川口英俊のブログ - 2008/12/10

川口英俊のブログ




2008年12月10日(Wed)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」二、仏教・基本法理の理解
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm



一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第二章 仏教・基本法理の理解

 まず仏教の基本法理につきまして整理して参ります。四法印と呼称されます「諸(しょ)行(ぎょう)無(む)常(じょう)」・「諸(しょ)法(ほう)無(む)我(が)」・「一切(いっさい)皆(かい)苦(く)」・「涅(ね)槃(はん)寂(じゃく)静(じょう)」でございます。

 仏教の基本法理につきましては、これまでも各施本においても扱わせて頂きましたが、現時点における私なりの解釈について、更に本論においても最初に記しておきたいと思います。

 まず、「諸行無常」であります。原始仏典の一つである「ウダーナヴァルガ」においては、『「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。

 ここで「諸行」とは、「一切の形成されたもの」と訳されています。「諸」は「一切」と理解できますが、「行」については、少しわかりにくさがあります。

 参考ながら、これまでの施本において「行」については、五蘊の説明における「行」の意味としての「意思・行為」、そして、十二縁起の説明における「行」として、「無(む)明(みょう)・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって積み上げてしまう行為」と述べさせて頂いています。

 今回はこれまでの「行」の説明とも併せて少し考えてみます。

 原始仏典では、「行」について「つくられたもの」という表現がよく出てきます。これは「形づくられたもの」と解せますが、五蘊の「行」、十二縁起の「行」と併せて考えますと、「無明・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって、様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」、「主客の二分から始まる虚(こ)妄(もう)分別(ふんべつ)によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」と言えるのではないだろうかと考えます。

 また、空論的に述べてみますと、「認識・判断において、存在・事物を実体的に形作って捉えてしまった上での意思・行為」と言えると思います。

 次に「無常」、「常で無い」ということですが、これは、止まらない、移ろい変わりゆく、ということであります。ここで気をつけておかなければならないのは、「無常(非常)」とは、「常」という対立概念があって成り立って言えているということであります。

 いわゆる縁起関係の「常によって無常があり、無常によって常がある。」ということにおいて、「常」も「無常」も言えるだけのことであります。それはつまり、私たちが「常」と、とらわれて執着してしまっていることの前提があって、「常」を否定できる「無常」が言えるだけのことに過ぎないということです。

 私たちが「常」としてしまっている前提のもの、それが、「諸行」であり、「無明・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」、「主客の二分から始まる虚妄分別によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」という前提を課している点については、実に重要であると考えます。

 つまり、本当は縁起・空・仮(け)名(みょう)・仮有(けう)・中道として実体のないものについて、様々に形あるものとして認識・判断して、形を作り出し、そこにとらわれてしまっている意思・行為のために、本当は、「常」も「無常」もどちらでもないにも拘わらず、そのことが分からずに、「常」にとらわれて執着してしまうことを避けるために、「常」としてしまう「諸行」を前提として、その「諸行」は「無常」であるとして「常」を否定しているだけなのであります。

 それは、「諸行」の前提から離れることができれば、「常」にも「無常」にも、とらわれてしまうことがなくなるということでもあります。

 このことを理解しておかないと、空論的「無分別」から考えますと「諸行無常」を理解することができなくなってしまう恐れがあると危惧します。つまり、簡単に言うと、実体のない空から考えると、「非有非無」・「不生不滅」ですが、「つくられたもの」は、「有るということ」と「無いということ」のいずれかにとらわれてしまっている、「生じるということ」と「滅するということ」のいずれかにとらわれてしまっている、ということであります。
 「無常」を「生滅変化している」として説明する場合、「一切のつくられたもの」においては、「生と滅の分別にとらわれてしまっている」ということでの扱いとなりますので、気をつけておかなければならないと考えます。

 更には、「一切のつくられたもの」が、つくられなくなった時、つまり「無分別」の時、「常」も「無常」のいずれにも、とらわれないという空・中道を理解しておければ良いということであります。

 次に、「諸法無我」であります。「ウダーナヴァルガ」においては、『「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。

 「諸法」の「法」については、「ウダーナヴァルガ」では「事物」と訳されていますが、「認識・判断して形成された存在・事物」のことであると解します。仏法の「法」の場合は、「真理」を意味するものであり、「諸法」の「法」とはニュアンスが異なります。

 また、「法」を五蘊(色・受・想・行・識)とすることもあります。この場合、後にも触れますが、般若心経にあります「五蘊皆空」は、「諸法無我」とほぼ同意の内容になると解することができます。

 次に「無我」ですが、「我が無い」とは、「実体が無い」ということであり、よく誤解されます「何も無い」ということではありませんので注意が必要となります。

 もちろん、「非我」も同意であり、「我が非ず」となりますが、私たちは、「認識・判断して形成された存在・事物」に色々と言葉・言語・言説(ごんせつ) を用いて、名前を付けて共通認識として、その存在・事物に「実体としての我」を与えて、様々な存在・事物を理解しようとしますが、その存在・事物についての名前は、あくまでも「仮」に設けただけのものであり、その存在・事物の実体が何かあるというわけではありませんし、何も無いというわけでもありません。

 つまり、「仮名」・「仮有」と言うことであります。

 ですから、どんなに存在・事物に名前を与えても、永遠、永久に「それがそれである」と言えるものは、どこを探しても見あたらないのであります。

 また、当然に名前は「仮」であるため、例えどんな名前を付けたとしても別に構わないのであります。それは、これしかダメであるというような実体としての何かがあるわけではないからでもあります。AでもBでも、1でも2でも別に何でも本当は良いのであります。仮に便宜上、認識・判断するために一応、名前を設けているだけなのであります。

 さて、「無我」についても、「無常」と同様に気をつけておかなければならないのは、「無我(非我)」とは、「我」という対立概念があって成り立って言えていることになります。いわゆるこれも縁起関係の「我によって無我があり、無我によって我がある。」ということにおいて、「我」も「無我」も言えるだけに過ぎないということです。

 それはつまり、私たちが「我」であると、とらわれて執着してしまっているという前提があって、「我」を否定できる「無我」が言えるわけであります。

 私たちが「我」として、とらわれてしまっているもの、それが、「諸法」であり、「認識・判断して形成された存在・事物」という前提を課している点が、実に重要であると考えます。

 つまり、本当は縁起・空・仮名・仮有・中道として実体のないものにも拘わらず、様々に「認識・判断して形成された存在・事物」を実体として、とらわれてしまっているために、本当は、我でも無我でもどちらでもないということが分からず、「我」(実体)に執着してしまうことを離すために、「我」としてしまうという「諸法」を前提として、その「我」は「無我」であると否定しているだけなのであります。

 このように「諸行無常」と「諸法無我」という教説については、施本「仏教・空の理解」でも述べさせて頂きましたように、「世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦」からの理解も重要であり、あくまでも世俗諦として、「常」・「我」にとらわれて執着してしまっている者たちに対して、お釈迦様が「無常」・「無我」と説かれた教えなのであります。

 このことは、中論・「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』、中論・「観法品」(第十八・第八偈)『一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。』とありますが、つまり、お釈迦様は、「常」・「我」にとらわれて執着している者には、「無常」・「無我」を説き、「無常」・「無我」にとらわれて執着している者には、「常」・「我」を説き、「常・無常」・「我・無我」のどちらにも、とらわれて執着している者には、「無常・無無常」・「無我・無無我」を説いたということであります。

 さて、次に「一切皆苦」についてでありますが、「ウダーナヴァルガ」においては、『「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。この場合の「一切の形成されたもの」については、諸行無常の「諸行」と同意であり、「無明・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって、様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」、「主客の二分から始まる虚妄分別によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」というものであり、それは「苦しみ」であるということであります。

 ですから、諸行は無常であり、また、諸法は無我であると明らかな智慧をもって観ることによって、真理を知り、虚妄分別を無くし、とらわれるもの、執着するものが無くなれば、苦しみから遠ざかり離れることができるようになるということであります。

 施本「仏教・空の理解」においても、「思考・思慮・思惟(しい)して、この世におけることを分別して相対判断・認識している以上は、必ず相対矛盾が生じてしまい、迷い苦しむことになります。」と述べましたように、「無分別」の理解が迷い苦しみを無くす上でも重要なことになるのであります。「無分別」の理解については、後の章において扱うことと致します。

 最後に、「涅槃寂静」についてでありますが、「常・無常・非常非無常・非非常非非無常」・「我・無我・非我非無我・非非我非非無我」、つまりは、「有・無・非有無・非非有非無」という四句分別を超えて、もはや戯論が滅されて、言葉では語りえない、つまり「言語道断」となって、存在・事物を虚妄分別して形成してしまうことで認識・判断したことによる意思・行為も無くなって、無明の闇、愚かさ、煩悩を滅して、一切へのとらわれ執着も無くなり、迷い苦しみから完全に離れたという状態のことであります。

 このことを、中論では、「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』と示されています。

 また涅槃について端的に示した偈として「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」がありますが、これはウダーナヴァルガにおける、「諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。」であります。

 この偈について、私の再解釈としましては、「一切の形成されたものは無常であり、生じては滅するという性質であるが、それは存在・事物を虚妄分別して形成してしまって、その形成してしまったものを認識・判断しての意思・行為の中、存在・事物を何か実体が有るものとして、または何かその実体が無くなるものとして、「有・無」や「生・滅」などの分別にとらわれてしまい、いずれかに執着して、悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想(虚妄分別)を静めて、縁起・空を理解し、非有非無、不生不滅など無分別なることを知って、ついには言語道断・戯論寂滅となり、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」として、解釈を整理させて頂きます。

 以上、仏教の四法印につきまして改めて述べさせて頂きました。

 また、「世俗諦と勝義諦の二諦」から考えますと、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」は世俗諦の扱いの教説として、「涅槃寂静」は勝義諦に近い扱いの教説として示されていると解することができるのではないだろうかと思います。

・・第二章ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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施本「仏教・空の理解」
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施本「佛の道」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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カレンダ
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