川口英俊のブログ - 2008/12

川口英俊のブログ




2008年12月30日(Tue)▲ページの先頭へ
「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院を読み進め中。
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院を読み進め中。

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

○「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」黒崎宏著・春秋社
→「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
▽「般若思想史」ワイド版版
 山口益著・法蔵館
△「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月29日(Mon)▲ページの先頭へ
「般若思想史」ワイド版版・山口益著・法蔵館を追加
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」を読み終えました。


「般若思想史」ワイド版版・山口益著・法蔵館を追加致しました。

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」黒崎宏著・春秋社
▽「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
▽「般若思想史」ワイド版版
 山口益著・法蔵館
△「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月28日(Sun)▲ページの先頭へ
「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」を読み進め中
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」を読み進め中。半分を読み終えました。

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」黒崎宏著・春秋社
▽「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
△「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月27日(Sat)▲ページの先頭へ
追加「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

下記を新たに追加しました。

「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」黒崎宏著・春秋社
▽「空の思想―仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著・人文書院
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
△「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月26日(Fri)▲ページの先頭へ
追加「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

下記を新たに追加しました。

「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」黒崎宏著・春秋社

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」黒崎宏著・春秋社
△「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
▽「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月25日(Thu)▲ページの先頭へ
追加「仏教思想・7・空・下」仏教思想研究会編・平樂寺書店
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

下記を新たに追加しました。

「仏教思想・7・空・下」仏教思想研究会編・平樂寺書店

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
▽「仏教思想・7・空・下」
 仏教思想研究会編・平樂寺書店
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月24日(Wed)▲ページの先頭へ
追加「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」春秋社
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

下記を新たに追加しました。

「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」春秋社

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
▽「講座・大乗仏教 大乗仏教とその周辺」
 春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月23日(Tue)▲ページの先頭へ
これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

読書の進捗状況
(→・進行中 ○・読み終え ○の数・一通り読んだ回数 △・中途停止 ▽・読み進める前 □・随時参照)

→「講座・大乗仏教 認識論と論理学」
 春秋社
△「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
△△「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「仏性思想の展開」
 奥野光賢著・大蔵出版
▽「講座・大乗仏教 如来蔵思想」
 春秋社
▽「中論」改訂版
 ナーガールジュナ(竜樹尊者)著・西嶋(愚道)和夫訳・金沢文庫
▽「中観と空1・梶山雄一著作集4」
 梶山雄一著・御牧克己編・春秋社
▽「空と中観」
 江島惠教著・春秋社
▽「大乗仏典」
 長尾雅人責任編集・中央公論社
▽「無心ということ」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅とは何か」
 鈴木大拙著・角川ソフィア文庫
▽「禅」
 鈴木大拙著・ちくま文庫
▽「禅と唯識―悟りの構造」
 竹村牧男著・大法輪閣
▽「唯識思想論考」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
▽「唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む」
   横山紘一著・春秋社
▽「大智度論講述」
 宇野順治著・永田文昌堂
▽「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」
 山口益著・大法輪閣
▽「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」
 竹村牧男著・春秋社
□大乗仏典・中公文庫 1
 般若部経典・金剛般経
□大乗仏典・中公文庫 2
 八千頌般若経T
□大乗仏典・中公文庫 3
 八千頌般若経U
□大乗仏典・中公文庫 7
 維摩経・首楞厳経
□大乗仏典・中公文庫 8
 十地経
□大乗仏典・中公文庫 12
 如来蔵系経典
□大乗仏典・中公文庫 14
 龍樹論集
□大乗仏典・中公文庫 15
 世親論集

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾


2008年12月22日(Mon)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
ホームページでの全公開が昨日に終わりました。是非お読み頂きまして、ご叱正、ご批正を賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。



一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に
参考・参照文献一覧

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm

施本「佛の道」
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施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
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2008年12月21日(Sun)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第十章 最後に・参考・参照文献一覧
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm



一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に
参考・参照文献一覧

第十章 最後に

 今回の施本執筆に係る参考文献につきましては、紙面の都合上、本論を全文公開しておりますホームページの方へと記載させて頂いておりますので、是非、ご参照頂けましたらと存じます。

 この場をお借りしまして、本論の執筆に際し、参考、参照させて頂きました碩学の先生たちの多大なる功績を讃えさせて頂きますと共に、厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 この度は、誠に未熟で浅学非才の身でありながら、僭越にも、仏法につきまして私なりの解釈・理解を更にまとめさせて頂きました。

 もちろん、まだまだ至らない点も多々あるものと思われますので、その点、ご容赦の程賜りますればと存じます。少しなりとも皆様方にとって、仏法のご理解、学びを進められるお役に立つことができたと致しましたら、誠に幸いでございます。

 また、今後、この施本の内容・文章に関しまして、誤字脱字の訂正、追記補充、修正・変更、削除などが少なからず出てくるものと考えております。更には、これからの自身における仏教の学びの進み具合におきまして、解釈上の修正・変更も考えられます。

 これらのことを考慮しまして、発行後、ホームページ上にて、全ての文章を公開させて頂きました上で、随時、修正・変更などをお示しさせて頂きますので、前三作と共に、今後、機会がございましたら、ご確認を頂きますように宜しくお願い申し上げます。

 往生院六萬寺ホームページ内(URL www.oujyouin.com/)か、もしくは施本の題名と私の名前で検索して頂ければ、そのページをご覧になれるものと存じます。

 この本の初版は、施本としまして往生院六萬寺の施本基金と著者の財施とにより発行させて頂きました。ご入用の方は、往生院六萬寺までご連絡下さい。数に余裕がありましたら、ご送付させて頂きます。

 また、増刷、次回刊行へ向けまして、施本にご賛同ご協力頂けます方のご支援を「施本布施」として、郵便局内にある「払込取扱票」をご利用下さいまして、ご送金賜りますれば、誠に幸いでございます。
 
往生院六萬寺
郵便振替番号 00910-3-330569
※必ず「施本布施」と通信欄にお書き下さい。

 最後になりましたが、この施本の刊行に際しまして、ご協力を賜りました方々に、心から感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
 
 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

 平成二十年十二月八日

 川口 英俊 合掌

参考・参照文献一覧

「大乗起信論」 宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫 1994年

「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」 井筒俊彦著・中公文庫BIBLIO 2001年

「現代語訳 大乗起信論―仏教の普遍性を説く」 池田魯参著・大蔵出版 1998年

「講座・大乗仏教 般若思想」新装版版 春秋社 1995年

「般若経-空の世界」 梶山雄一著・中公文庫 2002年

「理性の限界内の『般若心経』―ウィトゲンシュタインの視点から」 黒崎宏著・哲学書房 2007年

「チベットの般若心経」 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著 斎藤保高著、クンチョック シタル著,
           Geshe Sonam Gyaltsen Gonta (原著),  Kunchok Sithar (原著) 春秋社 2002年

「龍樹」 中村元著・講談社学術文庫 2002年

「龍樹(ナーガールジュナ)―空の論理と菩薩の道」 瓜生津隆真著・大法輪閣 2004年

「空の世界―龍樹から親鸞へ」 山口益著・大法輪閣 2006年

「龍樹・親鸞ノート」増補新版版 三枝充悳著・法蔵館 1997年 

「ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』」 黒崎宏著・哲学書房 2004年

「ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道」 石飛道子著・サンガ 2007年

「大乗仏教の根本思想」 小川一乗著・法蔵館 1995年

「チベット仏教哲学」 松本史朗著・大蔵出版 1997年

「無常法―仏教思想研究」 矢島羊吉著・以文社 1975年 

「チャンドラキールティの中観思想」 岸根敏幸著・大東出版社 2001年

「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」 四津谷孝道著・大蔵出版 2006年

「講座・大乗仏教 中観思想」新装版版 春秋社 1995年

「空入門」新装版版 梶山雄一著・春秋社 2003年

「『空』の構造―『中論』の論理」 立川武蔵著・第三文明社 1986年 

「空の哲学」 矢島羊吉著・日本放送出版協会 1983年 

「空の思想史―原始仏教から日本近代へ」 立川武蔵著・講談社学術文庫 2003年

「空と無我―仏教の言語観」 定方晟著・講談社現代新書 1990年

「空の論理『中観』―仏教の思想〈3〉」 梶山雄一著・上山春平著・角川文庫ソフィア 1997年

「空の論理-ニヒリズムを超えて」 矢島羊吉著・法蔵館 1989年

「仏教思想・6・空・上」 仏教思想研究会編・平楽寺書店 1986年

「中観と唯識」 長尾雅人著・岩波書店 1978年

「講座・大乗仏教 唯識思想」新装版版 春秋社 1995年

「認識と超越『唯識』―仏教の思想〈4〉 」 服部正明著・上山春平著・角川文庫ソフィア 1997年

「唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門」 岡野守也著・NHKライブラリー 1998年

「唯識思想入門」 横山紘一著・レグルス文庫 1976年

「はじめての唯識」 多川俊映著・春秋社 2001年

「やさしい唯識―心の秘密を解く」 横山紘一著・日本放送出版協会 2002年

「世親」 三枝充悳著・講談社 2004年

「唯識の構造」新装版版 竹村牧男著・春秋社 2001年

「仏教思想へのいざない―釈尊からアビダルマ・般若・唯識まで」 横山紘一著・大法輪閣 2008年

「大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ」 山口益著・大法輪閣 2007年

「唯識の探求 『唯識三十頌を読む』」 竹村牧男著・春秋社 1992年

「ブッダ論理学・五つの難問」 石飛道子著・講談社 2005年

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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2008年12月20日(Sat)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第九章 仏教的生き方
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に
参考・参照文献一覧

第九章 仏教的生き方

 さて、前章においては、縁起と空の理解を進め、慈悲の実践へ向けて無分別・不二・平等のありようについても、その理解を及ぼしていかなければならないと述べさせて頂きました。

 次に、更には縁起・空をも超えて、最終的には無分別・戯論寂滅へと至り、最高の智慧を完成させ、諸法実相・真如の観方を調えていくということになります。そして、自利利他・慈悲の実践が、まさに大乗仏教における要諦となります。

 その自利利他・慈悲の実践の積極的な進め方を調えた上で、次に方便を用いて、あらゆる衆生に対してあまねく及ぼしていけるかどうかが重要なこととなります。

 自利利他・慈悲の実践をあまねく及ぼしていくというのは、つまり、まずは己のありようをしっかりと調えた上で、次に一番身近な者たち、家族、親族から、友人、同僚、知り合いへと、更には、地域の人々、国の人々、世界の人々から、動物たち、植物たち、昆虫たち、微生物たち、地球のあらゆるものたちから、宇宙のあまねくものたち、更に、三世(過去・現在・未来)におけるあらゆるものたちへも及ぼしていかなければならないということであります。

 もちろん、愛する者、好きな者、頼りにしている者、自分に好意を持つ者、自分を頼りにしている者、のみならずに、嫌いな者、自分を嫌っている者、憎い者、自分に憎しみを持っている者、自分に敵意を持っている者、危害をもたらしてくる者、自分に対して誤解を持っている者、のみならず何ら関係がないと思われる者たちに対しても縁起を理解し、無分別・不二・平等なる自利利他・慈悲の実践を、あまねくあらゆる三世の一切のものたちへと及ぼしていくのであります。

 この実践の過程は、他の誰から言われるまでもなく、自分自身が何よりもまずは理解しているはずであります。
 
 「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。」(ダンマパダ・一六○)

 「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」(ダンマパダ・一五八)

 「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ-。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。」
(ダンマパダ・一五九)
  
 「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。」(ダンマパダ・一六五)

  七仏通誡(しちぶつつうかい)偈(げ)

「諸悪莫(しょあくまく)作(さ)
 衆(しゅう)善(ぜん)奉(ぶ)行(ぎょう)
 自(じ)浄(じょう)其(ご)意(い)
 是(ぜ)諸(しょ)仏(ぶっ)教(きょう)」

 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、-これが諸の仏の教えである。」(「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳 岩波文庫

 自らには誰も嘘はつけません。どれだけ自分は菩薩の道を進めたのか、慈悲・利他の及ぼしがどのあたりまでできているのか、悪をなさずして、どれほどの善を行えているのかは、それぞれ自身においてでしか、本当に真なるところは分かりえないことであります。

 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」(大般涅槃経 ブッダ最後の旅・中村元訳・岩波文庫)

 お釈迦様が弟子のアーナンダへ説いた遺言の大切な一つであります。いわゆる「自燈明・法燈明」・「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えであります。

 もちろん、「自ら・自己・自分」という何か実体があるわけではなく(非有)、何も無いというわけでもなく(非無)、また、有る無いのどちらでもない(非有非無)、大いなる縁起の中において仮に存在できている自分であるということについては、十分に気をつけておかなければなりません。

 自らを常に省みて、法(仏法の真理)をよりどころとし、修行を完成させ、涅槃の境地、最高の智慧の境地へと至り、世俗諦から勝義諦へ、勝義諦から世俗諦へと自由自在に行き来できるようになって、自利利他・慈悲の実践に精進努力していかなければならないということであります。

 さて、今回の施本の内容において最も重要となるお釈迦様の言葉を最後に今一度、書き記させて頂きまして、本論の執筆を終えたいと存じます。


「縁起を見る者は、法(真理)を見る。法(真理)を見る者は、縁起を見る。」


 この浅学非才、未熟者の本論を最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。

・・第九章ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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施本「仏教・空の理解」
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2008年12月19日(Fri)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第八章 縁起・空の理解からの実践・下
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第八章 縁起・空の理解からの実践・下

 さて、これまで考察して参りましたように、表象・認識・概念における分別の全ては、いわゆる主体と客体の分裂に起因することでもあり、特に、人無我(人空)と法無我(法空)をしっかりと理解し、無分別なるありようを観れるように調えていかなければならないということであります。そのためには、煩悩障と所知障の二障を離れることが必要となります。

煩悩(ぼんのう)障(しょう)……「我執」によって生じる煩悩による障りのことであります。「我執」とは、「これが自分である、自分が有るのだ、自分がいるのだ」と強く執着してしまって、そのことで生じてくる煩悩が解脱・涅槃へと至る障りとなってしまっているということであります。

所(しょ)知(ち)障(しょう)……「法執」によって生じる煩悩による障りのことであります。「法執」とは、「知るところのもの・こと」を有る、実在するとして、強く執着してしまって、そのことで生じてくる煩悩が解脱・涅槃へと至る障りとなっているということであります。

 この二障を断じて、「我執」と「法執」を離れ、「人空」と「法空」を真に理解して、煩悩を離れていくことが大切になるのであります。

 もしも、私という何か実体があるならば、食べ物や飲み物が無くても、他の人間や動物や植物が無くても、空気が無くても、自然が無くても、地球が無くても、太陽系が無くても、宇宙が無くても存在できるはずであります。

 ところが、独り宇宙空間に放り出されてしまったとすれば、あっという間に生命体として、その存在は維持できなくなってしまいます。

 もちろん、私というものは、縁起関係において仮に存在できているという仮有なるものだとしても、それは、あらゆる大いなる縁起関係の中において「生かされて生きている」ものとして私たちは存在できているのであり、そのことをしっかりと理解して、その縁起関係の中、感謝と報恩を日々実践していかなければならないのであります。

 そこで、その大いなる縁起を理解し、無分別・不二・平等の中において、例えば自分のやられて嫌なことは、他の者も、いかなる生き物たち、ミミズもアリもゴキブリも当然に嫌なのだと知り、また、自分のしてもらって嬉しいことは、他の者も、いかなる生き物たち、ミミズもアリもゴキブリも嬉しいのだということを知って、自分が無碍にも踏み潰されて殺されてしまったら嫌なように、動物や昆虫、植物たちも同様に嫌であり、自分が苦しくてつらく、しんどい時に助けてもらって嬉しいことは、動物や昆虫、植物たちも同様に嬉しいということであります。

 このように、自分のやられて嫌なことは、他のいかなるものにも分け隔てなく平等にしないこと、自分のしてもらって嬉しいことは、他のいかなるものにも分け隔てなく平等にしてあげていくこと、これが自利利他、慈悲の実践としても重要な前提になるのではないかと考えます。

 更に慈悲の実践を考える上で大切なことにつきましては、前回施本においても取り上げさせて頂きました「ブッダのことば・スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」、第一・蛇の章・八・慈しみ(一四三偈〜一五二偈)から今一度、引用しておきたいと思います。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔(にゅう)和(わ)で、思い上ることのない者であらねばならぬ。』

『足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。』

『他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。』

『いかなる生物(いきもの)生(しょう)類(るい)であっても、怯(おび)えているものでも強(きょう)剛(ごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗(そ)大(だい)なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。』

『何ぴとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。』

『あたかも、母が己(おの)が独(ひと)り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。』

『また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。』

『立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。』

『諸々の邪(よこし)まな見解にとらわれず、戒(いましめ)を保ち、見るはたらきを具(そな)えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。』 

 思惟分別して、分別したことのどちらかにかたより、こだわり、とらわれて執着してしまい、特別としたり、何か価値を与えてしまってもいけないのであります。自分も、自分の子も、他の子も、好きな者も嫌いな者も、動物も植物も、ミミズもゴキブリもどんな微生物でも、皆、無分別の扱いにて同じであり、分けて考えてしまうことはできないのであります。分けてしまえば、相対・対立矛盾を抱えて迷いのループに陥ってしまうのであり、それは何としても避けなければならないのであります。

 このように無分別・不二・平等のありようについての実践を、縁起と空の理解をもって調えていくのが、仏教においては非常に大切なことになるのであります。

 これまで何度も紹介させて頂いております「日本テーラワーダ仏教協会」さんの慈悲の瞑想の言葉もここに記しておきたいと思います。

慈悲の冥想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶えられますように
私に悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願い事が叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

慈悲の冥想ここまで

 たとえ少しずつでも、毎日継続して、慈悲の実践が行えるように、しっかりと調えて参りましょう。

・・第八章・下ここまで。

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2008年12月18日(Thu)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第八章 縁起・空の理解からの実践・上
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第八章 縁起・空の理解からの実践・上

 次に、縁起・空の理解からの実践について、もう少し簡単に述べてみたいと存じます。

 縁起とは「AによってBがあり、BによってAがある。」と、AもBも、縁起関係によって、AだBだと言えているだけのことで、Aという実体、Bという実体があるわけではない、つまり、空性であり、そのことは、AもBも縁起関係において「仮」にあるものとして示されているに過ぎない、「仮」というのは、つまり、AもBも本来的にはどちらにも実体が無く、有るわけではないし、また何も無いわけではないということで、AにもBにもかたよらない、とらわれないという、すなわち「中道」を理解しなければならない、ということであります。

 更に、縁起関係においては、もしも、A、Bのいずれか一方にかたより、とらわれて、Aという実体、Bという実体を思惟分別してしまえば、必ず相対矛盾に陥って迷い苦しむことになってしまいます。

 そこで、輪廻の迷いとは何かということについても、ここで少し「幸せ」と「不幸せ」の関係から考えてみたいと思います。

 私たちはたいてい「幸せ」を求めて生きているつもりであります。

 もちろん、「幸せ」とは、「不幸せ」との縁起関係において、仮に言えるだけのことであり、「幸せによって不幸せがあり、不幸せによって幸せがある。」であります。

 もちろん、「幸せ」、「不幸せ」という実体が何かあるというわけではありません。本来的には、何が幸せで、何が不幸せかなどは誰にも決めようのない、分からないものでしかないのであります。

 しかし、私たちは、「幸せ」という実体があるものとして勘違いし、かたより、こだわり、とらわれて、執着してしまいがちであります。

 とにかく「幸せ」になりたいと、世間で多くの人が「幸せ」だとしてかたより、こだわり、とらわれて、執着しているものを私たちは求めてしまっていきます。それは例えば、財産、権力、地位、見栄、名誉など色々とあります。

 ただ、生きていくために必要な衣・食・住・薬を得るためのお金、財産などまでを、ここで否定するわけではありませんのであしからずご了承頂ければと思います。

 あくまでもここでは、財産、権力、地位、見栄、名誉などを求めて得ようとしていったからといっても「幸せ」をもたらすものだとしての執着はできないということを、「縁起」関係をもって示そうとしているのであります。もちろん、当然にそれらを求めて得られなかったからといっても「不幸せ」だとして執着もできないということであります。

 繰り返しとなりますが、世間的に「幸せ」をもたらすものとして勘違いしてしまいがちな、財産、権力、地位、見栄、名誉などを求めて得られたとしても、「幸せ」になったり、求めて得られなくて「不幸せ」になったりすることも、それは、ただ「縁起」の関係において言えているだけに過ぎないものであるということであります。
 もしも、「幸せ」という実体があるとして、その実体を得られたとするならば、本当は、それはもはや「幸せ」でも「不幸せ」でもどちらでもないのであります。

 なぜならば、「幸せ」は、「不幸せ」があるという縁起関係だけのことで言えるのであり、どちらか一方の世界だけとなってしまったならば、何が幸せで、何が不幸せかが、もはや分からなくなってしまうのであります。
 更に、「明と暗」の関係に置き換えて少し考えてみましょう。

 もしも、「幸せ」を求めて、「幸せ」になれると世間の多くの人が考えているようなものを多く求めて、得られていけたとして、その幸せの要因になると思っているものをどんどん増やしていくこととしましょう。どんどんと幸せが増えていき、世間の多くの人が考えているような「不幸せ」は減っていきます。

 いわゆる、「明」を求めて、「明」の場所を増やしていき、「暗」の場所を減らしていくのと同じことであります。

 では、もっとその「幸せ」を増やして全てを「幸せ」にできたとしましょう。つまり、全てが「明」になったということですが、その瞬間に、それは、もはや「明」でも「暗」でもなくなってしまうのと同様に、「幸せ」でも「不幸せ」でもなくなってしまうのであります。

 全てが「幸せ」になったと思った瞬間に、それは「幸せ」でも「不幸せ」でもなくなってしまい、路頭に迷ってしまうのであります。

 それは嫌だ、「幸せを求めていたはずなのにどうしてなのか」と怒り、不満となり、今度は、「幸せ」が何かを改めて分かっていくために、逆に世間の多くの人が「不幸せ」と考えていることを増やしていくことにしましょう。

 いわゆる「明」を知るために、今度は「暗」の部分を増やしていくということであります。この場合、「幸せ」が何かを知るために「不幸せ」を増やしていくということであります。普通に考えますと「不幸せ」を増やすなど、そんな馬鹿なことはありえないと思うかも知れませんが、注意深くよく世間を観察してみますと、意外にも世間の考える「幸せ」の絶頂から、世間の考える「不幸」のどん底に一気に転落していく者が後を絶たないのも現実であります。

 さて、話を戻しまして、今度は「不幸せ」を増やしていけばいくほどに「幸せ」が何かが、より鮮明に分かって知ることができます。「ああ、これが幸せか」と、更にもっと知りたいと「不幸せ」を増やし、「幸せ」を際立たせたいと進め、いよいよ「不幸せ」ばかりになってしまったとしましょう。

 するとその瞬間には、もう「不幸せ」でも「幸せ」でもなくなってしまい、またも何が「幸せ」で、何が「不幸せ」かが、分からなくなってしまうのであります。

 今度は、またそれは嫌だとして、始めと同じように「幸せ」を増やしていこうとします。

 もうここからは繰り返しになるため述べませんが、「迷いのループ」に陥っていくのであります。

 もちろん、「幸せ」も「不幸せ」もそのような実体が無いために、いくら頑張ってどちらかを追い求めようとしても、結局は最後に両者共に完全否定されてしまうことになるのであります。

 つまり、縁起関係における両者は、実体として分けて、とらわれてしまうと必ず相対矛盾・対立矛盾の中に陥ってしまうということで、このことを理解しない限り、永遠に迷いの中、矛盾関係に悩み苦しみ続けてしまうことになります。いわゆるこのことが簡単に言いますと「輪廻」ということではないかと考えます。

 輪廻を繰り返す原因の第一は、真理を知らないという「無明」のことであります。

 「幸せ」も「不幸せ」も、勝手な思惟分別によって私たちがとらわれているだけのものであり、実体があるとして妄想・虚妄してしまっているだけで、しっかりと、縁起、空を理解した者は、思惟分別・虚妄分別を離れ、無分別の智慧を働かせて、たとえ世間で多くの人が「幸せ」、「不幸せ」と考えているようなことについても、全くかたより、とらわれが生じないのであります。

 特に、世間が考えているような「幸せ」になろうが、「不幸せ」になろうが、別に何らどうってこともなく、そのいずれにもとらわれて執着することがないのであります。

 それは、もしも、どちらかにかたよって、とらわれて執着してしまえば、必ず迷いのループに陥ることを十分に知っているからでもあります。この迷いのループを離れることが、つまり「輪廻からの解脱」と言えるのではないかと考えます。

 また、何も「幸せ」・「不幸せ」のみならず、あらゆることについても縁起・空を理解すれば、分別して、とらわれることがなくなるということであります。

 さて、正も誤も、善も悪も、好きも嫌いも、愛も憎も、綺麗も汚いも、生も滅も、ただ縁起関係において仮に成り立っているだけで言える、それだけのことに過ぎず、それぞれに何か実体があるということではないのであります。

 のみならず、仏教においては目標とされる「悟り」でさえも、「悟りによって迷いがあり、迷いによって悟りがある。」として、「悟り」と「迷い」も、その実体が何かあるわけではなく、とらわれることはないのであります。つまり、「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」ということです。

 当然に「空」についても、「空によって不空があり、不空によって空がある。」として、「空」が説かれているだけに過ぎず、何か「空」という実体があるわけではありません。ですから「空」にとらわれてしまってもいけないのであります。

 また、更には「勝義諦」についても、「勝義諦によって世俗諦があり、世俗諦によって勝義諦がある。」ということも最終的に理解することが大切なこととなります。

 空・縁起を理解している者は、世間において多数の人々が虚妄分別して考えているような、いかなる事、例えば「憂い・恐怖・悲しみ・不幸せ・苦しみ・落ち込み・怒り・憎悪・嫌悪・敵意」事や「喜び・幸せ・快楽・享楽・愛着・好意」事などがあったとしても、もはや、心が何ら動揺することはなく、平常心において、そのあるがままをあるがままとしての受け入れだけが淡々と進んでいくということであります。

 また、分別してしまったことに、かたより、こだわって、とらわれて、執着することはできないので、何事においても、「縁起・空・非有非無、非○非×の中道」を理解しての「少欲知足」もこの世で過ごす上では重要になるということであります。

 もちろん、かたよって、こだわって、とらわれて、執着するなとは言っても、何も生きていくために最低限必要なものまでを否定するわけではありませんので、そのことは十分に注意が必要となります。

 例えば、財産・権力・地位・見栄・名誉などの扱いについて、勝義諦的には、本来無一物、有(う)所得(しょとく)寂滅ですが、世俗諦的には、一応は仮にあるものとして、その扱いについては、かたより、とらわれ、執着を離すための「少欲知足」が大切になるということであります。

 この場合の勝義諦的なことについて、中論では、「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』として示されています。また、この偈の後半部分では、般若心経における、お釈迦様が説かれた「四聖諦」についてもその実体が無いとして否定されたことと、同じことが実は述べられているのであります。

 勝義諦的なことと、世俗諦的なことの両方を理解していきながら、何事においても、いかなることがあっても、動じずに、かたよらず、とらわれずに、極端な享楽・快楽に溺れてしまったり、悲観・虚無に陥ったり、自暴自棄になったりせずに、心を平穏に調えていかなければならないのであります。

 「幸せ」と「不幸せ」の縁起関係の理解については、「人間(じんかん)万(ばん)事(じ)塞翁(さいおう)が馬」・「禍(か)福(ふく)は糾(あざな)える縄の如し」と表されている故事の意味ともほぼ同じことではないだろうかと思います。

 両者とも、「禍福のいずれかに、かたよってとらわれて執着してしまって苦しむことはやめなさいよ」、と教えるために説かれた故事でありますが、今回の縁起的観点から考えてみても改めて理解が及ぶものではないだろうかと思います。

・・第八章・上ここまで。

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2008年12月17日(Wed)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第七章 仏教の実践
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第七章 仏教の実践

 さて、前章までは般若思想・中観思想・唯識思想と、各思想の理論について、ある程度考察して参りました。

 次に、仏道の実践について考えて参りたいと思います。いわゆる大乗仏教における最高の智慧の完成(般若波羅蜜)へと至る実践についてであります。

 般若思想における般若波羅蜜の智慧とは、空・縁起を理解した上で、無分別・戯論寂滅、諸法実相・真如を観て、自利利他・慈悲の実践のための最高の智慧のことであり、それは菩薩(大乗仏教の修行者)の修行徳目でもあります。

 では、智慧の完成へと向け、どのように実践を進めていくべきであるのかは、仏教史上においても当然に最大の重要関心事であり、私たちはしっかりとその学びと実践を進めていかなければなりません。

 ここでは大乗仏教において、まとめられている実践につきまして項目別に少し取り上げて参りたいと思います。

慈悲心……仏法を学び始める時に最も重要となるのが、まず「慈悲心」であります。

 お釈迦様が悟りを開かれ、涅槃に至った喜びの中において、このまま更に深い禅定に入り、もはや再び輪廻を繰り返さない完全な解脱の境地へと向かおうとされた時、「梵(ぼん)天(てん)勧(かん)請(じょう)」により生じた「苦しみの中にいるあらゆる衆生を救済するために、この涅槃の境地をあまねくに説いていかなければならない」という意志のことであります。

 自らのみならず、あらゆる衆生も絶え間のない苦しみ(輪廻)の中にいることを知り、何としても智慧を開発し、自利のみならず、一切衆生の救済を目的とする「利他」をも目指して、仏道の精進を始めるために大切になるのが、この「慈悲心」であります。

世俗菩提心……慈悲の心を起こした者が、慈悲の実践へ向けて最高の智慧を得ようとする意志を持つことが「世俗菩提心」であります。

実践行……「方便」と「般若の智」があり、「方便」とは、主に智慧波羅蜜以外の五波羅蜜、布施・持戒・忍辱・精進・禅定(更に、方便・願・力を加えることもある)の各実践のことを示し、「般若の智」とは、智慧波羅蜜・智波羅蜜の実践のことで、特に聞・思・修の三慧のことであり、「聞」は仏法における師・先生からの講座や問答を通じて、その教えをよく聞き学ぶこと、「思」とは、教典・注釈書から仏法の論理を学び、よく思惟して理解すること、「修」とは、「聞」・「思」より、仏法の深遠なる真実義について実際に修習し、智慧を開発していくことであります。

 また、次に三慧と平行して行う瞑想修行として「止」と「観」があり、「止」は、心一境性、つまり、精神を集中させて、心を落ち着け、ある一定の対象に心を統一して止めること、三(ざん)昧(まい)に入ることであります。

 次に、「観」ですが、真理についての観察のことで、この際の真理とは、人無我(人空)・法無我(法空)を言います。簡単に述べますと、虚妄分別、主客二分を離れ、自ら(主体)にも実体が無いこと、様々に知られるもの(客体)にも、実体が無いことを妙観察するということであります。
 
 更に修行の階梯については、中観思想・唯識思想の発展と共に調えられていきました。ここでは、少しだけ簡単にまとめておければと思います。
 
 五道

資(し)糧(りょう)道(どう)……無始なる過去より、無明と煩悩によって業を積み重ねては、生死を繰り返す輪廻の中で、苦しみの流転を経てきた今世において、今まさに仏法に出会える縁を得て、苦しみの輪廻からの出離を強く願うに至り、また、あらゆる一切の衆生も自らと同様に輪廻の苦しみの中にあると、慈悲の心を起こして、一切の衆生の救済へと向かうために最高の智慧を得ようと「発(世俗)菩提心」して、三宝(仏・法・僧)へ深く帰依し、菩薩の修行(十波羅蜜)を行っていくための準備を進めていく段階であります。特には聞・思・修の三慧をしっかり進めなければなりません。
 
加(け)行(ぎょう)道(どう)……資糧道にて菩薩の修行を進めていく準備を終えた者は、いよいよその本格的な実践へと入り、聞・思・修の三慧に精進する中で、人無我(人空)・法無我(法空)の真理を見極めながら、十波羅蜜を更に進めていく段階であります。

見(けん)道(どう)……五道の中でも最も重要とされるのが、この見道であります。加行道・資糧道を経た者において、真理なる「空性」を言葉・言説・戯論を超えて、直感認識(現(げん)量(りょう))によって理解した段階であり、この段階より、「凡夫」の域を脱し、「聖者」の域へと入り、もはや煩悩が新たに生じることがなくなり、無始以来の前世より積み重ねてきた業の根本である煩悩についても本格的に断滅させていくことに取り組み始めることとなります。

 見道に入った聖者は「勝義菩提心」を生じ、いっそう「止と観」に精進し、いよいよこの見道からは「十地」にも取り組んでいくことになります。「十地」についてはあとで詳しく述べさせて頂きます。 

修(しゅ)道(どう)……見道において「止と観」を繰り返し、完全に「空性」を現量した聖者が、煩悩障のみならず、所知障についても断滅させていく段階であります。煩悩障と所知障については後に詳しく説明させて頂きます。

無(む)学(がく)道(どう)(究(く)竟(ぎょう)道(どう))……煩悩障と所知障を完全に断滅し終えて、無分別の智・不二の智、唯識思想における成所作智・妙観察智・平等性智・大円鏡智・法界体性智など全ての智慧の完成をみた段階であります。もはや学ぶものは無くなったので、「無学」とされています。無学道の聖者は、十波羅蜜・十地の菩薩行を完成させ、勝義と世俗を直感的に了解する「無(む)上(じょう)正(しょう)等(とう)覚(がく)」を現証し、一切の智慧を完成し終え、慈悲・自利利他を円満に究竟する者のことであります。

 十波羅蜜について

布(ふ)施(せ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 貪る心・執着(我執・愛執)の心・所有の心を無くしていくために、財物を施す財(ざい)施(せ)、悪感情・煩悩を静めて安心を与える無畏施(むいせ)、仏法の真理を説いて修行を実践する法(ほう)施(せ)を行なっていくこと。

 もう少し空の理解から詳しく述べますと、布施行においては、三輪清浄・三輪空寂が大切となります。三輪とは、「施者・受者・施物」の三つのことで、それぞれが清浄でなければならないということであります。

 施者においては、やってあげたというような驕りや傲慢な心、見返りを求めて期待するような心を離れていること、受者においては、頂いた行為、頂いたモノに対しての執着心をもたないこと、また、施されたと自分を卑下したり、更に施されたいと媚びへつらったりしないこと、また、欲望、特に物欲・財欲にとらわれてしまう心を離れていること、施物においては、それらが悪行(窃盗や詐欺など)によって得たような不浄なるものではないことが大切となります。
 
持(じ)戒(かい)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 戒律をしっかりと守ること。特に心・口・意の三業を清浄に保つために定められた戒律を遵守することで、五戒律として、不(ふ)殺(せっ)生(しょう)戒 (かい)(生き物をみだりに殺さないこと)・不(ふ)偸(ちゅう)盗戒(とうかい)(他人の物を盗まないこと)・不(ふ)邪(じゃ)淫(いん)戒(かい) (よこしまな男女関係・不倫をしないこと)・不(ふ)妄(もう)語(ご)戒(かい)(虚偽を語らないこと)・不(ふ)飲(おん)酒(じゅ)戒(かい)(お酒を飲まないこと)があり、更には、もう五つを加えて十戒律とする場合もあります。不(ふ)説(せつ)四(し)衆(しゅう)過(か)罪(ざい)(他人の過失や罪を言いふらしたりしないこと)・不(ふ)自(じ)賛(さん)毀(き)他(た)戒(かい)(自画自賛し、他人を見下したりしないこと)・不(ふ)慳 (けん)貪(どん)戒(かい)(自分の利を貪ったり、物惜しみをしないこと)・不(ふ)瞋(しん)恚(に)戒(かい)(激しく怒らないこと)・不(ふ)謗 (ぼう)三(さん)宝(ぽう)戒(かい)(仏法僧の三宝を誹謗中傷しないこと)。

忍(にん)辱(にく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

瞋(しん)恚(に)(激しい怒り)の心を出さないように、常に心を寛容にして平穏に保つために、仏道を歩む中、例えどんなに嫌でつらく苦しいことがあっても耐え忍ぶこと。

精(しょう)進(じん)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 なまけおこたる心を出さず、涅槃へ向けて一生懸命に修行に取り組むこと。

禅(ぜん)定(じょう)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 坐禅や瞑想修行にて精神統一・精神安定を図ること。禅定の基本としましては、止(心を統一して止めること・三昧(ざんまい)とも言う)と観〔人無我(人空)・法無我(法空)を妙観察すること〕があります。

智(ち)慧(え)波(は)羅(ら)蜜(みつ)
 
 智慧を開発していくこと。智慧は、真理を悟ったものにもたらされる心の働きのこと。真理の諸法実相から全く揺らぐことがなくなった心の働き。智慧は、般 (はん)若(にゃ)とも表されます。無分別の智・不二の智、唯識思想における成所作智・妙観察智・平等性智・大円鏡智・法界体性智などの智慧の完成を目指すこと。

 以上の六波羅蜜から派生して、方便・願・力・智の四つも説かれ、十波羅蜜となります。

方(ほう)便(べん)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 六波羅蜜の実践による善根を、一切衆生に対して相応に方便を用いて廻向し、一切衆生と共に無上仏果菩提を求めて菩薩行に邁進するという廻向方便善巧と、更には、方便を用いて一切衆生を救済していくという抜済方便善巧があります。

願(がん)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 一切衆生を救済し、彼岸・涅槃に至らしめんと、菩薩行に邁進し無上仏果菩提完成のための誓願を立てること。

力(りき)波(は)羅(ら)蜜(みつ)

 六波羅蜜の実践に邁進する力、仏教に対する偽説、異説を見破り打ち破っていくための力を養っていくこと。
 
智波羅(ちはら)蜜(みつ)

 諸法実相・真如の真理を了知する智慧を完成させて無上仏果菩提へと至ろうとしていくこと。 


十地

歓(かん)喜地(ぎじ)……布施波羅蜜に精進し、見道に入った修行者が、人無我(人空)・法無我(法空)の真理を理解し、「勝義菩提心」を起こし、歓喜して修行に邁進することを誓願する位。

離垢地(りくじ)……持戒波羅蜜に精進し、戒律を遵守し、悪を行わずに、心・口・意の三業を清浄にして善を行ないながら、心の垢を離していく位。

発光(ほっこう)地(じ)……忍辱波羅蜜に精進し、特に勝義真実に対峙する厳しさに耐え忍ぶ「諦察法忍」によって、智慧を開発していく位。智慧の光が発し始めてくる。

焔(えん)慧地(ねじ)……精進波羅蜜に精進し、善行・智慧の光を熾(し)盛(じょう)(勢い盛ん)に照らして、四方の衆生に対して功徳し、回向していく位。

難(なん)勝(しょう)地(じ)……禅定波羅蜜に精進し、勝義諦と世俗諦における真理の理解を進め、方便と般若の智を併せて実践していく位。特に方便を用いて利他行を自在に展開していく。

現前(げんぜん)地(ち)……智慧波羅蜜に精進し、最高の智慧(般若波羅蜜)を現前に観ていく位。もはや仏道の歩みが後退することがない。

遠(おん)行(ぎょう)地(じ)……方便波羅蜜に精進し、世俗を離れて勝義の世界に入り、勝義から慈悲の実践、自利利他の実践に方便を自在に用いながら行っていく位。

不(ふ)動(どう)地(じ)……願波羅蜜に精進し、もはや煩悩が生じることが完全になくなり、菩薩乗として一切衆生の救済としての慈悲を実践していく位。

善(ぜん)慧地(えじ)……力波羅蜜に精進し、菩薩乗として智慧の働きが円満となり、慈悲・利他の実践として、方便も用いながら、どのようないかなる者に対しても仏法の真理を説法していく位。

法雲(ほううん)地(じ)……智波羅蜜に精進し、最高の智慧(般若波羅蜜)が完成し、あたかも雲が恵みの雨を分け隔てなくあまねく降らすが如くに、一切のものたちへと、平等に仏法の真理を説法し、また、慈悲・自利利他の実践が円満に究竟する位。

 さて、ここまで簡単に五道、十波羅蜜、十地について解説させて頂きました。

 最高の智慧の境地、無上仏果菩提の境地へと至り、慈悲・自利利他行を円満に究竟するためにも、各々においてしっかりと学び、実践を進めることが大切となります。精進努力して参りましょう。

・・第七章ここまで。

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2008年12月16日(Tue)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第六章 唯識思想の理解・下
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第六章 唯識思想の理解・下

 次に、唯識思想の代表的教説である「唯識三十頌」について、漢文読み下し文と邦訳を載せておきます。
唯識三十頌

 世親菩薩造 玄奘三蔵法師漢訳

 漢文読み下し文

 唯識の性において、満に分に清浄なる者を稽首す。我、今、彼の説を釈し、諸の有情を利楽せん。

一 仮に由りて我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識の所変に依る。此が能変は唯三つのみなり。

二 謂わく異熟と思量と、及び了別境との識ぞ。初めは阿頼耶識なり、異熟なり一切種なり。

三 不可知の執受、処と了とあり。常に触と、作意と受と想と思と相応す。唯だ捨受のみなり。

四 是れ無覆無記なり。触等も亦た是の如し。恒に転ずること暴流の如し。阿羅漢の位に捨す。

五 次は第二の能変なり。是の識を末那と名づけたり。彼に依りて転じて彼を縁ず。思量するを性とも相とも為す。

六 四の煩悩と常に倶なり。謂わく我癡と我見と、併びに我慢と我愛なり。及び余の触等と倶なり。

七 有覆無記に摂められ、所生に随って繋せらる。阿羅漢と滅定と、出世道とには有ること無し。

八 次は第三の能変なり。差別なること六種あり。境を了するを性とも相とも為す。善と不善と倶非となり。

九 此の心所は遍行と、別境と善と煩悩と、随煩悩と不定となり。皆三の受と相応す。

十 初の遍行とは触等なり。次の別境とは謂く欲と、勝解と念と定と慧なり。所縁の事は不同なるをもってなり。

十一 善とは謂く信と慚と愧と、無貪等の三根と、勤と安と不放逸と、行捨と及び不害とぞ。

十二 煩悩とは謂く貪と瞋と、癡と慢と疑と悪見とぞ。随煩悩とは謂く忿と、恨と覆と悩と嫉と慳と、

十三 誑と諂と害と驕と、無慚及び無愧と、掉挙と昏沈と、不信と併びに懈怠と、

十四 放逸と及び失念と、散乱と不正知となり。不定とは謂く悔と眠と、尋と伺とぞ。二に各々二つあり。

十五 根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。或ときは倶なり、或ときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。

十六 意識は常に現起す。無想天に生じたると。及び無心の二定と、睡眠と悶絶をば除く。

十七 是の諸の識は転変して、分別たり、所分別たり。此に由りて彼皆無し、故に一切唯識なり。

十八 一切種識の、是の如く是の如く変ずるに由り。展転する力を以ての故に、彼彼の分別生ず。

十九 諸の業の習気と、二取の習気と倶なるに由りて、前の異熟既に尽きぬれば、復た余の異熟を生ず。

二十 彼彼の遍計に由りて、種種の物を遍計す。此の遍計所執の自性は所有無し。

二十一 依他起の自性の分別は縁に生ぜらる。円成実は彼がうえに、常に前のを遠離せる性なり。

二十二 故に此れは依他と、異にも非ず不異にも非ず。無常等の性の如し、此を見ずして彼をみるものに非ず。

二十三 即ち此の三性に依りて、彼の三無性を立つ。故に仏、密意をもって、一切の法は性無しと説きたまふ。

二十四 初のには即ち相無性をいふ。次のには無自然の性をいふ。後のには前きの所執の我・法を、遠離せるに由る性をいふ。

二十五 此は諸法の勝義なり。亦は即ち是真如なり。常如にして其の性たるが故に、即ち唯識の実性なり。

二十六 乃し識を起こして、唯識性に住せんと求めざるに至るまでは、二取の随眠に於て、猶未だ伏し滅すること能わず。

二十七 現前に少物を立てて、是れ唯識の性なりと謂えり。所得有るを以ての故に、実に唯識に住するには非ず。

二十八 若し時に所縁のうえに、智が都て所有無くなんぬ。爾の時に唯識に住す。二取の相を離れぬるが故に。

二十九 無得なり不思議なり。是れ出世間の智なり。二麁重を捨つるが故に、便ち転依を証得す。

三十 此は即ち無漏界なり。不思議なり善なり常なり。安楽なり解脱身なり。大牟尼なるを法と名づく。 

 巳に聖教と及び正理とに依りて、唯識の性と相との義を分別しつ。所獲の功徳をもって群生に施す。願くは共に速かに無上覚を証せん。

 邦訳は、「唯識の探求」竹村牧男著・春秋社より引用

一 我・法に関する種々の言語表現がなされるが、それはすべて識の転変においてである。そしてその転変とは、三種であって、

二 異熟と、〔我の〕思量といわれるものと、対境の了別とである。その中、異熟は、阿頼耶という識であり、一切の種子をもつ〔識〕である。

三 それはまた、知られることのない、執受と住処との了別を有している。〔また〕常に、触・作意・受・想・思にともなわれている。

四 そこでは(阿頼耶識においては)、受は捨受である。それはまた、無覆無記である。触等も同様である。それは河のように、流れ〔のあり方〕において生起する。

五 その〔阿頼耶識の〕捨離は、阿羅漢たる者においてである。それに依拠して、それを所縁(対象)とする、意という名の識が起きる。〔我の〕思量を自性とするものである。

六 常に、有覆無記の四つの煩悩、我見・我癡・我慢・我貪といわれるものと一緒にある。

七 〔それも〕生まれた所〔の界・地〕に属する〔四つの煩悩〕と、である。および他の触等〔の心所〕とも〔一緒にある〕。それは阿羅漢にはない。滅尽定においてもなく、出世間道においてもない。

八 これが第二の転変である。第三は、六種の対境を認得するものである。〔それは〕善・不善・非二〔のいずれもありうるもの〕である。

九 これは、遍行と別境と善の心所と相応し、同様に、煩悩と随煩悩とも〔相応するの〕である。〔なおその中、受には〕三受ある。

十 初めのもの(遍行)は、触等である。欲・勝解・念と、それから定と慧とが、別境である。また、信と慚と愧と、

十一 無貪等の三と、勤と軽安と不放逸と、〔それと〕倶なるものと不害とが、善である。煩悩は、貪・瞋・癡と、

十二 慢・見・疑とである。さらに、忿・恨・覆・悩・嫉・慳と、また誑と、

十三 諂・驕・害・無慚・無愧・昏沈・掉挙・不信、また懈怠・放逸・失念、

十四 散乱・不正知と、また悔と眠そのものと、尋と伺とは、随煩悩である。二組の二(悔と眠、尋と伺)は、各々二種である。

十五 五識は、根本識から、縁にしたがって、一緒に、あるいはそうではなく、生起する。ちょうど、水における諸々の波のようである。

十六 意識は、無想果と、二つの禅定と、睡眠および気絶という無意識の状態を除いて、常に生起する。

十七 この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。それ故、この一切は唯だ識のみのものである。

十八 〔阿頼耶〕識は、一切種子をもつ〔識〕である。〔その〕転変は、〔転識と阿頼耶識または種子の〕更互の力によって、そのようにそのように進んでいく。そのことによって、それぞれの分別は生じるのである。

十九 業の習気は、二取の習気とともに、前の異熟が滅したとき、他の異熟であるそれを生じる。

二十 どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、それは遍計所執性である。それは存在しない。

二十一 依他起性は分別であり、〔それは〕縁によって生じる〔から依他起性な〕のである。円成実〔性〕は、それ(依他起性)が、常に前の〔遍計所執性〕を離れていることそのことである。

二十二 この故にこそ、それは依他起〔性〕と別ではないし、別でないのでもない。〔この関係は〕無常性〔と無常なる事物〕等のようにいわれるべきである。これ(円成実性)が見られないとき、それ(依他起性)は見られない。

二十三 〔今の〕三性に関し、三種の無自性性(無自性を本性とすること)があることを〔内には〕秘かに考えておいて、〔『般若経』等には〕「一切法は無自性を本性とする」と説かれたのである。
 
二十四 初め(遍計所執性)は、実に相によって無自性である。また、次(依他起性)は、これには自らあるもののあり方がない、というのが、次の無自性性である。

二十五 そして、それ(円成実性)は諸法の勝義であるから〔勝義無自性性〕なのである。
それはまた、真如である。一切時に、その如く〔変らずに〕あるからである。それこそが、唯識実性にほかならない。
 
二十六 唯だ識のみであることに、識が住しないかぎり、その間は二取の随眠は止滅しない。

二十七 これは唯だ識のみにほかならない、というのもまた、実に対象的認識故に、〔いわば認識主観の〕面前に何ものかを立てるので、「唯だそれのみ」にはなお住していない。

二十八 識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、唯だ識のみ、ということに住したのである。〔というのも〕所取がないとき、それを取ることがないからである。

二十九 これは無心であり、無所得である。それはまた、出世間の智である。転依である。二種の粗重を断じたが故に。

三十 それこそが無漏界であり、不思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身である。これが大牟尼の法といわれるものである。

 邦訳引用……ここまで。

 さて、この章では、特に唯識思想の三性説・三無性説について考察させて頂きました。

 更に、阿頼耶識についての詳しいことや、無相唯識派と有相唯識派との対立論点の整理、瑜伽行中観派の思想発展、あるいは阿頼耶識と如来蔵思想との関連についてなども考察して参りたいと思いますものの、今回の本論の構成上、ここでは省略させて頂きまして、機会がありましたら次回以降において扱いたいと考えております。

・・第六章・下ここまで。

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施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第六章 唯識思想の理解・上
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第六章 唯識思想の理解・上

 唯識思想は、中観思想と共にインド大乗仏教においては大潮流の一つであり、もちろん、日本にも伝わり、奈良仏教・南都六宗の一つである法相宗が、唯識教義を現在でも根本宗旨としています。

 唯識思想については、施本「仏教・〜一枚の紙から考える〜」におきまして、ある程度基本的なことを述べさせて頂いておりますので、今回はその内容を踏まえて考察して参りたいと存じます。

 龍樹による「中論」以降、中観思想の中心課題は、二諦(勝義諦と世俗諦)の解釈をめぐるものとなっていきました。縁起による否定(代表的な八不としての不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)から戯論寂滅へと至る道を中論は示したわけです。

 しかし、いかにして世俗諦から勝義諦へと至るかということについては、「縁起」を用いること以外で、はっきりと具体的に示されることがなかったこともあって、その後、中観思想内においても大きく二派(自立論証派・帰謬論証派)に分かれての混乱に繋がってしまったのではないかと考えられます。

 この混乱の中、中観思想の空の論理を受け継ぎ、世俗諦から勝義諦へと確かなる転換を図るために、より具体的な思想として、唯識思想が登場することとなります。

 また、般若思想・中観思想以降、「空」について、「何も無い」として勘違いしてとらわれてしまい、虚無主義的に扱ってしまう傾向もあって、今一度「空」を正しく観ずるためにも、その修正が求められたことも唯識思想が登場する下地となりました。

 唯識思想は、ヨーガ(瞑想修行)を中心として、「心のありよう」を深く洞察してゆくため「瑜(ゆ)伽(が)行(ぎょう)唯識学派」と称されました。

 瑜伽行唯識学派は、「識」(ただ識別作用があるのみ)を中心として、戯論が寂滅し言語表現を超えていく領域について、中観思想における世俗諦と勝義諦をある程度、結合させる作業を進めることによって、より鮮明に真理を示めしていこうとしたのだと考えられます。

 もちろん、中観思想においては、何が勝義諦かを積極的に示そうとした自立論証派が出てきたものの、立論そのもの自体が元々矛盾を内包してしまう中では、その成果は十分に得られなかったものと考えられます。また、帰謬論証派は相手の立論の誤謬を正していくための否定のみによる論証であり、積極的には勝義諦が何かを十分に示せるものではなかったのも確かであります。

 さて、では唯識思想は、いかにして中観思想における世俗諦と勝義諦をある程度、結合させる作業を行ったのかについて、唯識思想の中核をなす教説である「三性説」・「三無性説」について考えて参りましょう。
 「三性説」とは、この世における事象・存在のあり方について三形態に分けて示すことですが、それは、「遍(へん)計(げ)所(しょ)執(しゅう)性 (しょう)」・「依(え)他(た)起(き)性(しょう)」・「円(えん)成(じょう)実(じっ)性(しょう)」であります。

 「遍計所執性」とは、「あまねく計(はか)らったところのものに執着してしまうあり方」のことですが、つまり、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、思惟・思考による言説概念化によって虚妄分別したそれぞれを、実在するものとして、執着してしまっているということであります。

 「依他起性」とは、「他に依って起こっているというあり方」のことですが、他に依って起こるとは、いわゆる「縁起」のことであります。「AによってBがあり、BによってAがある。」という縁起によってのみ仮構されての成り立ちがあるということです。

 もちろん、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、識が働くことになりますが、それは両者の相互依存によって生じている、つまり「所取によって能取があり、能取によって所取がある。」ということであります。もちろん、それは、「十二処(六根・眼耳鼻舌身意と六境・色声香味触法)」と「五蘊(色受想行識)」の実体否定であり、縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立っていると言えるだけのことに過ぎない、つまり「仮有・仮設」ということであります。

 そして、「円成実性」とは、依他起性としての縁起的あり方、つまり、能取と所取という縁起的な分別のあり方を理解して、遍計所執性により虚妄分別したものへの執着もなくなって、縁起においての存在のあり方は、その縁起におけるあり方においてのみ言えるだけのことで、本来は無分別であり、そのあるがままは、あるがままであるという、諸法実相・真如のことを示しているのであります。

 そして、次に三性説についての各否定的側面として三無性説、「相無自性」・「生無自性」・「勝義無自性」が示され、空の論理についても補完して説明されます。

 遍計所執性に対応する否定として「相無自性」が説かれます。この場合の「相」は、遍計所執した事物についてのあり方、特質というものですが、私たちは、事物を認識する時に、「それは、このようなあり方、特質がある」とします。しかし、そのあり方、特質も、例えば、温かい・冷たい、大きい・小さい、堅い・軟らかい、強い・弱いなどの性質についても、ただ縁起関係において分別して言えているだけのものであって、ただそれだけのことに過ぎないとして、無自性を示すのであります。

 依他起性に対応する否定としての「生無自性」とは、縁起「AによってBがあり、BによってAがある。」としての仮においてA、Bが生じているだけのものであり、Aそのもの、Bそのもの自体で生じるものとは言えないとして無自性を示すのであります。

 円成実性に対応する否定としての「勝義無自性」とは、いかなるあり方、特質としても決定されるものはない、勝義そのもの、円成実性としてのあるがままはあるがままという真如・実相にもとらわれることができる自性が無いという無自性・無相を示したのであります。

 三無性は、三性における「有」にとらわれてしまうことを避けるために、その三性それぞれも「空」・「無自性」であるということを示して、「有る」にとらわれず、また「無い」にとらわれない「非有非無」のありよう、中道について改めて示し、更に「空と不空」にもとらわれないために説かれたものであると考えられます。

 空性とは、もちろん実体がない、無自性ということですが、全てのものが空であり戯論を離れて、言語表現・言説の一切を認めないということに終始してしまうものとなってしまえば、「何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想が第一だと陥ってしまったり、善も悪もない、正も誤(邪)もない、世間における道徳的・倫理的行為実践も意味がない、のみならず、宗教、仏教そのものも意味がない、四法印も四諦も意味がない、「何も無いのだ」として空を扱ってしまう懸念を、何としても避けるために、唯識思想においても空に対して、空にとらわれてしまい過ぎないように論理補完が成されたのであると考えます。

 中論・「観行品」(第十三・第八偈・第九偈)『もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか〔が存在することになるであろう〕。〔しかし〕非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。』、『空であること(空性)とはすべての見解の超越であると、もろもろの勝者(仏)によって説かれた。しかるに、およそ、空性という見解をいだく人々〔がおり〕、かれらは癒し難い人々であると、〔もろもろの勝者は〕語った。』

 中論・「観如来品」(第二十二・第十一偈)『「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕、「不空である」、「両者(空且つ不空)である」、また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし、〔これらは〕想定(仮に説く)のために説かれるにすぎない。』

 中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』

 とありますように、「空と不空」との「縁起」関係をも最後には超越していくことを観じなければならないということであります。

 それは、般若思想・中観思想が示した空性が、その空性としての意義を保ちつつも、その空性が意図している目的である空用も理解し、空の世俗的なあり方としての空義をもしっかりと考えなければならないということであります。

 つまり、空性とは、一切の存在・事象を実体として見るとらわれを離れ、主客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解して、また、縁起関係にあるあらゆる相対・対立をも超えた「不二絶対」を明らかに知見していくことが重要であり、空性はいわゆる「無分別の智・不二の智」のことであります。

 その空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅される働き、分別から無分別、不二絶対の平等へと至るための働きが空用であり、空義とは、「無分別の智・不二の智」によって、最終的には、世俗諦も勝義諦も分別が無くなり、世俗諦から勝義諦へ、勝義諦から世俗諦へ、自在にその両方の真理を行き来できるようになって、諸法の実相を明らかに観ていくことであります。諸法の実相とは、真如ということでもあります。

 戯論寂滅が、何も考えない、何も思わないことだと、あまりにとらわれ過ぎてしまう危惧も避けていくことが必要なのであります。

 空を理解し、無分別、言語道断、戯論寂滅の重要性について鑑みるのは、実に大切なことであります。しかし、そこで留まってしまっては本当の意味での深遠なる真実義を見極めたとは言えず、では次に、いかにして世俗においても智慧を働かしていくべきであるのかということが、更に問われてくるところなのであります。

 唯識……「ただ識のみ」として、まず『こころ』があるとして認めるところから始まる唯識思想は、真理を外界に求めるのではなく、「こころ」の内に真理を求め、己の「こころ」が全ての事象・存在を作り出しているに過ぎないのであるとして、その「こころ」による識別作用・思惟分別作用というものが虚妄分別を起こし、その分別したものにとらわれて迷いの中に陥ってしまっているのだという原因に気づき、その上で、三性説・三無性説を理解し、迷い・煩悩の「こころ」のありようを真に悟り、次に智慧を働かせていけるように「こころ」を迷いから智慧のありようへと転換させていくという「転(てん)識(じき)得(とく)智(ち)」が大切になるということであります。

 そして、最終的には、「ただ識がある」として、唯識思想展開の中心である「識」についても当然に「空」であり、「不空」であり、そのとらわれからも離れていかなければならないのであります。

 唯識の識については、基本として「八識」について説明されますが、ここでは改めての説明は行いません。詳しくは、施本「仏教・〜一枚の紙から考える〜」をご参照頂ければと考えております。

 根本煩悩、小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩に惑わされることなく、十一善を行い、五道・六波羅蜜を実践して、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、意識、末(ま)那(な)識(しき)・阿(あ)頼(ら)耶(や)識(しき)のありようを智慧へと転換させていかなければならないのであります。

前五識……成(じょう)所(しょ)作(さ)智(ち)

 所作を成ずる智慧で、大・中・小の随煩悩に惑わされることが無くなり、心・口・意の三業が清浄に保たれるようになったこと。

意識……妙(みょう)観(かん)察智(さっち)

 根本煩悩である貪・瞋・痴・慢・疑・悪見を滅し、この世のあらゆることに対しての虚妄分別が無くなり、実相のそのままを観じ察することができるようになったこと。

末那識……平(びょう)等(どう)性(しょう)智(ち)

 自我に執着している自我意識、我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の四つの根本煩悩を滅し、我空を理解して、主客の分裂が無くなり、自他分別も無くなって、法空も理解し、この世のあらゆるものを自他平等・不二平等に識できるようになったこと。

阿頼耶識……大(だい)円(えん)鏡(きょう)智(ち)

 あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じることなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如くに、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージであると考えます。
 
 また、唯識思想は、大きく有相唯識派と無相唯識派の二派に分かれていくことになりました。

 その二派は、「能取・主観・主体と所取・客観・客体」の「二取」における「形象・相」が実在するのか、実在しないのかという点において激しい議論が展開されていきます。

 基本的には、無相唯識派の流れが主流でありましたが、論理学の発展とともに、真理を示すための論理的言語・言葉を重視する立場が、その論理的言語・言葉を理解するためには、自他共通の「二取」における「形象・相」がなければならないという主張において、有相を説き、有相唯識派が登場したのであります。

 また、唯識思想の発展過程においては、三性説の「依他起性」のあり方について、あくまでも「有」として解した唯識派と、「依他起性」のあり方については「有るとは言えない」として解した中観派とが激しく対立した時期があったものの、唯識思想の説く空の論理については中観派からも歩み寄る傾向もみられ、「縁起」をめぐっての解釈についても両思想において徐々に醸成されていく中、中観派と唯識派の両理論についての学びを統合して進めていく「瑜伽行中観派」が誕生していくのであります。

 とにかく、空を正しく観じていくためには、やはり「縁起」の理解が重要であり、「縁起を見る者は、法(真理)を見る。法(真理)を見る者は、縁起を見る。」と言われますように、「縁起」の理解を確実に及ぼしていくことが唯識思想においても求められるものであると考えます。

・・第六章・上ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第五章 中観思想の理解・下
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第五章 中観思想の理解・下

 さて、では次に中論が示そうとしている目指すべきところのことについての偈を挙げておきます。

 中論・「観法品」(第十八・第五偈)『業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から〔起こる〕。それら〔分析的思考〕は、戯論(想定された論議)から〔起こる〕。しかし、戯論は空性(空であること)において滅せられる。』、中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』、中論・「観法品」(第十八・第九偈)『他に縁って〔知るの〕ではなく(みずからさとるのであり)、寂静であり、もろもろの戯論によって戯論されることがなく、分析的思考を離れ、多義(ものが異なっている)でないこと、これが、真実〔ということ〕の特質(相)である。』

 さて、ここまで非常に難しい話ばかりが続いてきまして、少々うんざりされていらっしゃる方もいるかもしれません。そこで、中観思想について簡単に分かりやすくを心掛けて少し私なりに述べてみたいと思います。
 では、「苦しい・苦しみ」ということについて、考えて参りましょう。

 まず、「縁起」関係についてですが、『苦しいによって楽しいがあり、楽しいによって苦しいがある。』ということであります。

 どちらか一方だけの世界では、苦しいも楽しいももちろん成り立ちません。つまり、苦しいだけの世界ならば、何が苦しいかはわからないですし、楽しいだけの世界ならば、何が楽しいかはわからないということです。

 更には、楽しいも苦しいも、人に応じて千差万別の認識・判断・価値基準があり、実は何が苦しみで、何が楽しみかなど、完全に誰も定義することなどできないのであります。もしも、仮に定義できたとするならば、それはもう「楽しい」でも「苦しい」でもなくなるのであります。

 全人類が「楽しい」ということであるならば、それはもう「楽しい」でも「苦しい」でもどちらでもない、もちろん、全人類が「苦しい」という場合でも同様なのです。

 実は、苦しみも楽しみも何がどうであるのかとは、本当は決められないものであり、わからないものでしかないのであります。

 このことを「空」と言ったり、「仮」と言ったり、「幻」と言ったりするわけであります。苦しみも楽しみも、本来はそのような実体が無いためで、わからない、決められないのは当然のことなのであります。

 厳密には、苦しいという実体が「有る・無い」、楽しいという実体が「有る・無い」とも言えないのです。

 でもモノが体に当たったり、病気になったりしたら痛いし、つらいし、しんどいし、苦しいじゃないか、と反論したくなるでしょう。

 それを単に私もモノも病気も無我・無自性・空性・幻だからと言って果たして納得できるでしょうか。なかなか納得はできないと思います。それはもちろん、私も同じです。

 では、仏教を学んだ者と、そうでない者とでの違いは何かと言いますと、それは、苦しみの「捉え方」であります。

 苦しみは実体が無いから、それは単に勘違いであるとは言いません。ただ、苦しみはその実体が『有る』というわけではないので、その苦しみに、こだわらないし、とらわれないし、執着はしないということです。

 つまり、苦しみの捉え方において、ずっと永遠に苦しみという実体が何か『有る』というわけでなく、苦しみの相対である楽しみのありよう次第においても、その捉え方もコロコロ変わるものに過ぎないということです。

 勝手に自分がこれは苦しみ、これは楽しみと、かたよって、とらわれて執着することから離れるということです。そうすると、今、苦しいとしてとらわれていることも、やがては変わっていくことも当然ありますし、苦しみのとらわれ、執着から離れるための努力をしたり頑張ったりもしていけるということです。

 いつまでも苦しいという何か実体が有るとして悲観したり絶望したりするのは、大きな間違いであるということです。

 苦しみもいつか乗り越えていけるものだ、楽しいへとも変わるものだということも、単に心の持ちよう次第のところが非常に大きいのであります。

 ですから苦しいも楽しいもどちらにも、かたよらない、とらわれない、こだわらない、しがみつかない心を調えていくことが誠に肝要になるのであります。

 苦しみも楽しみも表裏一体、勝手に苦しみ、楽しみ、表だ、裏だと決めつけて、かたより、とらわれ、こだわり、しがみついているのは、迷いの心が産み出した虚妄分別にすぎないことを縁起によって理解していかなければなりません。

 縁起を理解し、無分別をわきまえた上で、では次にどのようにして迷いの心を静め、悩み、苦しみを乗り越えていくために智慧を開発させていくべきであるのかが重要になります。

 さて、中観思想につきましては、更にこれからの章においても随時、補完していくことと致します。

・・第五章・下ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第五章 中観思想の理解・上

 中観思想につきましては、前回の施本「仏教・空の理解」におきましてある程度、詳しく取り上げさせて頂きました。

 ここでは、更に補足・補完しておきたいことを中心に述べていくことと致します。

 さて、中観思想の基本的な論理は、「縁起・無自性・空の論理」、「空・仮・中の三諦」、「世俗諦と勝義諦の二諦」であります。

 般若思想の空の論理を、更に発展したものとして著されたのが「中論」であり、その著者が「龍樹(ナーガールジュナ)」であります。龍樹は、実体の否定を理論付けていくために、特に「縁起」をその中心論点として据えます。

 「縁起」について、よく世間においては、「縁起が良い・縁起が悪い」と使いますが、この場合の縁起は、「原因・条件」を示すものであり、中論の示す「縁起」とは異なりますので、注意しておかなければなりません。

 では、中論の示す「縁起」とは何か、それは、あらゆる一切の存在・事象は、「相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的」なるがゆえのありようで、そこには固定した実体としての存在は無いものとして「無自性」・「空」を説くのであります。

 相互依存的・相資相依的というのは、他に依りて成立しているということですが、例えば「長い」という概念は、「短い」という概念に依存して言えるわけであり、「きれい」という概念も「汚い」という概念があって言えるわけであります。

 それは、「有と無」・「表と裏」・「正と誤」・「善と悪」・「苦と楽」・「不安と安定」・「生と死」・「愛と憎」・「戦争と平和」・「明と暗」・「白と黒」・「右と左」・「上と下」・「男と女」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○には快・幸などの語が入る)」などのあらゆる二項対立・二元対立も同様であります。

 これらは、「AによってBがあり、BによってAがある。」として、この縁起関係においてだけ、AもBもただ言えるに過ぎないということであります。

 法有・実在論者は、「AはAの実体としての『ありかた』があり、BはBとしての実体としての『ありかた』がある。」として、それぞれは独立した実体として「法(ダンマ)」が存在すると主張しましたが、まさに中観思想は、「縁起」によってその誤りを批判したのであります。

 もしも「表」と「裏」が、それぞれ実体としての「ありかた」があるとすれば、「表」は「表」だけで存在できることとなりますが、この世において表だけの何かが成り立つのかと言えば、表だけの紙・本・人などは当然に見あたりませんし、もちろん、「裏」も同様であります。「表」も「裏」も「表によって裏があり、裏によって表がある。」と言えるだけなのであります。表だけの何か実体があるわけではなく、裏だけの何か実体があるというわけではないのであります。

 それはまた、「表」も「裏」もどちらがどちらと決められるような実体が無いということでもあり、もしも、「表」という実体があるならば、誰がどのように見ても「表」と答えるでしょうが、ある別の人から見たら違うとされたり、時代や慣習、風習、価値観などの違いで「表」のことが「裏」となったり、「裏」のことが「表」となったりすることは当然にあります。

 このことは、「正と誤」・「善と悪」などを考えれば容易に理解できることであると思います。「正」・「誤」「善」・「悪」というそれぞれに何か実体があるわけではありません。どちらにも執着はできませんし、本当はどちらともにもとらわれることもできず、更にはどちらがどちらとも本当は言えないものでしかないのであります。

 それはつまり、あらゆるものは、「縁起」においてのみ表し示すことができるというわけであります。「縁起」関係を抜きにしては、何も表し示せないのであります。

 いずれにしましても、どのような観念・概念・存在・事象でも必ず何かとの縁起関係によって仮に成り立っていると言えるだけのもので、そのものだけで孤立して独立して固定した実体として成り立っているものではなく、あくまでも世俗的に「縁起」関係において観念・概念・存在・事象が成り立っているということであります。

 また、色(物質・肉体)、受(感覚・感受)、想(表象・概念)、行(意思)、識(意識・認識)の五蘊も「縁起」において、それぞれも世俗的に相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的において仮に成り立っているだけのものとして、実体の無い、つまり「空」というわけであります。ゆえに「五蘊皆空」と般若心経でも表現されているのであります。

 この「縁起」関係について中論では、「観四諦品」(第二十四・第十八偈)『およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。』として、世俗的に成り立っているあらゆるものは、あくまでも「縁起」として成り立っており、そのことは、つまり、「実体が無い」という「空」であり、それは、一応は「AによってBがあり、BによってAがある。」というようにAもBも「縁起」関係によって「仮」として設けられた成り立ちで言えるだけのものであり、「仮」というのは、つまり、AもBも本来的には、Aだ、Bだとして、とらわれて分けることもできないということで「非A非B」であり、Aだ、Bだとして、AやBが有るというわけでもなく、また全く何も無いというわけでもない、「非有非無」であり、それがすなわち「中道」である、ということを示していると考えます。

 次に、中観思想における「縁起」について更に理解を深めていく上で、「四句否定」について触れておきたいと思います。

 代表的な「四句否定」として「四不生」がまず中論においては取り上げられます。それは「自生」・「他生」・「共生」・「無因生」の否定であります。

 中論・「観因縁品」(第一・第三偈)『もろもろの「存在(もの・こと)」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。』として、これは、「自性」があるとする実体論者に対して、その「自性」を否定するために、また、「縁起」は「原因によって結果が生じる」という意味ではないというために説かれました。

 私自身という実体があるとして、「自生」とは、事物が、自体から生じる、そのもの自体からそのもの自体が生じる、つまり原因と結果が同一ということで、例えば、私自身は私自身から生じるとなれば、既に存在しつつある私自身から更にいくらでも私自身が生じることとなりますが、そのようなことはありえません。

 「他生」とは、事物が、他から生じる、原因と結果が別異ということで、私自身が他人という実体から生じるということになりますが、それならば、いくらでも私が生じることになる、更には、一切のものから一切のものが生じることにもなりますが、そのようなことはありえません。

 「共生」とは、自と他の両者から生じる、つまり、私自身が、私自身と他人との両者から生じるということで、原因と結果が同一なることと、原因と結果が別異であることとのどちら共から私が生じるということは、先に示した「自生」も「他生」も成り立たないことからも当然に「自と他」共から生じることもありえません。

 「無因生」とは、事物が、原因がないのに生じる、自でもなく、他でもないようなものからでも生じる、つまり私自身が私自身でもない、他人でもない、何ら原因がなくても生じるということになり、それならば常に私自身が生じるということになり、更には一切のものから一切のものが生じるということにもなりますが、そのようなことはありえません。

 このようにして、自性としての因果関係の成立を全て否定し、無自性としての「不生」を示したのであります。「四不生」については、もちろん「不滅」も同様であり、「不生不滅」について説明したものであります。

 「不生」をもう少し簡単に述べますと、もしも、あるものに実体が有るとするならば、その実体有るものが更に生じるということはありえない、また、もしも無いとするならば、無いものが生じるということもありえない。更には有るとして無いとするものも生じることはない、ということでもあります。

 「観因縁品」では次に「因縁」・「次第縁」・「等無間縁]・「増上縁」についての「不生」も論じ、自体としては、条件・原因からいかなるものも結果として生じないと説いています。

 このようにして中論では、徹底して実体を否定していくための論理が多く展開されます。それは冒頭において、まず縁起の「八不」を述べていることからも伺えます。

 「観因縁品」(第一・第一偈、第二偈)『〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、』、『〔また〕戯論(想定された論議)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。』

 龍樹は、中論において、「四不生」を代表するような「四句分別」〔有・無・非有無・非非有非無(有・無・非有非無・非非有非非無)〕の論理を用いて、縁起をもって一切の自性を否定し、無自性なる空を示しながら、最後に「空によって不空があり、不空によって空がある。」という縁起関係で、空も不空もただそれだけで言えているだけに過ぎず、空も不空も超えて、戯論の寂滅へと導こうとしたのであります。

 次に「世俗諦と勝義諦の二諦」についても扱いたいと存じますが、基本的な考え方につきましては施本「仏教・空の理解」・第四章をお読み頂ければと存じます。

 「世俗諦」とは「世俗における真理」のことであり、普通に生活している日常的な営みにおけること、又は、概念・観念・言語活動において、厳密に考察されない限り、一応、一般的・習慣的には正しいと認められている真理のことであります。

 「勝義諦」とは、概念・観念・言語活動を超えて、言語道断で戯論が滅された真理のことであります。

 更に「勝義諦」を、戯論の滅された勝義諦と、その勝義を指向するものとに分けて説明する場合もあります。

 勝義を指向するものとは、世俗的な概念・観念・言語活動を含んで、勝義真理へと向かうヒントを表したものについては、一応、世俗諦と切り離して考えるということであります。

 例えば、縁起の八不、無自性・空・仮・中道を理解するために説かれる表現・論理・智慧・修行方法などであります。

 ただ、この場合の勝義を指向するものも、あくまでも世俗諦とする立場もあり、議論の分かれるところですが、私的には、真なる勝義へと至るための、その手段・段階・階梯を概念・観念・言語活動などでギリギリ限界まである程度は示された方が、より明らかに目的である最高真理に近づくことができるようになるのではないかと思います。

 ただ、この勝義諦を分けてしまうことは、やがて中観思想が大きく二派に分かれる原因となりました。

 それは、勝義的にという条件付きにおいて、積極的に立論を展開して、勝義諦を示そうと努力する自(じ)立(りゅう)論証派と、あくまでも反対論者・批判論者の立論を論破することのみに論理を用いて、その立論の誤りを正すことだけに専念し、戯論を滅することに努力する帰(き)謬(びゅう)論証派であります。

 その詳細につきましては、紙面の都合上、これ以上は触れませんが、機会がありましたらまた詳しく論じてみたいと存じます。

 さて、中観思想について改めてここでまとめますと、法有論者・実体論者の主張する論理の誤謬を批判していく中で、縁起(「AによってBがあり、BによってAがある。」)している(相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的なる)もの、それはただ縁起的関係においてのみAだ、Bだと言えるだけのことで、何かAだ、Bだというような実体がそもそもあるわけではない、つまり、それは「無自性・空性」であることと説き、それは、Aだ、Bだと言うのは、言葉によって仮に設けられただけのもの(仮名・仮設・仮有)であって、すなわち、中道(非有非無、AだBだというものが、有るとも言えないし、全く何も無いということでもない)である、ということを明らかにしました。

 更に中論は、縁起の抱える複雑な関係性についても示していきます。

 前回施本においても取り上げました縁起関係が内包している相対矛盾・対立矛盾についてであります。

 ……「観燃可品」の章において、「燃えている薪」のありようについて、私たちは、どこからが火で、どこからが薪なのかは、はっきりと区別して知ること、分けることは誰にも不可能なことですが、私たちは、そのありようを見て、「火」があって、「薪」があると言います。

 では、「火」と「薪」を本当に分けてしまったらどうなるのかと言いますと、当然に火は火自体では存在できず、燃料がなければ「火」は消えてしまい、「火」は存在しえなくなります。また、薪も薪が燃料として存在するためには、火がなければならず、火と分けてしまうと、薪はただの木片になってしまいます。

 両者は一体として、そこに火があり、薪があると言えるわけであります。いわゆる「二而不二(而二不二)」のありようを呈しています。

 ここで更に両者を分けて一体のものと考えると、より複雑な関係性が浮かび上がることになります。

 両者の一方を肯定させていこうとすれば、そのまた一方は否定されることになるという関係性であります。例えば、火が炎として燃え盛っていく(火の肯定)ならば、薪は、徐々に小さくなり、燃料としての立場が弱くなっていく(薪の否定)こととなり、逆に火が炎を弱めていく(火の否定)と、薪は、燃料としての立場が強くなっていく(薪の肯定)ことになるという、相対矛盾のあり方を露呈してしまうのであります。

 更に、その両者の進行は、最後に皮肉な局面を迎えることとなります。

 火が炎として激しく薪を燃やし続けていけば(火の肯定の進行)、薪は徐々に小さくなって(薪の否定の進行)、やがて薪が燃え尽きてしまった時(薪の完全否定)、そこには火の存在できる場所が無くなり、火も消え去って、火は完全に否定されることとなってしまいます。

 同様に、火の炎の勢いが弱まっていけば(火の否定の進行)、薪は徐々にその燃料としての立場が強まり(薪の肯定の進行)ますが、やがて火が消えてしまった時(火の完全否定)、そこには薪の燃料としての立場も無くなり、薪は単なる木片となってしまって、完全に薪、燃料としてのありようは否定されることになってしまいます。

 このように相対する両者の関係は、分けて考えてしまう限りにおいて、対立を残していないと、結果的に両者ともに完全に相互否定に繋がってしまうという、対立矛盾の迷い・苦しみを如実に示すことになるのであります。
 このことからも、二項対立・二元対立の分別においては、いずれの側にも立つことができない、どちらも肯定、否定共にとらわれて執着してはいけない、ということなのであります。……


 また、「明」と「暗」のありようについても私なりに述べさせて頂きましたが、縁起関係における両者は、実体として分けてしまう限りにおいて、必ず相対矛盾・対立矛盾の中に陥ってしまうのであり、それを避けるために無分別の理解が求められるのであります。

 縁起関係として両者は仮に有るとして成り立っているとは説明するものの、実はその縁起関係でさえも、深い考察の末においては、矛盾が内包していることを理解して、縁起関係についてすらも、とらわれてしまうことを避けていくのであります。

 般若思想が主に掲げた否定の論理は、龍樹へと引き継がれ、一切のあらゆるものを論理的に否定し尽くした先には、「否定によって肯定があり、肯定によって否定がある。」の縁起すらも、もはや超越し、そこにはもう否定・肯定さえもとらわれるもの、執着するものがなくなって、無分別となり、「対が絶えた」という絶対の真理、つまり、思惟分別が無くなり、戯論が滅された、あるがままの真理へといざなわんがためであったのだと考えます。

 それは、法有論者・実体論者における一切の肯定作業によってでは、絶対に至るのに無理が生じてしまったものの、般若思想、龍樹に始まる中観思想が示したように、一切の否定作業によってのみ、絶対が可能であったということではないだろうかと思います。

・・第五章・上ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年12月12日(Fri)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第四章 般若心経の理解
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第四章 般若心経の理解

 般若心経の漢文読み下し文と現代語訳については、「仏教思想6・空・上」(仏教思想研究会編)・中村元氏「第一章・空の意義・B本論(一)理論的思考」より抜粋しております。

 漢文読み下し文

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩が深き般若波羅蜜多を行ぜし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢づかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩たは、般若波羅蜜多に依るが故に。心にけい礙なし。けい礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

 現代語訳
 
全知者である覚った人に礼したてまつる。

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見とおしたのであった。シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、識別知も、すべて実体がないのである。シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、識別知もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。(さとりもなければ)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。」

 般若心経は、広く読まれており、また写経・納経されるなど、誰もが一番に馴染み深いお経でありましょう。
 もちろん、その真義を知ることは、実に難解であり、容易なことではありません。特に般若心経では、否定辞がたくさん出てきており、一見すれば虚無主義に陥りかねないものであると思います。

 しかし、般若思想について、たったこれだけの文字数にて端的に著されているという点では、やはり秀逸なお経と言えるのではないだろうかと考えます。

 「五蘊皆空」(一切皆空)から始まる「五蘊(色受想行識)」、「十二処(六根・眼耳鼻舌身意と六境・色声香味触法)」の実体の否定、第三章で触れました「色即是空 空即是色」という即非的表現、「不生不滅・不垢不浄・不増不減」という縁起関係が示す「不二・無分別」の表現、そして、「三界」・「十二縁起」(般若心経では無明と老死だけを挙げて各縁起の実体をも否定)、「智慧」・「悟り」すらも実体は無く、更にはお釈迦様が説かれた重要な「四聖諦」の教説も実体が無いと説明して、あらゆるとらわれ、しがみつき、こだわり、執着を無くした涅槃の境地を目指して、般若波羅蜜を完成させなければならない、としているのであります。

 もちろん、最終的には、言葉・言説・戯論を超えたところを示そうとしているのであり、このことを理解できない限りは、般若心経をどうしてもただの否定辞の羅列として虚無主義的に扱うことになってしまうので、やはり注意が必要であると考えます。

 ここでは各単語・語句についての詳しい説明は、これまでの施本の内容においても扱っておりますので省かせて頂きますが、分からないものがありましたら、また各自においてお調べ頂ければと存じます。

 また、般若心経の最後における「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰わく、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若波羅蜜多心経。」につきましては、真言(マントラ)的要素、呪術的要素が強くあり、この部分の解釈は大きく分かれることがあります。

 「それゆえに人は知るべきである。-智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実である、と。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)ここに、智慧の完成の心が終わった。」

 この部分の私的解釈は今のところ控えておきたいと存じます。

・・第四章ここまで。

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2008年12月11日(Thu)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第三章 般若思想の理解

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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第三章 般若思想の理解

 般若思想とは、空(実体の否定)・般(はん)若(にゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)(最高の智慧の完成)を中心に説く教えであり、般若経典は数多く著されています。代表的な般若教典の集大成としましては、玄(げん)奘(じょう)三(さん)蔵(ぞう)法師が翻訳・編纂した「大般若経」があります。

 また、皆さんになじみ深いのは、何と言っても「般若心経」でありましょう。般若心経につきましては、次章にて詳しく扱いますので、この章では、大まかな般若思想について、私なりにまとめてみたいと存じます。

 般若教典群は、大乗仏教運動が起こったのと同時に形成され始めました。ここで大乗仏教運動が起こる以前のことについて簡単に触れておきます。

 お釈迦様入滅後、仏教の大切な教えの多くは、仏弟子たちの暗記・口伝において継承されていきました。もちろんそれは、お釈迦様が教えを文章化することを禁止されていたからでもあります。つまり、仏教の真理は、言説・戯論を超えた「言語道断」のところであるため、当然に言葉・文字に表してのとらわれ執着することからも離れなければならないからであったと考えられます。

 しかし、暗記・口伝において次第に教えの解釈が、曖昧化していく傾向が出始めたため、何度か教えを統一させるために弟子たちが一同に集まって仏典(ぶってん)結集(けつじゅう)が行われ、また、曖昧化を避けるべく文章化されていくことにもなりました。

 しかしながら、お釈迦様が入滅されてから百年〜二百年経った頃に、何度かの仏典結集後、教団内部における教理上の解釈の対立が著しく激化してしまい、教団は進歩的立場の「大衆部(たいしゅぶ)」と保守的立場の「上(じょう)座(ざ)部(ぶ)」の二つに分裂してしまう事態が起こりました。これを「根本分裂」と言います。

 それから、両部においても激しく分裂を繰り返し、部派仏教時代を迎えます。その中で、特に上座部系から分かれた部派の一つである「説(せつ)一(いっさい)切(いっさい)有(う)部(ぶ)」が大きな勢力を持ち始めることとなりました。

 「説一切有部」は、「三(さん)世(ぜ)実(じつ)有(う)・法体(ほったい)恒(ごう)有(う)」の教えを説き、あらゆる存在を緻密に科学的に分析し、そして、その上でそれぞれには構成要素としての「法」(ダンマ)があり、その「法」(ダンマ)は過去・現在・未来の三世において、常に実在しているとする考えでありました。当時、この実在論を支持する部派は数少なくありませんでした。

 しかし、次第にこの「法有」、実在論の考えについて、お釈迦様の説かれた「諸法無我」の教えから改めて見直す機運が高まり、「法有」、実在論の部派たちを「空の論理」で激しく批判する運動が起こり始めます。

 それが「大乗仏教運動」と呼ばれるものであり、その中核となったのが「般若思想」であります。

 「空の論理」は、原始仏典においても既にその萌芽が見られ、「ウダーナヴァルガ」には、『「一切の形成されたものは空である」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。

 このことは、「一切皆空」・「諸法皆空」としても表されます。ウダーナヴァルガ中における「一切の形成されたもの」については、第二章の諸行無常における「諸行」と同様で「認識・判断において事物・存在を実体的に形作って捉えてしまった上での意思・行為」であり、「諸法」の場合も、第二章の諸法無我における「諸法」と同意で「認識・判断して形成された存在・事物」ということであります。

 もちろん「一切皆空」・「諸法皆空」も世俗諦の扱いの教説であることには注意しておかなければなりません。それは、最終的に「空」にも「不空」にもとらわれてはいけないということであります。

 つまり、中論・「観行品」(第十三・第八偈)『もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか〔が存在することになるであろう〕。〔しかし〕非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。』、中論・「観如来品」(第二十二・第十一偈)『「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕、「不空である」、「両者(空且つ不空)である」、また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし、〔これらは〕想定(仮に説く)のために説かれるにすぎない。』ということであります。

 さて、空の論理は、あらゆる実体を否定する手法であります。「これには実体がない、あれにも実体がない」として、否定辞が多く用いられます。それがゆえによく「何も無い」と虚無主義的に解釈されることがありますが、それは大きな誤解であり、あくまでも「実体」が「有る」としているものについて、とらわれて、しがみついて、こだわれる、執着できるような、そんな「実体は無い」と言うことであります。

 また、後に展開されてゆく中観思想にも繋がるところですが、本来的には、あらゆる一切は、「有」だとも「無」だとも言えない、「生」だとも「滅」だとも分けることができない、とらわれることを許さない「不二」・「平等」・「無分別」、つまり「非有非無」・「不生不滅」が般若思想の一つの要諦にもなるのであります。

 「空」の目指すところは、実在論の否定から完全なる「無執着」にあります。実在論者が「有る」・「無い」、「生じる」・「滅する」と、とらわれている全てのものを否定していくわけで、それは、「有る、無い」または、「生じる、滅する」としてとらわれてしまうようなものから、「無明・煩悩」と「智慧・悟り」、「輪廻・迷い」と「解脱・涅槃」に至るまでにも及び、更には、お釈迦様の大切な教説「苦・集・滅・道の四聖諦」でさえも、そのとらわれを離すために否定し、実体否定の例外は一切なかったのであります。

 また、「空」については、あらゆるものは、何かとらえられるような実体があるわけではなく、それはあたかも「幻の如く」であるとも説かれ、夢・泡・影・露・電・水月・陽炎などとして比喩表現されてもいます。その表現は、後にも詳しく述べますが、「縁起」において「仮」に言えるだけのものに過ぎないということであります。

 そして、最終的には「非有非無」でさえも、そのようにしてとらわれる実体も無いとし、「非有非無」も無いとし、更に言葉・言語・言説において示されるものもあくまでも「仮」のものとして、その実体をあまねく否定し尽くした上で、言説・戯論を超えた「般若波羅蜜の智慧」のありようを限界まで空の論理で示していこうとしたのであります。

 般若思想、それは「法有」から「法空」へと至らしめるために徹底的に展開された実体否定の作業であったと言えます。

 般若教典の一つである金剛般若経における代表的な表現として「Aは非Aにして、ゆえにAといわれる。」・「Aは非Aであり、それによってまさにAである。」、いわゆる「即非の論理」がありますが、非Aというのは、実体が無いという「空」を示し、「Aというものは、Aという実体が無い、ゆえにAといわれているだけに過ぎない。」と解せますが、非常に難解な表現であります。

 また、般若心経における難解な表現として特に挙げられることが多い「色即是空 空即是色」を考えて見ますと、この場合の「空」というのは「実体が無い」ことを示すもので、○には実体が無い、「非○」と表してみると「○即是非○ 非○即是○」として、「即非の論理」と同様のことを述べていると思えます。

 もちろん、「Aは非A、非AはA」というのは、論理学の同一律を犯しているものであり、通常、私たちが普通に考えるならば理解はできないものとなるでしょう。

 「即非の論理」は、言葉の世界そのものについてのとらわれ、執着を離すために、あえて世俗的な面にて空を示すために説かれたものとして、「言葉」や「名称」にその何か実体があるわけではない、だからこそ「言葉」や「名称」で言えるのだということであり、それは、「Aは非Aにして、ゆえにAといわれる。」、つまり、Aは、BでもCでも何でもそれぞれ置き換えることができるということであり、その真意は、「言葉」や「名称」というのは、別に実体として固定して決まったものがあるのではなく、世俗上、仮(仮名として)であり、あくまでも便宜的なものに過ぎないということを示したのであります。

 しかし、「色即是空 空即是色」という表現、「即非の論理」は、やはりどうしても矛盾的表現であるため、それをもって「空の論理」を理解するのはなかなか容易でなく、虚無主義的傾向に陥ることもある意味で仕方のないことであったようにも思います。

 そこで、実体の否定についての説明を「縁起」の観点から更にとらえて空の論理を展開する中観思想が登場することになったと考えられます。

 さて、ここでは般若思想について、空の論理を中心として述べさせて頂きましたが、更に大乗仏教運動の特徴としまして、修行者・教法の分類として、声 (しょう)聞(もん)乗(じょう)・独(どく)覚(がく)乗(じょう)に留まることを批判しての菩(ぼ)薩(さつ)乗(じょう)の登場、出家者主義から在家者主義中心への転換、自利利他・慈悲の実践、六波羅蜜の実践、諸仏・諸菩薩への信と帰依、供養・廻向の始まりなど、「般若波羅蜜の智慧」のために必要な教えが次々に展開されていきます。

 第七章「仏教の実践」において、自利利他・慈悲の実践、六波羅蜜の実践については詳しく述べております。その他につきましては、紙面の都合上、詳しく触れませんが、是非、それぞれについても各自で学びを進めて頂ければと存じます。

・・第三章ここまで。

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2008年12月10日(Wed)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」二、仏教・基本法理の理解
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第二章 仏教・基本法理の理解

 まず仏教の基本法理につきまして整理して参ります。四法印と呼称されます「諸(しょ)行(ぎょう)無(む)常(じょう)」・「諸(しょ)法(ほう)無(む)我(が)」・「一切(いっさい)皆(かい)苦(く)」・「涅(ね)槃(はん)寂(じゃく)静(じょう)」でございます。

 仏教の基本法理につきましては、これまでも各施本においても扱わせて頂きましたが、現時点における私なりの解釈について、更に本論においても最初に記しておきたいと思います。

 まず、「諸行無常」であります。原始仏典の一つである「ウダーナヴァルガ」においては、『「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。

 ここで「諸行」とは、「一切の形成されたもの」と訳されています。「諸」は「一切」と理解できますが、「行」については、少しわかりにくさがあります。

 参考ながら、これまでの施本において「行」については、五蘊の説明における「行」の意味としての「意思・行為」、そして、十二縁起の説明における「行」として、「無(む)明(みょう)・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって積み上げてしまう行為」と述べさせて頂いています。

 今回はこれまでの「行」の説明とも併せて少し考えてみます。

 原始仏典では、「行」について「つくられたもの」という表現がよく出てきます。これは「形づくられたもの」と解せますが、五蘊の「行」、十二縁起の「行」と併せて考えますと、「無明・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって、様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」、「主客の二分から始まる虚(こ)妄(もう)分別(ふんべつ)によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」と言えるのではないだろうかと考えます。

 また、空論的に述べてみますと、「認識・判断において、存在・事物を実体的に形作って捉えてしまった上での意思・行為」と言えると思います。

 次に「無常」、「常で無い」ということですが、これは、止まらない、移ろい変わりゆく、ということであります。ここで気をつけておかなければならないのは、「無常(非常)」とは、「常」という対立概念があって成り立って言えているということであります。

 いわゆる縁起関係の「常によって無常があり、無常によって常がある。」ということにおいて、「常」も「無常」も言えるだけのことであります。それはつまり、私たちが「常」と、とらわれて執着してしまっていることの前提があって、「常」を否定できる「無常」が言えるだけのことに過ぎないということです。

 私たちが「常」としてしまっている前提のもの、それが、「諸行」であり、「無明・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」、「主客の二分から始まる虚妄分別によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」という前提を課している点については、実に重要であると考えます。

 つまり、本当は縁起・空・仮(け)名(みょう)・仮有(けう)・中道として実体のないものについて、様々に形あるものとして認識・判断して、形を作り出し、そこにとらわれてしまっている意思・行為のために、本当は、「常」も「無常」もどちらでもないにも拘わらず、そのことが分からずに、「常」にとらわれて執着してしまうことを避けるために、「常」としてしまう「諸行」を前提として、その「諸行」は「無常」であるとして「常」を否定しているだけなのであります。

 それは、「諸行」の前提から離れることができれば、「常」にも「無常」にも、とらわれてしまうことがなくなるということでもあります。

 このことを理解しておかないと、空論的「無分別」から考えますと「諸行無常」を理解することができなくなってしまう恐れがあると危惧します。つまり、簡単に言うと、実体のない空から考えると、「非有非無」・「不生不滅」ですが、「つくられたもの」は、「有るということ」と「無いということ」のいずれかにとらわれてしまっている、「生じるということ」と「滅するということ」のいずれかにとらわれてしまっている、ということであります。
 「無常」を「生滅変化している」として説明する場合、「一切のつくられたもの」においては、「生と滅の分別にとらわれてしまっている」ということでの扱いとなりますので、気をつけておかなければならないと考えます。

 更には、「一切のつくられたもの」が、つくられなくなった時、つまり「無分別」の時、「常」も「無常」のいずれにも、とらわれないという空・中道を理解しておければ良いということであります。

 次に、「諸法無我」であります。「ウダーナヴァルガ」においては、『「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。

 「諸法」の「法」については、「ウダーナヴァルガ」では「事物」と訳されていますが、「認識・判断して形成された存在・事物」のことであると解します。仏法の「法」の場合は、「真理」を意味するものであり、「諸法」の「法」とはニュアンスが異なります。

 また、「法」を五蘊(色・受・想・行・識)とすることもあります。この場合、後にも触れますが、般若心経にあります「五蘊皆空」は、「諸法無我」とほぼ同意の内容になると解することができます。

 次に「無我」ですが、「我が無い」とは、「実体が無い」ということであり、よく誤解されます「何も無い」ということではありませんので注意が必要となります。

 もちろん、「非我」も同意であり、「我が非ず」となりますが、私たちは、「認識・判断して形成された存在・事物」に色々と言葉・言語・言説(ごんせつ) を用いて、名前を付けて共通認識として、その存在・事物に「実体としての我」を与えて、様々な存在・事物を理解しようとしますが、その存在・事物についての名前は、あくまでも「仮」に設けただけのものであり、その存在・事物の実体が何かあるというわけではありませんし、何も無いというわけでもありません。

 つまり、「仮名」・「仮有」と言うことであります。

 ですから、どんなに存在・事物に名前を与えても、永遠、永久に「それがそれである」と言えるものは、どこを探しても見あたらないのであります。

 また、当然に名前は「仮」であるため、例えどんな名前を付けたとしても別に構わないのであります。それは、これしかダメであるというような実体としての何かがあるわけではないからでもあります。AでもBでも、1でも2でも別に何でも本当は良いのであります。仮に便宜上、認識・判断するために一応、名前を設けているだけなのであります。

 さて、「無我」についても、「無常」と同様に気をつけておかなければならないのは、「無我(非我)」とは、「我」という対立概念があって成り立って言えていることになります。いわゆるこれも縁起関係の「我によって無我があり、無我によって我がある。」ということにおいて、「我」も「無我」も言えるだけに過ぎないということです。

 それはつまり、私たちが「我」であると、とらわれて執着してしまっているという前提があって、「我」を否定できる「無我」が言えるわけであります。

 私たちが「我」として、とらわれてしまっているもの、それが、「諸法」であり、「認識・判断して形成された存在・事物」という前提を課している点が、実に重要であると考えます。

 つまり、本当は縁起・空・仮名・仮有・中道として実体のないものにも拘わらず、様々に「認識・判断して形成された存在・事物」を実体として、とらわれてしまっているために、本当は、我でも無我でもどちらでもないということが分からず、「我」(実体)に執着してしまうことを離すために、「我」としてしまうという「諸法」を前提として、その「我」は「無我」であると否定しているだけなのであります。

 このように「諸行無常」と「諸法無我」という教説については、施本「仏教・空の理解」でも述べさせて頂きましたように、「世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦」からの理解も重要であり、あくまでも世俗諦として、「常」・「我」にとらわれて執着してしまっている者たちに対して、お釈迦様が「無常」・「無我」と説かれた教えなのであります。

 このことは、中論・「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』、中論・「観法品」(第十八・第八偈)『一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。』とありますが、つまり、お釈迦様は、「常」・「我」にとらわれて執着している者には、「無常」・「無我」を説き、「無常」・「無我」にとらわれて執着している者には、「常」・「我」を説き、「常・無常」・「我・無我」のどちらにも、とらわれて執着している者には、「無常・無無常」・「無我・無無我」を説いたということであります。

 さて、次に「一切皆苦」についてでありますが、「ウダーナヴァルガ」においては、『「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』とあります。この場合の「一切の形成されたもの」については、諸行無常の「諸行」と同意であり、「無明・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって、様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」、「主客の二分から始まる虚妄分別によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」というものであり、それは「苦しみ」であるということであります。

 ですから、諸行は無常であり、また、諸法は無我であると明らかな智慧をもって観ることによって、真理を知り、虚妄分別を無くし、とらわれるもの、執着するものが無くなれば、苦しみから遠ざかり離れることができるようになるということであります。

 施本「仏教・空の理解」においても、「思考・思慮・思惟(しい)して、この世におけることを分別して相対判断・認識している以上は、必ず相対矛盾が生じてしまい、迷い苦しむことになります。」と述べましたように、「無分別」の理解が迷い苦しみを無くす上でも重要なことになるのであります。「無分別」の理解については、後の章において扱うことと致します。

 最後に、「涅槃寂静」についてでありますが、「常・無常・非常非無常・非非常非非無常」・「我・無我・非我非無我・非非我非非無我」、つまりは、「有・無・非有無・非非有非無」という四句分別を超えて、もはや戯論が滅されて、言葉では語りえない、つまり「言語道断」となって、存在・事物を虚妄分別して形成してしまうことで認識・判断したことによる意思・行為も無くなって、無明の闇、愚かさ、煩悩を滅して、一切へのとらわれ執着も無くなり、迷い苦しみから完全に離れたという状態のことであります。

 このことを、中論では、「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』と示されています。

 また涅槃について端的に示した偈として「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」がありますが、これはウダーナヴァルガにおける、「諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。」であります。

 この偈について、私の再解釈としましては、「一切の形成されたものは無常であり、生じては滅するという性質であるが、それは存在・事物を虚妄分別して形成してしまって、その形成してしまったものを認識・判断しての意思・行為の中、存在・事物を何か実体が有るものとして、または何かその実体が無くなるものとして、「有・無」や「生・滅」などの分別にとらわれてしまい、いずれかに執着して、悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想(虚妄分別)を静めて、縁起・空を理解し、非有非無、不生不滅など無分別なることを知って、ついには言語道断・戯論寂滅となり、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」として、解釈を整理させて頂きます。

 以上、仏教の四法印につきまして改めて述べさせて頂きました。

 また、「世俗諦と勝義諦の二諦」から考えますと、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」は世俗諦の扱いの教説として、「涅槃寂静」は勝義諦に近い扱いの教説として示されていると解することができるのではないだろうかと思います。

・・第二章ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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2008年12月09日(Tue)▲ページの先頭へ
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」一、はじめに
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第一章 一、はじめに

 この浅学非才、未熟者の身ながらも、これまでに施本「佛の道」・「仏教〜・一枚の紙から考える〜」・「仏教・空の理解」と発行させて頂きました。

 この度は、仏教の理解のために、更に一歩進めまして、この施本を執筆させて頂きました次第でございます。

 仏法の真理の理解へ向けまして、またこの未熟者なりに少しは近づけたのではないだろうかと僭越ながらも考えております。

 また、できましたら本論を読み進めて頂きます前に、施本「佛の道」・「仏教・〜一枚の紙から考える〜」・「仏教・空の理解」をまずはお読み下さいますことをお願い申し上げます。これら前三施本の内容を前提としまして、本論を著しておりますので、重複する内容は極力、省かせて頂いております。往生院六萬寺のホームページの方でも全文公開させて頂いておりますので、まだの方はそちらでもご確認して下さいませ。

 インターネットをされていない方には、施本の数に余裕がございましたら、ご送付させて頂きますので、お気軽にお申し付け下さい。

 この施本が、これから読者の皆様方が仏教の学びを進められる上におきまして、少しなりともご参考になるところがございましたら、誠に幸いでございます。

 また、仏教の真理につきまして、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが、絶対的に正しいとは私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの考え方・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意(しい)的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然に、まだまだ私自身においてもしかりでございます。

 内容に関しましては、必ずご批判、ご反論もあることと存じます。ご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けまして、今後更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てきましたら、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更して参りたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容は、まだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことをまずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

 川口 英俊 合掌

引用について……

 「ウダーナヴァルガ」・「ダンマパダ」の邦訳につきましては、〔ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元訳 岩波文庫〕から、「中論」の邦訳につきましては、〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕からの引用でございます。

・・第一章ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年12月08日(Mon)▲ページの先頭へ
施本・第四弾「仏教・空の理解から学ぶ」最終校正編集
施本・第四弾「仏教・空の理解から学ぶ」、最終校正編集の打合せが終わりました。いよいよ発行となって参ります。ホームページでは12/15前後に公開させて頂く予定であります。また、是非お読み頂きまして、ご叱正、ご批正を賜りますよう、何卒にも宜しくお願い申し上げます。第四弾の要諦は、「縁起を見る者は、法(真理)を見る。法(真理)を見る者は、縁起を見る。」でございます。

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2008年12月06日(Sat)▲ページの先頭へ
次回施本・第四弾「仏教・空の理解から学ぶ」
次回施本・第四弾「仏教・空の理解から学ぶ」、いよいよ最終校正に入ります。また発行後、ホームページの方にても全文公開させて頂きます。恐らく12/15前後に公開をさせて頂くこととなるかと存じます。お読み頂きまして、ご叱正、ご批正を賜りますよう、何卒にも宜しくお願い申し上げます。


一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
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九、仏教的生き方
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カレンダ
2008年12月
 
     

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