたのであります。

ツォンカパ論師以前における中観帰謬論証派では、「中観論者には主張が無い」として、コトバの世界をただ否定するのみに終始していたことから、コトバの世界において、できうる限りに「空・無自性」を証明していくために、「中観論者には主張が有るのだ」と、ツォンカパ論師が明確に打ち出したことは、中観思想史上の劇的な転回となったのであります。

では、ツォンカパ論師の中観思想と、従来より「中観論者には、主張がある」として、「空・無自性」について、コトバ・論理の世界を積極的に用いて証明していこうとしていた中観自立論証派との相違はどこにあるのか、そのことについて次回は少し考えて参りたいと存じます。

・・

前回に「非有・非無の中道」について少し述べさせて頂きました。その中における『・・ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題・・』と述べさせて頂きましたことについて、今回は考えて参りたいと存じます。

ツォンカパ論師までの中観思想において大勢を占めていたのが、「離辺中観説」であります。「離辺中観説」とは、仏教最高の真理である「勝義諦(第一義諦)」は、言語道断・不可説であり、一切の分別、戯論を離れており、有ということもできず、無ということもできない(非有・非無)、有辺と無辺を離れているという説であります。

この「離辺中観説」を痛烈に厳しく批判したのがツォンカパ論師であり、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」として、それまでの中観思想においては、最高真理である勝義諦へ向けて、無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)を指向することが大いに礼賛されてきた流れが、ツォンカパ論師によってせき止められたことで、仏教思想史上の一大革新的転回を迎えたわけであります。

仮に、もしも仏教の真理が、「無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)」で良しとするならば、不思不観、無念無想の境地において、「何も考えなければよい」、「何も思わなければよい」、「何も言わなくても(主張しなくて)よい」ということから、やがては、「何もしなくてもよい」、「何をしても意味がない」、「何をしても無駄である」、更には、「何をしても構わない」、「何でもあり」と、様々な弊害を生み出してしまい、お釈迦様の真なる教えが破壊されていってしまうのは明白であり、実際の仏教史上においても、そのような流れにおいて、仏教が変容していってしまいました。その大きな流れとして、やがて、仏教の教義において、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向が顕著となってゆき、そのことによって仏教が堕落と衰退へと陥ってしまう事態が避けられなくなってしまったのも事実であります。

ツォンカパ論師は、絶対的な存在・実在・実体の立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)を基として展開されつつあった密教が前面へと出すぎてしまい、堕落へと向かい始めたチベット仏教において、その堕落を止めるため、中観思想の解釈の徹底した見直しと密教のあり方の見直しを進めると共に、修行の階梯、戒律の再整備を行い、僧院集団の綱紀粛正を図って、ゲルク派(黄帽派)を創始するに至ったのであります。

お釈迦様の教えの原点回帰を図るために興った初期大乗仏教運動の念願は、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来、紆余曲折を経ながらも、ツォンカパ論師によって一つの結実を見ることとなったわけであります。

・・

「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります。

「有」というのは、モノ・コトについて、「実体・自性・自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(常見)のことであり、「無」というのは、モノ・コトについて、「無実体・無自性・無自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(断見)のことであります。

「実体・自性・自相」として、成り立っているモノ・コトは見当たらないことについては、改めてここで説明はもう致しませんが、問題は、「無実体・無自性・無自相」ということの理解について少し補足しておきたいと存じます。

それは、あくまでも「無実体・無自性・無自相」ということを説明しなければならない事態は、「実体・自性・自相」としてのあり方があるという執着を離させるための教説展開に過ぎないということであります。

そのため、「実体・自性・自相」は、非(無)「実体・自性・自相」であり、更には、非(無)「無実体・無自性・無自相」であるということも「非有・非無の中道」においては、理解しておかなければなりません。

つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除かなければならないこととなります。

そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていくこととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。

ここは非常にツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で重要なところであり、ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題を、ツォンカパ論師はどのようにして解決へと導くことができたのかを考えていかなければなりません。

「中観論者には、主張が無い」とするツォンカパ論師以前の中観思想が占めようとしていた大勢的立場から、世俗諦(コトバの世界)において、「非有・非無」について「勝義においては無であるが、言説(世俗)においては有である」として、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程をしっかりと学ぶことが、「深遠なる縁起の理法」を理解していく上でも誠に大切なこととなります。

・・

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html


2010年09月14日(Tue)▲ページの先頭へ
ツォンカパ論師の中観思想を学ぶ意義
さて、前回に「非有・非無の中道」について少し述べさせて頂きました。その中における『・・ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題・・』と述べさせて頂きましたことについて、今回は考えて参りたいと存じます。

ツォンカパ論師までの中観思想において大勢を占めていたのが、「離辺中観説」であります。「離辺中観説」とは、仏教最高の真理である「勝義諦(第一義諦)」は、言語道断・不可説であり、一切の分別、戯論を離れており、有ということもできず、無ということもできない(非有・非無)、有辺と無辺を離れているという説であります。

この「離辺中観説」を痛烈に厳しく批判したのがツォンカパ論師であり、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」として、それまでの中観思想においては、最高真理である勝義諦へ向けて、無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)を指向することが大いに礼賛されてきた流れが、ツォンカパ論師によってせき止められたことで、仏教思想史上の一大革新的転回を迎えたわけであります。

仮に、もしも仏教の真理が、「無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)」で良しとするならば、不思不観、無念無想の境地において、「何も考えなければよい」、「何も思わなければよい」、「何も言わなくても(主張しなくて)よい」ということから、やがては、「何もしなくてもよい」、「何をしても意味がない」、「何をしても無駄である」、更には、「何をしても構わない」、「何でもあり」と、様々な弊害を生み出してしまい、お釈迦様の真なる教えが破壊されていってしまうのは明白であり、実際の仏教史上においても、そのような流れにおいて、仏教が変容していってしまいました。その大きな流れとして、やがて、仏教の教義において、絶対論的・実在論的な立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)へと向かっていく傾向が顕著となってゆき、そのことによって仏教が堕落と衰退へと陥ってしまう事態が避けられなくなってしまったのも事実であります。

ツォンカパ論師は、絶対論的・実在論的な立論(本覚思想・如来蔵思想・仏性思想)を基として展開されつつあった密教が前面へと出すぎてしまい、堕落へと向かい始めたチベット仏教において、その堕落を止めるため、中観思想の解釈の徹底した見直しと密教のあり方の見直しを進めると共に、修行の階梯、戒律の再整備を行い、僧院集団の綱紀粛正を図って、ゲルク派(黄帽派)を創始するに至ったのであります。

お釈迦様の教えの原点回帰を図るために興った初期大乗仏教運動の念願は、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来、紆余曲折を経ながらも、ツォンカパ論師によって一つの結実を見ることとなったわけであります。

・・

「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります。

「有」というのは、モノ・コトについて、「実体・自性・自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(常見)のことであり、「無」というのは、モノ・コトについて、「無実体・無自性・無自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(断見)のことであります。

「実体・自性・自相」として、成り立っているモノ・コトは見当たらないことについては、改めてここで説明はもう致しませんが、問題は、「無実体・無自性・無自相」ということの理解について少し補足しておきたいと存じます。

それは、あくまでも「無実体・無自性・無自相」ということを説明しなければならない事態は、「実体・自性・自相」としてのあり方があるという執着を離させるための教説展開に過ぎないということであります。

そのため、「実体・自性・自相」は、非(無)「実体・自性・自相」であり、更には、非「無実体・無自性・無自相」であるということも「非有・非無の中道」においては、理解しておかなければなりません。

つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除かなければならないこととなります。

そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていくこととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。

ここは非常にツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で重要なところであり、ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題を、ツォンカパ論師はどのようにして解決へと導くことができたのかを考えていかなければなりません。

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「中観論者には、主張が無い」とするツォンカパ論師以前の中観思想が占めようとしていた大勢的立場から、コトバの世界において、「非有・非無」について「勝義においては無であるが、言説(世俗)においては有である」として、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程をしっかりと学ぶことが、「深遠なる縁起の理法」を理解していく上でも誠に大切なこととなります。

・・

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixiコミュニティ「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教・学びの進捗状況全般参照
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/

集中的に再読していく論著集

「中論―縁起・空・中の思想(上・中・下)」三枝充悳著 レグルス文庫
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年09月12日(Sun)▲ページの先頭へ
「非有・非無の中道」について
「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります。

「有」というのは、モノ・コトについて、「実体・自性・自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(常見)のことであり、「無」というのは、モノ・コトについて、「無実体・無自性・無自相」というあり方であるということに極端に執着してしまった見方(断見)のことであります。

「実体・自性・自相」として、成り立っているモノ・コトは見当たらないことについては、改めてここで説明はもう致しませんが、問題は、「無実体・無自性・無自相」ということの理解について少し補足しておきたいと存じます。

それは、あくまでも「無実体・無自性・無自相」ということを説明しなければならない事態は、「実体・自性・自相」としてのあり方があるという執着を離させるための教説展開に過ぎないということであります。

そのため、「実体・自性・自相」は、非(無)「実体・自性・自相」であり、更には、非「無実体・無自性・無自相」であるということも「非有・非無の中道」においては、理解しておかなければなりません。

つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除かなければならないこととなります。

そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていくこととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。

ここは非常にツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で重要なところであり、ややもすれば、最高真理としての勝義諦は、「非有・非無」としての「戯論寂滅・言語道断」であるのだという理解の陥ってしまう不都合な問題を、ツォンカパ論師はどのようにして解決へと導くことができたのかを考えていかなければなりません。

・・

「中観論者には、主張が無い」とするツォンカパ論師以前の中観思想が占めようとしていた大勢的立場から、コトバの世界において、「非有・非無」について「勝義においては無であるが、言説(世俗)においては有である」として、「中観論者には、主張が有る」と明確に示すに至ったツォンカパ論師の考察過程をしっかりと学ぶことが、「深遠なる縁起の理法」を理解していく上でも誠に大切なこととなります。

・・

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

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「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年09月07日(Tue)▲ページの先頭へ
「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
仏教最大の真理要諦である「深遠なる縁起の理法」・「空性」の理解は、チベット仏教の顕教における中観帰謬論証派の学びにおいて、ある程度、進めることができて参りましたように存じております。これから、私の理解につきましてじっくり慎重に検証して参りたいと存じております。

・・

「縁起賛」ツォンカパ大師

〈縁起を〉見て、〈それを〉説かれたため、〈釈尊は〉無上の智者であり、無上の師である。〈故に、〉縁起を見て、それを説かれた勝利者〈仏陀〉に礼拝いたします。

この世のいかなる堕落も、その源は無明である 。〈縁起を〉見ることにより、それ〈無明〉を滅することができるため、縁起〈の教え〉が説かれた。

故に、知性ある者が、縁起の道こそ、あなた(釈尊)の教えの心髄であることを、どうして理解しないことなどあろうか。

そうであるならば、守護者であるあなたを賞賛するために、縁起を説かれたことよりもすばらしい方法を、いったい誰が見つけられようか。

「条件に依存しているものは、みなその自性は空である」。これよりも驚くべきどんな善き教えがあると言うのか。

凡夫たちはそれ(縁起)にとらわれて、極端論への束縛を堅固にする。賢者にとっては、それ(縁起)が戯論の網をすべて断ち切る門戸となる。

この教えは他に見たことがないので、師と名づけられるのは、あなた〈だけ〉である。キツネを獅子〈と呼ぶ〉ように、非仏教徒たち〈の場合〉もへつらいの言葉〈に過ぎない〉。

すばらしい師よ、すばらしい帰依よ、すばらしい最高の説法者よ、すばらしい守護者よ。縁起を善く説かれた師に、私は礼拝いたします。

救済者であるあなたは、有情を利益するために、教えの心髄である空を確信できる比類なき理由を説かれた。

縁起のありようを、矛盾や不成立と見る人たちは、あなたの体系をいったいどうやって理解できるというのか。

あなたの説では、空が縁起の意味であることを見たならば、自性が空であることと、〈すべてが〉正しく機能することは矛盾しない。

しかし、その逆を見たならば、空には機能が成り立たず、機能を果たすものは空ではないため、危険な崖から落ちる、と言われている。

故にあなたの教えでは、縁起を見ることが讃えられている。それはまた、何もないことでも、その自性から存在することでもない。

〈因と条件に〉依存しないものは、虚空の華のようである。故に、〈因と条件に〉依存しないものは存在しない。その自性によって成立しているならば、 その成立が因と条件に依存することに矛盾する。

「故に、〈他に〉依存して生じたのではない現象は何もないので、自性が空でない現象は何も存在しない」と〈あなたは〉言われた。

「現象に少しでも自性がある限り、自性を否定することはできないので、涅槃〈に至ること〉はできず、戯論を滅することもできない」と、〈あなたは〉言われた。

故に、自性はないと、獅子の声で繰り返し、賢者たちの集まりで善く説かれていることに、いったい誰が対抗できるのか。

自性が何もないことと、これに依存してこれが生じたという、すべての規定は正しい。この二つが矛盾なく集まることは言うに及ばない。

「縁起を理由に、極端論に依存しない」というこの善き教えは、守護者であるあなたが、無上の説法者である理由である。

このすべては自性が空であるということと、これからこの結果が生じた、という二つの確信は、互いに障りなく助け合っている。

これよりも驚くべきもの〈があるだろうか〉、これよりもすばらしいもの〈があるだろうか〉。こうしてあなたを賞賛することは、〈本物の〉賞賛であり、他はそうではない。

無知の奴隷となり、あなたを敵視する者が、自性がないという言葉に耐えられないことは驚くに足りない。

しかし、貴重な宝である、縁起というあなたの教えを受け入れながら、空のとどろきに耐えられないことは、私にとって驚くべきことである。

無自性〈の見解〉に導く扉である、無上の縁起というその名によって、もし自性にとらわれるなら、今その人を、

聖者たちが善く旅した、比類なき門戸であり、あなたを喜ばせるこの善き道にいかなる手段で導けばよいのか。

自性〈があり〉、〈因と条件によって〉作り出されたのではなく、〈部分に〉依存しないものと縁起し、〈部分に〉依存して、〈因と条件によって〉作り出されたもの、この二つが、ひとつの土台において矛盾することなく集まることなどできようか。

故に、〈他に〉依存して生じたものは、みな、無始の時より自性を離れているが、〈自性があるかの如く〉現れる。そこで〈釈尊は〉、これらはすべて幻
のようなものだと言われた。

あなたがこのように説かれたことに対して、反論者たちが論議をしかけても、法に基づいて論破することはできない、と言われたことも、これ (縁起の教え)によって〈私は〉よく理解した。

何故そうなのかと言うと、このように説明することで、見えるもの、見えないものなどの事物について、〈ないものを〉あるととらえたり、〈あるものを〉ないととらえたりすることを遠ざけておられるからである。

あなたの教えが比類なきものである、ということを見た理由は、縁起というこの道であり、〈あなたが〉説かれた他の教えも、正しい認識であるという確信が生じる。

あるがままに見て善く説かれた、あなたに従って修行する者たちに、すべての堕落は遠ざかっていく。すべての過失の源が退けられるからである。

あなたの教えに背を向ける者たちは、たとえ長い間苦労を重ねても、過失を呼び戻しているようである。〈それは〉我見が堅固なためである。

ああ、賢者たちが、この二者の違いを理解したならば、その時〈彼らが〉心の底から、あなたを尊敬しないことなどあろうか。

あなたの多くの教えについては言うまでもなく、その一部の意味だけから 大まかな確信を得る者たちにも、最高の幸せを与える。

ああ、私の心は無知に打ち負かされている。このようなすばらしい資質の集まり〈であるあなた〉に、長い間帰依をしたけれど、その資質の一部さえ得ることはなかった。

しかし、死に向かって近づいていく、命の流れが止まってしまうまでに、あなたへのわずかな確信を得られたなら、それだけでも恵まれたことだと考える。

世に現れた仏陀たちが、〈他の師よりも卓越していた〉ように、師の中でも、縁起を説いた師、智慧の中でも、縁起の智慧、この二つが卓越していることを、あなた〈だけ〉が善く知っておられ、他〈の師たち〉は知らない。

あなたが説かれたすべての教えは、縁起から始めて入るものである。それもまた、涅槃のためであり、〈有情の堕落を〉鎮めない行ないは、あなたにはない。

ああ、あなたの教えは、誰の耳に届いても、すべての人が静寂を得るため、あなたの教えを維持することを光栄に思わない者などあろうか。

すべての反論者たちを克服し、前後に矛盾がなく、有情に二つの目的を与えるこの体系に、わたしの喜びは増していく。

このために、あなたは、ある時はからだを、別の時は命を、そして愛しい者や所有物なども、〈三〉阿僧祗劫にわたって何度も繰り返し与えられた。

その〈教えの〉すぐれた資質を見て、釣り針が魚を〈引きあげる〉ように、〈釈尊の〉お心が〈強く〉引かれて説かれた教えを、あなたから聞けなかったのは残念なことである。

その嘆きの激しさは、母の心が、愛しい子供のこと〈だけ〉を追いかけるように、私の心をとらえて離さない。

この〈嘆き〉もまた、あなたのお言葉を思い出して、「〈三十二〉相〈八十〉種好の栄えある〈仏陀の〉しるしで輝き、光の網に完全に包まれ、師の清らかなお声で、

これをこのように説かれた」と思うと、そのような釈尊のお姿が心に浮かぶだけで、月の光が熱の苦痛〈を癒すように〉〈私の心は〉癒される。

このようなすばらしい善き体系にも、賢くない人たちは、〈もつれた〉つる草のように、どの面からも完全に混乱してしまう。

これを見て、私は多くの努力を積み、賢者たちのあとに従って、あなたの真意を繰り返し求めた。

そのような時、中観派と実在論者たちの多くのテキストを学んだが、再び疑問の網に〈とらわれて〉、私の心は絶え間なく苦しめられた。

有と無の極端を滅した、あなたの無上の乗り物を、あるがままに解説すると予言されたナーガールジュナのテキストは、夜咲く睡蓮の庭のようである。

汚れなき智慧のマンダラは満ち、教えはさえぎられることなく虚空を飛び、極端論者の心の闇を晴らし、誤った説法者たちの星座群より強く輝く。

〈そのような〉チャンドラキールティの善説という、一連の白い光によって明らかにされたことを、ラマの恩によって見た時、私の心は休息を得た。

すべての行ないの中で、お言葉の行ないが最もすぐれたものである。その中でもまた、このお言葉であるため、賢者たちはこれ(縁起の教え)によって仏陀を思い起こすべきである。

その師に従って出家して、勝利者の教えを劣らず学び、ヨガ行に精進する比丘である〈私は〉、その偉大な修行者をこのように尊敬いたします。

無上なる師の教えにこのように出会えたのは、ラマの恩によるものなので、この功徳もまた、すべての有情たちが、聖なる精神の導師によって守られる因となるように廻向いたします。

この救済者の教えが、この世の終わりまで、悪い考えの風で動じることなく教えの本質を理解して、師に対する信頼を得た者たちで、常に満たされますように。

縁起のありようを明らかにされた、釈尊の善き体系を、すべての生を通してからだや命を捧げてでも維持し、一瞬たりとも手放すことがありませんように。

「この最高の指導者が、はかり知れない困難な〈行を実践され〉、精力的な努力によって達成されたこの〈教え〉を、いったいどのような手段によって高めていけるだろうか」と熟考することで、昼も夜も過ごすことができますように。

清らかですぐれた決意により、このように努力しているので、梵天、帝釈天など世俗の守護神や、大黒天などの護法尊もまた、絶え間なく常に助けてくれますように。

・・

「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」ツォンカパ大師

至尊の諸上師に頂礼し奉る。

勝者(仏陀)のあらゆるお言葉の心髄の義、
正しき仏子(菩薩)らが賛嘆する道、
解脱(迷いと苦しみから完全に解放されること)を欲する有縁の者たちが
船出する波止場に喩うべき
それ(「道の三要訣」)を、私ができるだけ説き明かそう。

輪廻(迷いと苦しみの世界)の幸福に執着せず、
有暇具足(仏道修行に適した境遇)を無駄にせぬよう
精進(努力)することによって、
勝者のお喜びになる道を信奉する
有縁の者たちは、清らかな心をもって聴聞せよ。

清浄なる出離がなければ、
輪廻の苦海に幸福の果実を追い続け、
それを鎮める方便(手段)はない。
輪廻に愛着する煩悩で、
有情(あらゆる生き物)らは悉く束縛されているため、
最初に出離を追求すべきだ。

有暇具足は得難く、
しかも一生は瞬く間に過ぎ去ると
心で習熟することにより、
今生の些事への執着はなくなるだろう。

因果が偽らずに応報する輪廻のさまざまな苦しみを
再三にわたって思うならば、
後生(来世)の些事への執着もなくなるだろう。

そのように習熟することで、
輪廻の栄華を願う心など一刹那たりとも起こらず、
昼夜を通じていつも解脱を追求する智慧の生じたそのときこそ、
出離が起きたのである。

その出離も、
清浄な発心(菩提心)で支えなければ、
無上菩提(仏陀の覚り)の円満な楽を得る因とならぬゆえ、
智慧者らは優れた菩提心を発するのだ。

恐るべき四暴流(欲望や無知などの煩悩)に押し流されて、
避け難い業の堅固な束縛に身動きもならず、
我執という鉄の網に囲まれて、
無明(無知)の闇の果てしなき暗黒に覆い尽くされている・・

無辺の輪廻に生まれかわりを繰り返し、
三苦(普通の苦しみ、変化する苦しみ、普遍的苦しみ)に絶え間なく苛まれ、
今なおこのようになっている母〔なる一切衆生(生きとし生けるものすべて)〕の
ありさまを思いやり、
それから最勝心(菩提心)を発し給え。

真理を了解する般若(智慧)を具えなければ、
出離や菩提心に習熟したとて
輪廻の根を断ち切ることはできないので、
そのために縁起(あらゆる存在が他に依存して成立すること)を了解する方便を
尽くすよう努めるべきだ。

輪廻と涅槃(迷いと苦しみから解放された世界)の
諸法(さまざまな存在)一切の因果は常に偽らぬと観じつつ、
縁ずる依処(実体として認識される対象)は何であれすべて滅したとき、
それこそ仏陀がお喜びになる道へ入ったのである。

顕現(現われたこと)の因果に偽りがないことと、
空(あらわる実在に実体がないこと)を認めるという、
これら二つの離れた理解が個別に現われている間は、
未だ牟尼(釈尊)の密意(真意)を了解していない。

いつか交互にではなく同時に、
縁起に偽りのないことを観じるのみで
信念をもって境の執し方(対象を実体として把握する習慣)をすべて滅するなら、そのときこそ見解の伺察(分析)は究竟するのである。

さらに、顕現(に実体がないこと)をもって
有の辺(存在に実体性を認めるという極端論)を排し、
空〔であるものが幻のごとく現われること〕をもって
無の辺(存在が全くの無だという極端論)を排し、
このように空性が因や果として現われる道理を知るならば、
辺執見(極端論に執着する見解)に捕われなくなるだろう。

そのように
「道の三要訣」の諸要点を自ら如実に了解したときは、
寂静処へ身を寄せて精進の力を発揮し、
究極のめざす境地を速やかに成就せよ。

我が子(弟子)へ・・

この教誡は、多聞の比丘ロサン・タクペー・ペル(ツォンカパ大師)が、ツァコ・プンポ・ガワン・タクパに授けたものである。

(和訳 齋藤保高氏 参照「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説 法蔵館 2004」p5-10)

・・

「四つの捕われから離れる秘訣」サパン大師

聖なる師の御足に礼拝致します。

世間的には有暇具足の身体を得た。宝なる仏陀の教えに出会い、作意ではない心を起こし、今、錯誤のない修行をしなければならない。それにおいては、「四つの捕われ」から離れるための実践をすべきである。

それが何であるかと言えば、「第一に」今生に捕われないこと。「第二は」三界の輪廻に捕われないこと。「第三に」自身の利益に捕われないこと。「第四に」事物や相(現象、あるいは状況)に捕われないこと。

これらについて述べるなら、

今生は水の泡のようなもの
いつ死が訪れないとも限らず
永続するものと捉えてはならない

この三界の輪廻は
毒をもつ果実のようなもの
一時的には美味であるが
将来的には害をもたらす
それに捕われる誰もが誤りを犯す

自身の利益に捕われるのは
敵対者の息子を育てるようなもの
一時的には歓びであっても
究極(将来)的に自身に害をもたらすことが決定している

それゆえ、自身の利益に対して捕われたとしても
一時的に幸せでも、究極(将来)的には三悪趣に墜ちる

事物と相(現象、あるいは状況)に捕われるのは
蜃気楼の水(逃げ水)に捕われたようなもの
それゆえ、一時的には出現するが
口にすることはできない

誤った意識に、この輪廻が現われても
智慧によって分析すれば
実体は一つとしてない

それゆえ、過去には心がなく、未来にも心はない
現在においても、心はないというように理解し
一切法(すべての存在)に対しては分別から離れることを知るべきである

そのようにすれば、今生に対して捕われることがなく
三悪趣に生まれることがない
三界の輪廻に捕われることがなく
輪廻に生まれることがない

自身の利益に捕われることがなく
声聞や縁覚に生まれることがない
事物や相(現象、あるいは状況)に捕われることがなく
素早く確実に正等覚(覚り)を得る。

(和訳 藤田省吾氏 参照「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説 法蔵館 2004」p153-156)

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教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

「縁起賛」・「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」・「四つの捕われから離れる秘訣」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/m/197611

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

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集中的に再読していく論著集

「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

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2010年09月06日(Mon)▲ページの先頭へ
「四つの捕われから離れる秘訣」サパン大師
前回にツォンカパ論師「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」をご紹介させて頂きましたが、続きまして、同じく仏道修行の実践へ向けまして重要な内容が扱われております、サパン大師「四つの捕われから離れる秘訣」もご紹介させて頂きたく存じます。解説は「ラムツォ ナムスム」と同様に出典の「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説 法蔵館」に詳しくなされております。是非、ご参照下さいませ。

「四つの捕われから離れる秘訣」サパン大師

聖なる師の御足に礼拝致します。

世間的には有暇具足の身体を得た。宝なる仏陀の教えに出会い、作意ではない心を起こし、今、錯誤のない修行をしなければならない。それにおいては、「四つの捕われ」から離れるための実践をすべきである。

それが何であるかと言えば、「第一に」今生に捕われないこと。「第二は」三界の輪廻に捕われないこと。「第三に」自身の利益に捕われないこと。「第四に」事物や相(現象、あるいは状況)に捕われないこと。

これらについて述べるなら、

今生は水の泡のようなもの
いつ死が訪れないとも限らず
永続するものと捉えてはならない

この三界の輪廻は
毒をもつ果実のようなもの
一時的には美味であるが
将来的には害をもたらす
それに捕われる誰もが誤りを犯す

自身の利益に捕われるのは
敵対者の息子を育てるようなもの
一時的には歓びであっても
究極(将来)的に自身に害をもたらすことが決定している

それゆえ、自身の利益に対して捕われたとしても
一時的に幸せでも、究極(将来)的には三悪趣に墜ちる

事物と相(現象、あるいは状況)に捕われるのは
蜃気楼の水(逃げ水)に捕われたようなもの
それゆえ、一時的には出現するが
口にすることはできない

誤った意識に、この輪廻が現われても
智慧によって分析すれば
実体は一つとしてない

それゆえ、過去には心がなく、未来にも心はない
現在においても、心はないというように理解し
一切法(すべての存在)に対しては分別から離れることを知るべきである

そのようにすれば、今生に対して捕われることがなく
三悪趣に生まれることがない
三界の輪廻に捕われることがなく
輪廻に生まれることがない

自身の利益に捕われることがなく
声聞や縁覚に生まれることがない
事物や相(現象、あるいは状況)に捕われることがなく
素早く確実に正等覚(覚り)を得る。

(和訳 藤田省吾氏 参照「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説 法蔵館 2004」p153-156)

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以前に、仏教最大の真理要諦である「深遠なる縁起の理法」を賛嘆なされたツォンカパ論師の「縁起賛」につきまして載せさせて頂きました。この度は、修行の要訣である「出離」・「菩提心」・「正見」についてツォンカパ論師が端的にご説明なされている「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」をご紹介させて頂きます。仏教を学ぶ者にとっては欠かせない大切な修行実践へといざなわせる重要な内容でございます。解説は出典の「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説 春秋社」に詳しくなされております。是非、ご参照下さいませ。

「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」

至尊の諸上師に頂礼し奉る。

勝者(仏陀)のあらゆるお言葉の心髄の義、
正しき仏子(菩薩)らが賛嘆する道、
解脱(迷いと苦しみから完全に解放されること)を欲する有縁の者たちが
船出する波止場に喩うべき
それ(「道の三要訣」)を、私ができるだけ説き明かそう。

輪廻(迷いと苦しみの世界)の幸福に執着せず、
有暇具足(仏道修行に適した境遇)を無駄にせぬよう
精進(努力)することによって、
勝者のお喜びになる道を信奉する
有縁の者たちは、清らかな心をもって聴聞せよ。

清浄なる出離がなければ、
輪廻の苦海に幸福の果実を追い続け、
それを鎮める方便(手段)はない。
輪廻に愛着する煩悩で、
有情(あらゆる生き物)らは悉く束縛されているため、
最初に出離を追求すべきだ。

有暇具足は得難く、
しかも一生は瞬く間に過ぎ去ると
心で習熟することにより、
今生の些事への執着はなくなるだろう。

因果が偽らずに応報する輪廻のさまざまな苦しみを
再三にわたって思うならば、
後生(来世)の些事への執着もなくなるだろう。

そのように習熟することで、
輪廻の栄華を願う心など一刹那たりとも起こらず、
昼夜を通じていつも解脱を追求する智慧の生じたそのときこそ、
出離が起きたのである。

その出離も、
清浄な発心(菩提心)で支えなければ、
無上菩提(仏陀の覚り)の円満な楽を得る因とならぬゆえ、
智慧者らは優れた菩提心を発するのだ。

恐るべき四暴流(欲望や無知などの煩悩)に押し流されて、
避け難い業の堅固な束縛に身動きもならず、
我執という鉄の網に囲まれて、
無明(無知)の闇の果てしなき暗黒に覆い尽くされている・・

無辺の輪廻に生まれかわりを繰り返し、
三苦(普通の苦しみ、変化する苦しみ、普遍的苦しみ)に絶え間なく苛まれ、
今なおこのようになっている母〔なる一切衆生(生きとし生けるものすべて)〕の
ありさまを思いやり、
それから最勝心(菩提心)を発し給え。

真理を了解する般若(智慧)を具えなければ、
出離や菩提心に習熟したとて
輪廻の根を断ち切ることはできないので、
そのために縁起(あらゆる存在が他に依存して成立すること)を了解する方便を
尽くすよう努めるべきだ。

輪廻と涅槃(迷いと苦しみから解放された世界)の
諸法(さまざまな存在)一切の因果は常に偽らぬと観じつつ、
縁ずる依処(実体として認識される対象)は何であれすべて滅したとき、
それこそ仏陀がお喜びになる道へ入ったのである。

顕現(現われたこと)の因果に偽りがないことと、
空(あらわる実在に実体がないこと)を認めるという、
これら二つの離れた理解が個別に現われている間は、
未だ牟尼(釈尊)の密意(真意)を了解していない。

いつか交互にではなく同時に、
縁起に偽りのないことを観じるのみで
信念をもって境の執し方(対象を実体として把握する習慣)をすべて滅するなら、
そのときこそ見解の伺察(分析)は究竟するのである。

さらに、顕現(に実体がないこと)をもって
有の辺(存在に実体性を認めるという極端論)を排し、
空〔であるものが幻のごとく現われること〕をもって
無の辺(存在が全くの無だという極端論)を排し、
このように空性が因や果として現われる道理を知るならば、
辺執見(極端論に執着する見解)に捕われなくなるだろう。

そのように
「道の三要訣」の諸要点を自ら如実に了解したときは、
寂静処へ身を寄せて精進の力を発揮し、
究極のめざす境地を速やかに成就せよ。

我が子(弟子)へ・・

この教誡は、多聞の比丘ロサン・タクペー・ペル(ツォンカパ大師)が、ツァコ・プンポ・ガワン・タクパに授けたものである。

(和訳 齋藤保高氏 参照「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説 法蔵館 2004」p5-10)

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ここ数日で、最近アマゾンで購入したダライ・ラマ14世師の亡命までの前半生を描いた映画「クンドゥン」とダライ・ラマ14世師の亡命生活の様子を描いたドキュメンタリー映画「サンライズ/サンセット」を観ることができました。

両者共に非常に色々と考えさせられる内容であります。特に後者におけるダライ・ラマ14世師の法話においては、チベット仏教哲学を学ぶ上でもかなり重要な内容が、誠に時間短い中ながらも扱われておりました。この二本は、「リトル・ブッダ」と「セブン・イヤーズ・イン・チベット」と共に是非とも皆様に観て頂きたいお薦め映画であります。

「講座 仏教思想1 存在論・時間論」の再々読中。

・・

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1-3
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51749171.html

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%9F%BB%E3%81%AE%E7%93%B6%E3%81%A8%E8%B1%A1%E3%81%AE%E7%93%B6

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著集

「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
「講座 仏教思想2 認識論・論理学」理想社
「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
 ツォンカパ著・ツルティムケサン翻訳・藤仲孝司翻訳 UNIO
『「空」の構造 -「中論」の論理』立川武蔵著・第三文明社

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2010年09月04日(Sat)▲ページの先頭へ
「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」ツォンカパ論師
以前に、仏教最大の真理要諦である「深遠なる縁起の理法」を賛嘆なされたツォンカパ論師の「縁起賛」につきまして載せさせて頂きました。この度は、修行の要訣である「出離」・「菩提心」・「正見」についてツォンカパ論師が端的にご説明なされている「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」をご紹介させて頂きます。仏教を学ぶ者にとっては欠かせない大切な修行実践へといざなわせる重要な内容でございます。解説は出典の「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説」に詳しくなされております。是非、ご参照下さいませ。

「ラムツォ ナムスム(道の三要訣)」

至尊の諸上師に頂礼し奉る。

勝者(仏陀)のあらゆるお言葉の心髄の義、
正しき仏子(菩薩)らが賛嘆する道、
解脱(迷いと苦しみから完全に解放されること)を欲する有縁の者たちが
船出する波止場に喩うべき
それ(「道の三要訣」)を、私ができるだけ説き明かそう。

輪廻(迷いと苦しみの世界)の幸福に執着せず、
有暇具足(仏道修行に適した境遇)を無駄にせぬよう
精進(努力)することによって、
勝者のお喜びになる道を信奉する
有縁の者たちは、清らかな心をもって聴聞せよ。

清浄なる出離がなければ、
輪廻の苦海に幸福の果実を追い続け、
それを鎮める方便(手段)はない。
輪廻に愛着する煩悩で、
有情(あらゆる生き物)らは悉く束縛されているため、
最初に出離を追求すべきだ。

有暇具足は得難く、
しかも一生は瞬く間に過ぎ去ると
心で習熟することにより、
今生の些事への執着はなくなるだろう。

因果が偽らずに応報する輪廻のさまざまな苦しみを
再三にわたって思うならば、
後生(来世)の些事への執着もなくなるだろう。

そのように習熟することで、
輪廻の栄華を願う心など一刹那たりとも起こらず、
昼夜を通じていつも解脱を追求する智慧の生じたそのときこそ、
出離が起きたのである。

その出離も、
清浄な発心(菩提心)で支えなければ、
無上菩提(仏陀の覚り)の円満な楽を得る因とならぬゆえ、
智慧者らは優れた菩提心を発するのだ。

恐るべき四暴流(欲望や無知などの煩悩)に押し流されて、
避け難い業の堅固な束縛に身動きもならず、
我執という鉄の網に囲まれて、
無明(無知)の闇の果てしなき暗黒に覆い尽くされている・・

無辺の輪廻に生まれかわりを繰り返し、
三苦(普通の苦しみ、変化する苦しみ、普遍的苦しみ)に絶え間なく苛まれ、
今なおこのようになっている母〔なる一切衆生(生きとし生けるものすべて)〕の
ありさまを思いやり、
それから最勝心(菩提心)を発し給え。

真理を了解する般若(智慧)を具えなければ、
出離や菩提心に習熟したとて
輪廻の根を断ち切ることはできないので、
そのために縁起(あらゆる存在が他に依存して成立すること)を了解する方便を
尽くすよう努めるべきだ。

輪廻と涅槃(迷いと苦しみから解放された世界)の
諸法(さまざまな存在)一切の因果は常に偽らぬと観じつつ、
縁ずる依処(実体として認識される対象)は何であれすべて滅したとき、
それこそ仏陀がお喜びになる道へ入ったのである。

顕現(現われたこと)の因果に偽りがないことと、
空(あらわる実在に実体がないこと)を認めるという、
これら二つの離れた理解が個別に現われている間は、
未だ牟尼(釈尊)の密意(真意)を了解していない。

いつか交互にではなく同時に、
縁起に偽りのないことを観じるのみで
信念をもって境の執し方(対象を実体として把握する習慣)をすべて滅するなら、
そのときこそ見解の伺察(分析)は究竟するのである。

さらに、顕現(に実体がないこと)をもって
有の辺(存在に実体性を認めるという極端論)を排し、
空〔であるものが幻のごとく現われること〕をもって
無の辺(存在が全くの無だという極端論)を排し、
このように空性が因や果として現われる道理を知るならば、
辺執見(極端論に執着する見解)に捕われなくなるだろう。

そのように
「道の三要訣」の諸要点を自ら如実に了解したときは、
寂静処へ身を寄せて精進の力を発揮し、
究極のめざす境地を速やかに成就せよ。

我が子(弟子)へ・・

この教誡は、多聞の比丘ロサン・タクペー・ペル(ツォンカパ大師)が、ツァコ・プンポ・ガワン・タクパに授けたものである。

(和訳 齋藤保高氏 参照「チベット仏教 文殊菩薩の秘訣 ゲシュー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ解説」p5-10)

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仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく論著集

「講座 大乗仏教7 中観思想」春秋社
「講座 大乗仏教9 認識論と論理学」春秋社
「講座 仏教思想1 存在論・時間論」理想社
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「大乗仏典14 龍樹論集」 中央公論新社
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「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
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 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
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 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
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「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版
「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」
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施本シリーズ

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施本「佛の道」
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これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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2010年08月02日(Mon)▲ページの先頭へ
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想3
教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想3

「あらゆるモノ・コトは、有るというわけではない。かといって、無いというわけでもない。」・・この「中道」という絶妙のバランスをいかにして理解し、保てるかどうかが、非常に難解なるところとなります。

普通の世間一般・世俗世界で暮らしていく中においては、この「中道」を理解するのは、全く容易なことではありません。とにかく私たちはモノ・コトを実体視し、常にモノ・コトにおける「有る」と「無い」についてとらわれてしまっているからであります。

私たちは、生来、いや、遙か遠い昔の過去世より、モノ・コトにおいては、「実体がある、自性がある、自相がある」としてのバイアスがかなりきつくかかってしまっています。

このバイアスのきつい度合いが、執着の度合いであり、また、煩悩の度合いとも言えるものであります。

この迷い苦しみを輪廻する原因であるバイアスを解き放つためには、やはり「深遠なる縁起の理法」の理解が誠に重要となります。

それは簡単に述べますと、あらゆる一切のモノ・コトにおいては、「実体がない、自性がない、自相がない」ということの理解となりますが、常日頃に私たちがとらわれて執着して頼りにし、求めているものにおいて、それらは何らとしてとらえて執着することもできず、頼りにもならず、求められないと、少しでも知ってしまった時、まず人は、相当の不安と恐怖、悲観、虚無感に覆われてしまい、絶望に近い感情を抱いてしまうことでしょう。これは人間ならば誰しもが思うことではないかと思います。

問題は、そこで嫌悪感、不快感を持ち、それ以上先に理解が進まなくなってしまうことであります。あまりに強いバイアスがかかってしまっているとなおさらに難しくなってしまいます。

あらゆる一切のモノ・コトにおいては、「実体がない、自性がない、自相がない」ということは、決して悲観・虚無・絶望的なものではなく、むしろ逆に、そのことによってこそ、私たちの世俗世界の一切全てが成り立っているものであるとして「深遠なる縁起の理法」を理解していくことが大切なこととなります。

もちろん、この難しさについて、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)におきまして、齋藤氏は、「世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいこと」と述べておられるわけであります。

『中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。』

「私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。」・・誠に非常に重要なるところでございます。

・・

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想2

さて、「蟻の瓶と象の瓶」の論説の中で、三種の縁起についての説明がございます。

簡単に氏の論説を参照させて頂きますと、

第一層の縁起が、「原因と結果の依存関係」という縁起として、
第二層の縁起が、「部分と全体の依存関係」という縁起として、
第三層の縁起が、「分別によって仮説する」という縁起として、

扱われて説明なされておられます。

この三種の縁起を私の拙い未熟ながらの施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」と僭越ながらも照らし合わさせて頂きますと、

第一層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「時間的先後の因果関係」の縁起として、

第二層の縁起については、「第三章 時間的縁起・空間的縁起について」における「空間的成立の因果関係」の縁起として、

そして、第三層の縁起については、「第四章 論理的縁起について」における「論理的、相互依存・相互限定・相互相関・相資相依の関係」の縁起として、

もちろん、厳密には、もう少し補足補完が今は必要であるかと反省しておりますが、一応説明させて頂くことができるのではないかと存じております。

三種の縁起の理解は、誠に仏教を学ぶ者にとっては、重大事であり、しっかりと進めていかなければならないと考えております。

何とか補足補完が必要なところをしっかりとまとめて、早期に施本第六弾目に取り組んで参りたいと思っております。

・・

教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」(齋藤保高氏)・感想1

齋藤保高氏の教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご紹介させて頂きましたが、誠に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点を扱っておられまして、改めまして氏の見識の高さにご敬服申し上げる次第でございます。非常に解りやすくしかも簡潔にご解説して下さっておりまして、本当に参考となります。

龍樹論師以降の中観思想学派の展開において、最も懸念されることとなった大きな課題の一つが、「虚無論」への落ち入りをどのようにして防ぐかということであります。「世俗の次元でも自相を否定する」ということの理解と合わせて「深遠なる縁起の理法」を理解するということは、誠に難解至極なる絶妙なバランス(中道)の上においてこそ成り立つというものとなります。この点において教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」の内容は、重要な視座をお示しになられており、是非共にご参考頂ければと存じております。

また、更に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の重要な相違点の理解を補完していく上で考察していかなければならないのが、仏教認識論理学でありまして、特に仏教認識論理学最高峰であるダルマキールティ論師の思想になるかと考えております。とにかく一つ一つでございます。

・・

さて、少し仏教・中観思想の考究はペースダウンしてしまってはおりますが、以前に中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点について解説されている齋藤保高氏のコラム・教理の考察「誰も知らない火事」をご紹介させて頂きました。引き続きまして、齋藤氏が、教理の考察「蟻の瓶と象の瓶」をご発表なされましたので、ご紹介させて頂きます。非常に中観帰謬論証派の見解を学ぶ上で重要な内容が扱われておりますので、是非、皆様もご参照下さいましたらと存じております。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
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「蟻の瓶と象の瓶」齋藤保高氏
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 「誰も知らない火事」のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分(※「認識対象自身の側で成立している」の部分のこと)が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

・・参照ここまで。

ツォンカパ論師「縁起賛」について
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51729905.html

「苦楽中道説について」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51739221.html

「苦楽中道説について」補足
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51746333.html

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

・・

集中的に再読していく仏教論著集

「悟りへの階梯―チベット仏教の原典『菩提道次第論』」を読み進め中。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本シリーズ

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

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