施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第五章 中観思想の理解・上






2008年12月13日(Sat)
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」第五章 中観思想の理解・上
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
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一、はじめに
二、仏教・基本法理の理解
三、般若思想の理解
四、般若心経の理解
五、中観思想の理解
六、唯識思想の理解
七、仏教の実践
八、縁起・空の理解からの実践
九、仏教的生き方
十、最後に

第五章 中観思想の理解・上

 中観思想につきましては、前回の施本「仏教・空の理解」におきましてある程度、詳しく取り上げさせて頂きました。

 ここでは、更に補足・補完しておきたいことを中心に述べていくことと致します。

 さて、中観思想の基本的な論理は、「縁起・無自性・空の論理」、「空・仮・中の三諦」、「世俗諦と勝義諦の二諦」であります。

 般若思想の空の論理を、更に発展したものとして著されたのが「中論」であり、その著者が「龍樹(ナーガールジュナ)」であります。龍樹は、実体の否定を理論付けていくために、特に「縁起」をその中心論点として据えます。

 「縁起」について、よく世間においては、「縁起が良い・縁起が悪い」と使いますが、この場合の縁起は、「原因・条件」を示すものであり、中論の示す「縁起」とは異なりますので、注意しておかなければなりません。

 では、中論の示す「縁起」とは何か、それは、あらゆる一切の存在・事象は、「相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的」なるがゆえのありようで、そこには固定した実体としての存在は無いものとして「無自性」・「空」を説くのであります。

 相互依存的・相資相依的というのは、他に依りて成立しているということですが、例えば「長い」という概念は、「短い」という概念に依存して言えるわけであり、「きれい」という概念も「汚い」という概念があって言えるわけであります。

 それは、「有と無」・「表と裏」・「正と誤」・「善と悪」・「苦と楽」・「不安と安定」・「生と死」・「愛と憎」・「戦争と平和」・「明と暗」・「白と黒」・「右と左」・「上と下」・「男と女」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○には快・幸などの語が入る)」などのあらゆる二項対立・二元対立も同様であります。

 これらは、「AによってBがあり、BによってAがある。」として、この縁起関係においてだけ、AもBもただ言えるに過ぎないということであります。

 法有・実在論者は、「AはAの実体としての『ありかた』があり、BはBとしての実体としての『ありかた』がある。」として、それぞれは独立した実体として「法(ダンマ)」が存在すると主張しましたが、まさに中観思想は、「縁起」によってその誤りを批判したのであります。

 もしも「表」と「裏」が、それぞれ実体としての「ありかた」があるとすれば、「表」は「表」だけで存在できることとなりますが、この世において表だけの何かが成り立つのかと言えば、表だけの紙・本・人などは当然に見あたりませんし、もちろん、「裏」も同様であります。「表」も「裏」も「表によって裏があり、裏によって表がある。」と言えるだけなのであります。表だけの何か実体があるわけではなく、裏だけの何か実体があるというわけではないのであります。

 それはまた、「表」も「裏」もどちらがどちらと決められるような実体が無いということでもあり、もしも、「表」という実体があるならば、誰がどのように見ても「表」と答えるでしょうが、ある別の人から見たら違うとされたり、時代や慣習、風習、価値観などの違いで「表」のことが「裏」となったり、「裏」のことが「表」となったりすることは当然にあります。

 このことは、「正と誤」・「善と悪」などを考えれば容易に理解できることであると思います。「正」・「誤」「善」・「悪」というそれぞれに何か実体があるわけではありません。どちらにも執着はできませんし、本当はどちらともにもとらわれることもできず、更にはどちらがどちらとも本当は言えないものでしかないのであります。

 それはつまり、あらゆるものは、「縁起」においてのみ表し示すことができるというわけであります。「縁起」関係を抜きにしては、何も表し示せないのであります。

 いずれにしましても、どのような観念・概念・存在・事象でも必ず何かとの縁起関係によって仮に成り立っていると言えるだけのもので、そのものだけで孤立して独立して固定した実体として成り立っているものではなく、あくまでも世俗的に「縁起」関係において観念・概念・存在・事象が成り立っているということであります。

 また、色(物質・肉体)、受(感覚・感受)、想(表象・概念)、行(意思)、識(意識・認識)の五蘊も「縁起」において、それぞれも世俗的に相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的において仮に成り立っているだけのものとして、実体の無い、つまり「空」というわけであります。ゆえに「五蘊皆空」と般若心経でも表現されているのであります。

 この「縁起」関係について中論では、「観四諦品」(第二十四・第十八偈)『およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。』として、世俗的に成り立っているあらゆるものは、あくまでも「縁起」として成り立っており、そのことは、つまり、「実体が無い」という「空」であり、それは、一応は「AによってBがあり、BによってAがある。」というようにAもBも「縁起」関係によって「仮」として設けられた成り立ちで言えるだけのものであり、「仮」というのは、つまり、AもBも本来的には、Aだ、Bだとして、とらわれて分けることもできないということで「非A非B」であり、Aだ、Bだとして、AやBが有るというわけでもなく、また全く何も無いというわけでもない、「非有非無」であり、それがすなわち「中道」である、ということを示していると考えます。

 次に、中観思想における「縁起」について更に理解を深めていく上で、「四句否定」について触れておきたいと思います。

 代表的な「四句否定」として「四不生」がまず中論においては取り上げられます。それは「自生」・「他生」・「共生」・「無因生」の否定であります。

 中論・「観因縁品」(第一・第三偈)『もろもろの「存在(もの・こと)」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。』として、これは、「自性」があるとする実体論者に対して、その「自性」を否定するために、また、「縁起」は「原因によって結果が生じる」という意味ではないというために説かれました。

 私自身という実体があるとして、「自生」とは、事物が、自体から生じる、そのもの自体からそのもの自体が生じる、つまり原因と結果が同一ということで、例えば、私自身は私自身から生じるとなれば、既に存在しつつある私自身から更にいくらでも私自身が生じることとなりますが、そのようなことはありえません。

 「他生」とは、事物が、他から生じる、原因と結果が別異ということで、私自身が他人という実体から生じるということになりますが、それならば、いくらでも私が生じることになる、更には、一切のものから一切のものが生じることにもなりますが、そのようなことはありえません。

 「共生」とは、自と他の両者から生じる、つまり、私自身が、私自身と他人との両者から生じるということで、原因と結果が同一なることと、原因と結果が別異であることとのどちら共から私が生じるということは、先に示した「自生」も「他生」も成り立たないことからも当然に「自と他」共から生じることもありえません。

 「無因生」とは、事物が、原因がないのに生じる、自でもなく、他でもないようなものからでも生じる、つまり私自身が私自身でもない、他人でもない、何ら原因がなくても生じるということになり、それならば常に私自身が生じるということになり、更には一切のものから一切のものが生じるということにもなりますが、そのようなことはありえません。

 このようにして、自性としての因果関係の成立を全て否定し、無自性としての「不生」を示したのであります。「四不生」については、もちろん「不滅」も同様であり、「不生不滅」について説明したものであります。

 「不生」をもう少し簡単に述べますと、もしも、あるものに実体が有るとするならば、その実体有るものが更に生じるということはありえない、また、もしも無いとするならば、無いものが生じるということもありえない。更には有るとして無いとするものも生じることはない、ということでもあります。

 「観因縁品」では次に「因縁」・「次第縁」・「等無間縁]・「増上縁」についての「不生」も論じ、自体としては、条件・原因からいかなるものも結果として生じないと説いています。

 このようにして中論では、徹底して実体を否定していくための論理が多く展開されます。それは冒頭において、まず縁起の「八不」を述べていることからも伺えます。

 「観因縁品」(第一・第一偈、第二偈)『〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、』、『〔また〕戯論(想定された論議)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。』

 龍樹は、中論において、「四不生」を代表するような「四句分別」〔有・無・非有無・非非有非無(有・無・非有非無・非非有非非無)〕の論理を用いて、縁起をもって一切の自性を否定し、無自性なる空を示しながら、最後に「空によって不空があり、不空によって空がある。」という縁起関係で、空も不空もただそれだけで言えているだけに過ぎず、空も不空も超えて、戯論の寂滅へと導こうとしたのであります。

 次に「世俗諦と勝義諦の二諦」についても扱いたいと存じますが、基本的な考え方につきましては施本「仏教・空の理解」・第四章をお読み頂ければと存じます。

 「世俗諦」とは「世俗における真理」のことであり、普通に生活している日常的な営みにおけること、又は、概念・観念・言語活動において、厳密に考察されない限り、一応、一般的・習慣的には正しいと認められている真理のことであります。

 「勝義諦」とは、概念・観念・言語活動を超えて、言語道断で戯論が滅された真理のことであります。

 更に「勝義諦」を、戯論の滅された勝義諦と、その勝義を指向するものとに分けて説明する場合もあります。

 勝義を指向するものとは、世俗的な概念・観念・言語活動を含んで、勝義真理へと向かうヒントを表したものについては、一応、世俗諦と切り離して考えるということであります。

 例えば、縁起の八不、無自性・空・仮・中道を理解するために説かれる表現・論理・智慧・修行方法などであります。

 ただ、この場合の勝義を指向するものも、あくまでも世俗諦とする立場もあり、議論の分かれるところですが、私的には、真なる勝義へと至るための、その手段・段階・階梯を概念・観念・言語活動などでギリギリ限界まである程度は示された方が、より明らかに目的である最高真理に近づくことができるようになるのではないかと思います。

 ただ、この勝義諦を分けてしまうことは、やがて中観思想が大きく二派に分かれる原因となりました。

 それは、勝義的にという条件付きにおいて、積極的に立論を展開して、勝義諦を示そうと努力する自(じ)立(りゅう)論証派と、あくまでも反対論者・批判論者の立論を論破することのみに論理を用いて、その立論の誤りを正すことだけに専念し、戯論を滅することに努力する帰(き)謬(びゅう)論証派であります。

 その詳細につきましては、紙面の都合上、これ以上は触れませんが、機会がありましたらまた詳しく論じてみたいと存じます。

 さて、中観思想について改めてここでまとめますと、法有論者・実体論者の主張する論理の誤謬を批判していく中で、縁起(「AによってBがあり、BによってAがある。」)している(相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的なる)もの、それはただ縁起的関係においてのみAだ、Bだと言えるだけのことで、何かAだ、Bだというような実体がそもそもあるわけではない、つまり、それは「無自性・空性」であることと説き、それは、Aだ、Bだと言うのは、言葉によって仮に設けられただけのもの(仮名・仮設・仮有)であって、すなわち、中道(非有非無、AだBだというものが、有るとも言えないし、全く何も無いということでもない)である、ということを明らかにしました。

 更に中論は、縁起の抱える複雑な関係性についても示していきます。

 前回施本においても取り上げました縁起関係が内包している相対矛盾・対立矛盾についてであります。

 ……「観燃可品」の章において、「燃えている薪」のありようについて、私たちは、どこからが火で、どこからが薪なのかは、はっきりと区別して知ること、分けることは誰にも不可能なことですが、私たちは、そのありようを見て、「火」があって、「薪」があると言います。

 では、「火」と「薪」を本当に分けてしまったらどうなるのかと言いますと、当然に火は火自体では存在できず、燃料がなければ「火」は消えてしまい、「火」は存在しえなくなります。また、薪も薪が燃料として存在するためには、火がなければならず、火と分けてしまうと、薪はただの木片になってしまいます。

 両者は一体として、そこに火があり、薪があると言えるわけであります。いわゆる「二而不二(而二不二)」のありようを呈しています。

 ここで更に両者を分けて一体のものと考えると、より複雑な関係性が浮かび上がることになります。

 両者の一方を肯定させていこうとすれば、そのまた一方は否定されることになるという関係性であります。例えば、火が炎として燃え盛っていく(火の肯定)ならば、薪は、徐々に小さくなり、燃料としての立場が弱くなっていく(薪の否定)こととなり、逆に火が炎を弱めていく(火の否定)と、薪は、燃料としての立場が強くなっていく(薪の肯定)ことになるという、相対矛盾のあり方を露呈してしまうのであります。

 更に、その両者の進行は、最後に皮肉な局面を迎えることとなります。

 火が炎として激しく薪を燃やし続けていけば(火の肯定の進行)、薪は徐々に小さくなって(薪の否定の進行)、やがて薪が燃え尽きてしまった時(薪の完全否定)、そこには火の存在できる場所が無くなり、火も消え去って、火は完全に否定されることとなってしまいます。

 同様に、火の炎の勢いが弱まっていけば(火の否定の進行)、薪は徐々にその燃料としての立場が強まり(薪の肯定の進行)ますが、やがて火が消えてしまった時(火の完全否定)、そこには薪の燃料としての立場も無くなり、薪は単なる木片となってしまって、完全に薪、燃料としてのありようは否定されることになってしまいます。

 このように相対する両者の関係は、分けて考えてしまう限りにおいて、対立を残していないと、結果的に両者ともに完全に相互否定に繋がってしまうという、対立矛盾の迷い・苦しみを如実に示すことになるのであります。
 このことからも、二項対立・二元対立の分別においては、いずれの側にも立つことができない、どちらも肯定、否定共にとらわれて執着してはいけない、ということなのであります。……


 また、「明」と「暗」のありようについても私なりに述べさせて頂きましたが、縁起関係における両者は、実体として分けてしまう限りにおいて、必ず相対矛盾・対立矛盾の中に陥ってしまうのであり、それを避けるために無分別の理解が求められるのであります。

 縁起関係として両者は仮に有るとして成り立っているとは説明するものの、実はその縁起関係でさえも、深い考察の末においては、矛盾が内包していることを理解して、縁起関係についてすらも、とらわれてしまうことを避けていくのであります。

 般若思想が主に掲げた否定の論理は、龍樹へと引き継がれ、一切のあらゆるものを論理的に否定し尽くした先には、「否定によって肯定があり、肯定によって否定がある。」の縁起すらも、もはや超越し、そこにはもう否定・肯定さえもとらわれるもの、執着するものがなくなって、無分別となり、「対が絶えた」という絶対の真理、つまり、思惟分別が無くなり、戯論が滅された、あるがままの真理へといざなわんがためであったのだと考えます。

 それは、法有論者・実体論者における一切の肯定作業によってでは、絶対に至るのに無理が生じてしまったものの、般若思想、龍樹に始まる中観思想が示したように、一切の否定作業によってのみ、絶対が可能であったということではないだろうかと思います。

・・第五章・上ここまで。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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カレンダ
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